第4話 憧れ
僕には、社内で憧れている人がいる。
企画部にいる一つ年上の、本条美咲という人だ。
甘党の僕にとって、団子を食べられる口実があるだけで、十五夜の満月には他に何も望まない。
もう少しだけ謙虚に欲張るなら、田舎の夜道を照らして欲しい。たとえ満月の一%だとしても。
本条さんとは、僕にとってそんな存在である。
だから、月面着陸を夢見るなど論外であり、その場に国旗を立てたり、月面でキャッチボールをするなんて滅相もない。
できることなら、望月や明月、残月といった、満月以外の表情を一度でも見てみたい。それくらいでいいと思いながら、ずるずると今に至っている。
僕の課は四階で、彼女は七階だった。
自社ビルだったので、最上階にはちょっとした眺めを誇る食堂があった。
従業員数に対する食堂の面積は、東京の縮図のようで、各階を時間帯で区切らなければ、席を待つ人を背に食事をする羽目になる。
僕はグループ一、彼女はグループ二。
時間にして三〇分、僕のほうが先に昼食を取ることになる。
さすがにグループ分けに意見することはできない。
どんなに知恵を絞っても、総務部の振り分けは正当だった。
会社にいるときは、食堂を利用していた。
ゆっくり食事をすれば、彼女と交差する機会は増える。
しかし同僚は、フライング気味で席を立ち始める。しかも食べるのが早い。
だからエレベーターに乗るたび、せめて満月でなくとも、上弦の月くらいは、と期待したが、いつも裏切られた。
この小さな期待を味わえるだけで十分だった。
十分だと思い込ませていたのかもしれない。
過去に一度だけ、彼女に偶然会ったことがある。
結果は散々だった。
いつものようにエレベーターを待っていた。
珍しく、そこには他に誰もいなかった。
こんな経験は初めてで、災害の兆候ではないかと思ったほどだ。
エレベーターが到着し、そそくさと乗り込み、四階を選択した。
そのときだった。
ドアが三日月ほど開いたところで、再び新月に戻ったのである。
一人のエレベーターは、意外と落ち着く。
しかし、乗ってきたのは本条さんだった。こんなにも狭い空間に。
確か、月は地球に影響を与えると聞いたことがある。
僕は、ため息を吐くどころか、飲み込みそうになった。
対照的に彼女は、真っすぐに僕を見て言った。
「おはようございます」
思考力が停止した。
太陽よりも月のほうが、僕の内部温度を上げるとは思ってもみなかった。
「あっ、おはようございます」
なぜか丁寧語を使っている自分がいた。
まるで、年下であることを承知しているかのように。
「何階ですか?」
まさか、七階ですよね、などと言えるはずもない。
「二階、お願いします」
「えっ!」
思わず声が出た。
今さら後悔しても遅い。
「二階です」
彼女は、一回目よりややトーンを上げて答えた。
二階のボタンを押しながら、想像よりも彼女の声が低いことに気づいた。
本条さんの「おはようございます」は、僕の耳以外の感覚を麻痺させていた。
「はい」
なぜ二階なのだろう。
せっかく四階まで一緒にいられると思ったのに。
『確か七階ですよね。なぜ二階で降りるんですか?』
僕は、本条さんからどんな個人的な問い合わせを受けても、ストーカーだとは思わないし、ただ幸せな気持ちになるのだが——。
そうこうしているうちに、彼女は二階で降りていった。
「お先に失礼します」
彼女がエレベーターから降りる姿を、じっと見送った。
かぐや姫には、人を動けなくする力が備わっている。
僕の目と彼女の間には何もなかったが、彼女の姿は霞んで見えた。
エレベーターは、驚くほどゆっくりと閉まり始めた。
左右から彼女のシルエットを消していったが、
ドアには、消えたはずの姿が浮かんでいた。
上昇が始まると同時に、僕の脳内での再現も消えた。
僕の画像保持能力は、驚くほど衝撃に弱いらしい。
僕は、彼女の服装すら覚えていなかった。
残った香りだけが、彼女のシルエットを脳裏に鮮明に浮かび上がらせる。
依然として服装は再現できないが、裸の彼女ではない。
このときまで、彼女と会話を交わしたことはなかった。
外見だけで想像していた彼女は、言葉を交わしたことで、現実に上書きされてしまった。
そして一度上書きされた僕の中の彼女は、決して元には戻らなかった。
初めて言葉を交わしたことが、これまで以上に彼女を遠い存在にした。
かぐや姫が去ったときのお爺さんの気持ちが、少しだけ理解できた。




