第40話 倉本
土曜日、本条さんとランチをすることになっていた。彼女の知り合いが三ヶ月程前にオープンしたフランス料理らしい。誘われた時”私は薄情なの”と言っていた。
その店は新宿駅を南口から出て徒歩八分らしい。駅から店までは狭い路地を抜けるところに在り、待ち合わせは南口の改札を出たところになった。
彼女は十三時に予約を入れていた。急な話なのに予約が取れるのだから、彼女の知り合いには申し訳ないが、すぐに潰れるのではないかと案じた。
僕は早めに家を出た。ATMで現金を引出しその足で花屋に寄り、十分前に新宿駅の南口に着いた。五分ほどして彼女は現れた。
「こんにちは。お待たせしました」
「あと一回で優等生です」
彼女のみせたこれまでと違った表情は、初めての食事から時間を共にし、ひとつの山を乗り越えて、一緒に懊悩煩悶することで生まれる。僕はそんな事を彼女の笑顔の前で思った。彼女には笑顔でずっといて欲しいと思いつつも、できるだけ、彼女の色んな表情を見たいと、欲も出た。とても可笑しなことなのだが、彼女とは図らずともケンカもしてみたいと思ってしまったのだ。
彼女は笑顔からちょっと意地悪っぽく言った。
「後ろに何を隠しているの。いい香りがするわ」
「ああ、これのこと。これは友達のオープン記念にと思って。美咲さんから渡してください」
彼女は複雑な表情をしたがそれはすぐに笑顔に変わった。
「ありがとう。きっと喜ぶわ」
僕たちはぽかぽか陽気の中レストランに向かった。エントランスの前で彼女に花を手渡した。彼女はリセプションで名前を告げ『倉本さんは居ますか』と尋ねていた。
直前に予約したにも関わらず特等席に案内された。渡されたメニューを見て僕達はシェフお勧めのランチスペシャルを注文することにした。
「せっかくだからシャンパンで乾杯しません」と彼女は微笑んだ。
「飲みましょうか」
僕が食事を頼もうとした時、一人の男性が僕達のテーブルに近寄ってきた。
「美咲ちゃん、やっと来てくれたな」
僕は唖然とした。その男性は本条さんと軽くハグをしたのだ。彼女も嫌な素振りは見せなかった。僕自身『美咲』と呼んだことはないし、挨拶にしては距離感を誤っていた。秋でもないのに天候はかわりやすく、春のポカポカ気分が雲に隠れた。
「オープンおめでとうございます。遅くなちゃって」
僕は心の中で、今、なっちゃって、って言った?
「来てくれただけで嬉しいよ」
「とても雰囲気がいいな」
僕はもう一度しっかりと店内を見渡した。本当にそれ程良いのか、粗探しをした。
「それでそちらの方は」
「私の大切な人です」
倉本は美咲を見る目と同じ輝きで、僕を見て、
「申し遅れました。倉本と申します。素敵なお花をありがとうございます」
僕は畏まって、倉本と目を合わせるのを出来るだけ遅らせた。
「沢村と申します。よろしくお願いします」
倉本は髭を蓄えていた。その外見から四十歳前半で、レストランのオーナーらしく服装もブランド物だと僕でも分かった。いきなりの正念場か。
「美咲がそんな風に男性を紹介するのは初めてだね」
倉本には余裕が感じられた。
倉本の言葉に対して美咲は何も言わなかった。その代わりに倉本にお願いをした。
「倉本さん、美味しいシャンパン紹介してください」
「お安いご用。馳走するよ」
あまり嬉しくもないオファーだったが対照的に美咲は上機嫌だった。
「やった!」
僕が奢ろうというと彼女は遠慮をした。彼女と倉本がどんな容で時間を共有してきたのだろうか。倉本はシャンパンを選びに奥に下がって行った。
「だけど、レストランをオープンするなんて凄い人ですね」
「そうですね」
本条さんはあまり興味なさそうに答えた。
「沢村さん、渡したいものがあるのです」
「僕に、ですか」
「はい」
と、彼女は言いながらカバンから大きな包みを取り出した。そう見えただけでサイズは手のひらに乗る程だった。
「開けて良いですか」
「はい」
僕はゆっくりとリボンを解いた。続いて包みをリボン以上に慎重に開いた。中には有名ブランドの文字が書いてあった。箱を開けた。それは、不思議なデザインのネックレスだった。
「とても素敵です」
「気に入ってくれて嬉しいです。そのデザイン何か分かりますか」
彼女は微笑みを浮かべながら僕に質問した。質問というべきなのか。
「いいえ、有名なデザイナーのものですか」
「それはアブンダンティアをデザインしたものです」
アブンダンティア……幸運の女神……
時計は懐中時計にしている。でも、例外の一つくらいあっても良い。しかし、例外はこのひとつで終わるのだろうか。次の例外から通常に変わる。
「本当にありがとう」
早速それを付けようとしたが、上手くできなかった。見かねた彼女は席を立って、僕の後ろに回りネックレスを付けてくれた。彼女が今日ランチをしようと言ったのだった。
生きたい……。どんな手を使っても……。
運命を変えないと。メールが作り上げた固いもの。首に飾られた柔らかいもの。以前は、それに立ち向かうことは地球の自転を逆転させる絶望感だったが、今はそれがぼやけて見えた。
背中に温かいものを感じた。同時に彼女の手が僕の胸の前で交差した。その手を僕は握り締めた。彼女の手に力が込められたことが分かった。どんなに強い力でも痛みを感じることは無かった。彼女の手を同じ気持ちで握り返した。レストランの特等席で。
「お二人さん、ここは私の店ですよ」
倉本がにっこりしながらシャンパンを運んで来た。
「あっ、倉本さん。ありがとうございます」
と僕は言った。彼女は話せる状態ではなかった。そっと彼女の手を握り直して、立ち上がった。そして、彼女を席まで連れて行った。
「沢村さん、私の大切な義妹をもう泣かせたのですか」
理由はどうであれ泣かせたのは僕が原因だったので、倉本に対して言葉がなかった。
「ゆっくり食事を楽しんでください」
「ありがとうございます」
倉本への嫉妬心は跡形も無く消えていた。
「美咲さんこれ大切にします」
僕はネックレスを握り締めていた。倉本から、本条さんの呼び方を引き継いだつもりではないが、美咲と呼ぶことが正しいと思った。
アブンダンティアがこれから側にいてくれる。僕はグラスを手に持った。
「美咲さん乾杯しましょうか」
彼女はゆっくりとグラスを手にした。
乾杯の言葉は必要ない。意思を伝える為の道具としては物足りない。グラスが言葉の代わりに響き、儚いグラスの中の無数の泡も、直ぐに消えるが再生される。
昼食は美咲の奢りとなった。実際に支払ったかは分からないが去り際に美咲が言っていた『姉がお家でも作ってですって』。
僕は彼女を自宅まで送る帰り思った。
『これで彼女を送るのは二度目』だと。
この前と違い今は昼間の表情を見せていた。道に舞っていた桜はもうそこにはいなかった。見上げると桜の木には花びらは残っていなかった。生命の営みには休暇がある。胸の上で静かに揺れている美咲からの幸運の女神。確実に時間は移り、尽きるものがあり、生まれるものがある。この前と同じ事を思った。
『あと何回桜の再生を、見ることができるのか』と。
今日から、本条さんのことを美咲と呼ぶようになった事を、これから会う片桐には気づいて欲しい。




