第37話 逃亡
土曜にも関わらず、三つの要因から平日よりも早く目が覚めた。
一つ目。昨日のキスの感覚が、寝ている間も継続していた。
二つ目。永井のこと。
そして三つ目。天気が良すぎて、朝日が眩しかったからだ。
片桐はまだ、寝ているであろう。『親しき中にも礼儀あり』は中途半端な関係上の例えであり、それを超越すると、邪魔することが礼儀になる。
片桐は予想通り、すぐに電話に出た。片桐も同じように考えていたようだ。親しさの度合いは、僕が優っているようだ。
片桐はまた、僕に昨夜の結末を聞かなかった。僕も敢えて触れなかった。これは礼儀というより、阿吽の呼吸、効率化、粋な振る舞いである。
片桐は昨夜、僕の尻拭いをしたあと、今夜のために行きつけの店を予約していた。そこで永井のことを伝えると言ってくれた。
僕の昨夜はというと、本条さんの唇の柔らかさと、僕を抱きしめた彼女の手の強さが、一晩中睡魔を寄せ付けなかった。
いつもの週末のように洗濯を始めた。こんな天気に洗濯をしないのは、マキシムドパリでデザートを注文しないに等しい。
朝食を取り、肉体的な落ち着きと、昨夜の胸の昂りが全身へと中和されたところで、美咲に電話をした。今日、話をしないといけない訳でもなかったが、彼女の声を聞きたかったのだ。
この電話がこれからの日常に組み込まれると想像すると、日常が特別に昇格する。
今夜、片桐と会って永井について話を聞くことも伝えたかった。彼女にはできるだけタイムリーに、何が起きているのかを詳細に話しておきたかった。もし彼女に同席を提案すると、こちらを優先したと思う。いや、積極的に参加したいと思っているように感じた。だが、もう少し状況が見えてから当事者になってもらおうと思った。
僕には美咲を迎え入れる仲間がいる。だから、美咲との会話には、このように思っているとは微塵も悟られないように話したつもりだ。万が一僕がヘマをして勘づかれても、美咲には思い通り行動して欲しい。
美咲は僕を信じて、待つことを選んだ。そこは、希望をも飲み込んでしまう暗黒の停留所だとしても、今朝の太陽が既にシャツを乾かしているように、僕らの光は彼方から目視でき、カボチャの馬車に乗って迎えに行く。
その馬車に同車しているだろう友人が待つ店に着いたが、既に片桐と一緒に最上がいた。どうも、最上にはカボチャの馬車は似合わない。最上の場合、オープンカーが心地いいと、屋根をパイに変えてしまいそうだ。
曖昧に、片桐に昨夜の礼を言った。
「片桐、昨日は悪かったな」
「昨日の事ってなんだ」
即座に最上が言った。片桐は僕が答えるのを待った。
「ああ。大事な話があったので」
大事な話と聞いて、最上は怪訝な顔をした。
「今日より大事なことって。俺は呼ばれていない」
「大事と言っても、少し意味合いが違う。俺の個人的な話だ」
「どう違うんだ」
美咲のことは最後にとっておきたかった。こうなると最上は一歩も引かない。力士でも押し負ける。
「昨日、大切な人を紹介した。交際を始めたばかりなんだ。全てを打ち明けるべきだと思い、話すことにした」
最上の表情は曇った。
「これで、俺たち以外に関係のないやつが知ったってことか」
「すまなかった。お前にも日高や重村にも相談するべきだった。だが、彼女はこの事を誰にも言わない」
「付き合ったばかりで、もうそこまで通じ合っているのか」
最上の怒りは熱い。
「最上、一つだけ言わせてもらう。彼女は沢村にはもったいない」
最上の顔が崩れた。
「俺は……沢村の彼女は信用しているさ。くそっ」
最上はビールを飲み干した。
「最上、今度、彼女に会ってくれないか」
最上は黙っていた。片桐が言った。
「最上、会ってやれよ」
「分かったよ」
と言って最上は、僕のビールを飲んで続けた。
「それで、その子は可愛いのか」
この答えにも片桐が言った。
「もちろん。でも、俺の方に興味を持ったみたいだけど」
三人は笑った。そして最上が言った。
「沢村、もう一人ライバルを作ってもいいのか」
「この位にして、本題に入ろう」
片桐は言った。
「ああ」
最上と僕は同時に答えていた。
「実は永井は、もう日本にいない。佐久間の葬儀の二日後に、出国の記録が残っていた」
「なに!」
最上は思わず発していた。
この切り替えの速さは、不幸なニュースを伝えた後の温かい話題に移るアナウンサーに負けていない。僕も耳を疑った。全く想像していなかった。同時に、こんな情報を片桐はひとりで抱えていたのだ。
「片桐、どういうことだ」
最上は続けざまに言った。
「まあ、落ち着け。宇宙に行ったわけではないんだから」
「落ち着いていられるか」
最上の興奮は収まらない。この話を最初にしておけば、美咲の件はスルーされたかもしれない。
僕も永井の居場所が気になったので訊いた。
「それで、永井の居所は分かっているのか」
「ドイツにいる」
「ドイツ……か」
僕は呟いた。
なぜか、最上も興奮が少し和らいだようだ。勝手に逃亡したと思い込んで、東南アジアか僻地に居て二度と会えないと思っていた。
僕は続けた。
「行けない事はないか」
勢いを失った僕らを見ながら、片桐が言った。
「在職中、仕事で何度かドイツに出張していたようだ。いつから準備をしていたのかはわからないが」
とりあえず、簡単なことを片桐に問うた。
「どうやって、そこまで調べたのだ」
片桐は、これまでの経緯について説明してくれた。
それは、次のようなものだった……。




