第39話 ホイツク
片桐が契約を前向きに検討していることを伝えると、河本は契約書のドラフトはすでに仕上がっているので、これから向かうと提案してきた。しかし片桐はそれを断った。
「せっかくですから、こんな所ではなく、この間の所で会いませんか」
河本は即答しなかった。前回は最後にシャンパンを開けた。片桐の方から飲みに行こうと誘ったのだ。今回は『良い返事がもらえる』と踏んだのだろう。
寄り道をしたため、片桐はオホツクに遅れて到着した。河本はすでに待っていた。テーブルには星七がいた。もう一人、前回とは違う女性Cが座っている。
「片桐さん、お待ちしていました」
「遅くなり、すみません」
そう言いながら片桐は女性Cの隣に腰を下ろした。
「この前は楽しかったです。お元気でしたか」
星七はお絞りを渡しながら言った。
「ええ。星七さんは」
「寂しかったです。でも、こんなに早く会えるなんて、感激!」
星七は声のトーンを上げた。
「星ちゃん、分かりやすい反応するなぁ。財務省は私だからね」
河本は星七の腿を撫ぜた。
「星七さん、お二人とは、どんな仲なのですか」
女性Cが言った。
「この間、お二人でいらっしゃったの」
星七は河本に寄りかかった。
「そうなんですね。お気に入りの人でも?」
女性Cは続けた。
河本は星七を横目に、片桐に問うた。
「そうなのですか」
「さあ、どうかな」
「星七さん、前回は誰がお相手していたのですか」
今度は女性Cが、片桐の膝に手を乗せた。
星七は体勢を戻し、河本の水割りを整えて答えた。
「翠さん」
女性Cは目を細め、片桐を見た。
「新人の……。あの子、人気あるから」
河本は鞄から書類を取り出し、
「ドラフトだから、まだ上の承認は下りていませんが」
と言って片桐に手渡し、席を立った。
「ありがとうございます。ちょっと拝見します」
内容は、片桐が描いていた数字とほぼ一致していたが、返事は保留した。
河本は笑顔で戻ってきた。
「片桐さん、いかがですか」
「そうですね。もう少し頑張っていただければ、契約しますよ」
「それでも、かなり頑張ったんですが……」
「何のお話ですか」
女性Cは書類を覗きながら、率直に聞いた。
「仕事の話ですよ」
子供をあやすように河本は答えたが、女性Cはあやされなかった。
「河本さんは、どんなお仕事をされているのですか」
「まあ、あなたたちの人生のパートナーを、ね。二人は保険に入っている?」
「入っています。もしもの時に困りますから。次は河本さんにお願いしようかな」
河本は、まんざらでもなさそうだった。
「その時は、ぜひ連絡してね」
名刺を差し出す。
「分かりました。でも、私、頭が弱いから、ちょくちょく来ていただかないと忘れてしまいそう」
「それで、片桐さんは何をされているの?」
女性Cが片桐にも聞いたが、星七が答えた。
「社長さんなの。だから、お仕事もお忙しいの」
「へえ、いいなあ」
「社長と言っても、大変なだけ。今日も仕事だし」
話の途中で、ボーイが女性Cに声をかけた。別の客から指名を受けたらしい。
入れ替わるように、新しい女性がテーブルに着いた。
「やあ、これは、これは」
河本は立ち上がり、席を勧めた。
翠は片桐の隣に座り、片桐は二人の女性に挟まれた。
「前回のお話の続きを聞きたいと思っていたの。もう終わってしまった?」
「……あの話か。あれから特に進展はないですよ。もう、任せっきりですから」
「でも、少しくらいは進展あったでしょ?」
「だったら、この前みたいに、美味しいシャンパンを飲みながらにしましょう。片桐さん、いいでしょ!」
星七は勢いよくボーイに合図した。
片桐は、河本の星七を見る目を確認してから言った。
「今日は、私が奢りますよ」
河本は、受け入れた。
「片桐さん、ご馳走になります」
星七の声は弾んでいた。
翠が、すぐに切り出した。
「私、あれから考えていたの。やっぱり、自殺だったと思います。理由はご両親の借金以外に、別の理由で。本当の理由をカムフラージュするには、打って付けだった。でも、自殺を隠すには協力者が必要だったと思うの。
そして、その報酬として……」
『お待たせしました。シャンパンです』
「わーい」
星七は手を叩いて喜んだ。
翠はボトルを受け取り、開け始めた。危なげな手つきを見て、片桐が言った。
「貸してみて。考えてくれたお礼だよ」
「ありがとう!」
翠は、弾ける笑顔で礼を言った。
片桐の手が、一瞬止まった。
シャンパンを開けながら、もう一度、翠を見た。
「どうかしました」
「いや、別に」
片桐は、皆にシャンパンを注いだ。
「改めて、乾杯しましょう!」
河本は一気に飲み干し、言った。
「実は、国外逃亡した者は、今、ドイツのルートヴィスブルグにいるらしいのです」
河本の目は、遠くを眺めていた。
翠は目を見開き、片桐を見た。
「だったら、会いに行きましょうよ。そして真相を確かめるの。私の推理が正しいって、証明したいわ」
翠の膝が、片桐に当たった。
「何言っているの。そんなこと、できるわけないでしょう」
星七は呆れて言った。
河本は投げやりに言った。
「それじゃ、皆でドイツワインを堪能しようか」
「いつにします? 私はいつでも休めます」
翠は素直に受け取った。
「冗談はさておき、その調査に関しては、専門のプロに任せていますから」
片桐はシャンパンを飲み、そっとグラスを置いた。
「ヨーロッパ旅行を兼ねて、ドイツに行ってみるか」
片桐は、翠に賛成した。
「私は仕事があるから無理ね」
星七は反対した。
「河本さん、正確な場所だけ教えてください。行くか行かないかは、別にして」
翠はポーチから英単語の書かれたメモ帳とボールペンを取り出し、河本の前に置いた。
「住所ならメモしていますから……。私は行きませんから」
翠はメモ帳をしまった。
片桐は背をソファに預けた。
お店を出る時、翠は片桐を送って表まで出てきた。
「今日、何時に終わる。車で来ているから送る」
「社長さんって強引ですね。でも、暇つぶしはしなくって」
「記憶もいいんだね。もう、潰せる暇はなくなった」
「なにそれ」
「先約でもある」
「そんなのは無いけど、まだ会って間もない人に頼めないわ」
「送られるのはダメで、ドイツならいいの」
「あれは、私からのプレゼントよ。住所、知りたかったんでしょう」
「だから、お礼をさせて欲しい」
「お礼ね。それってお礼になるの」
「君を抱きたいと思っているなら、お礼にはならない」
「でも、どうして私なの」
「どうして、かな。自分に聞いてみれば」
「変な人。分かったわ。三十分待ってください。電話します」
「俺、携帯持っていないんだ」
「仕方ないですね。これをお貸しします。終わったら、ここに掛けますから」
片桐は車に乗り込み、翠を待った。
初めて手にする携帯は翠のものだった。ふとダッシュボードに目が行く。雨が降りそうだった。車に乗っていると、それも悪くないと思えた。
翠の携帯が鳴った。少し早いと思いながら、片桐は携帯を手に取った。
画面には『今日子』と表示されている。
一瞬躊躇ったが電話に出た。今終わったところで、これから店を出るという。それだけ言って電話は切れた。
『今日子』も源氏名なのだろうか。
店の方から、一人の女性が近づいてくる。ハーフコートにジーンズ。学生らしい装いで、歩みは軽やかだった。
「お待たせしました」
「今日子さんですか」
「違います。秋帆です」
片桐は微笑み、助手席のドアを開けながら言った。
「秋帆さん、改めまして片桐です」
秋帆は助手席に身を預けた。片桐はそっとドアを閉め、車を走らせた。
秋帆は白金台に住んでいた。時間も遅く、三十分もあれば十分だった。
「雨が降り出した。少し遠回りしようか」
「春雨……片桐さん、古すぎます」
「スルーされると思った」
「私、時代劇好きなの。剣客商売が特に」
「俺を切らないでもらえるかな」
「お酒は大丈夫ですか」
「俺は酔わない。それに、雨のドライブは嫌いじゃない」
「これ、欲しかったのでしょ。忘れないうちに渡しておくわね」
「ありがとう」
片桐は西銀座入口から首都高速に乗った。
秋帆はダッシュボードを開け、メモを仕舞おうとして中をじっと見つめた。
「どなたかのかしら」
「見つけた人のだよ」
フロントガラスに優しく当たる雨が、ワイパーで綺麗に拭き取られていく。その一連の流れを見ながら、片桐は追い越し車線を走っていた。高速道路は空いている。前方の車のバックライトが近づいてきた。方向指示器を点灯させ、走行車線に移った。
「開けて構わない」
片桐は前を向いたまま答えた。
「いいよ」
秋帆はプレゼントを取り出し、リボンを解いた。車は京橋JCTを通過した。包みを剥がすと、箱が姿を現した。
「素敵ね」
短く感想を言い、しばらくそのネックレスを眺めていた。車は湾岸高速に入っていた。
「きっと似合う」
少し間を置いて、秋帆が言った。
「片桐さん、一つ聞いてもよくて」
「ああ、制限なく」
「このネックレスって、ドイツへの招待状なのよね」
「受け取ってもらえるかな」
秋帆はネックレスを箱から取り出し、自分の首に着けた。
片桐は進行方向から、そっと目を逸らした。
一粒の小さなダイヤが、秋帆の胸元で輝いている。
車はレインボーブリッジに差し掛かり、ネオンは雨に霞んでいた。
ただ一つ、霞むことなく輝いているものが、秋帆の胸にあった。
招待状の返事は、YESのようである。




