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贈り物  作者: 村上は


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第35話 ハエ叩き

 本条さんに真実を告げる日である。


 僕は、彼女と一緒に現地に行くことを提案していた。普通に、彼女と会話をしたかった。


 仕事をしながら、この()()への尊さからネットで定義を調べていた。『ごくありふれたこと』とあった。本条さんとのメールは数回で、電話は一度きり。本条さんのことを考えたことは数えきれないけれども、定義によると当てはまらない。

もちろん、曖昧な言葉は明確な境界線を持たない。つまり、はっきりした線がなくなることを、普通と呼ぶのかも知れない。ぼんやりすること。

残された時間で、僕は普通を手に入れることはできるか。交際を申し込んでから一ヶ月近く経つのに、そこにはまだくっきりと線が残っている。


 席を立つ前に、彼女にメールを打った。


『今から出ますね。下で待っています』


 パソコンの電源を切り、荷物をまとめ、トイレを済ませた。これらの流れは普通である。エレベーターの『下』のボタンを押して、少し待った。エレベーターが下降を始めた。


 ドアが開くと、僕は驚いた。中には本条さんが乗っていたのだ。

不思議なもので、会いたいと思っていた時には会えなく、どうも神様はサプライズを好む。


 エレベーターには、もう一人、女性が乗っていた。二人は親しい間柄だとすぐに分かった。二人の距離感もそうだし、もう一人の女性の、僕を見る表情が本条さんに似ているからだ。何より、その人は食堂で一緒にいる人だった。


 僕はエレベーターに乗り込む際、本条さんへの挨拶がままならなかった。

本条さんが、弾む声で言った。


「沢村さん、同僚で親友の百合子ゆりこです」


 本条さんは笑顔を見せた。片桐を紹介する時には、僕も同じようにできるのか。


「百合子は知っていると思うけど、沢村さんです」


 本条さんは百合子に、僕とのことを既に話していた。百合子がここにいることが、とても自然に感じた。そして、この場の雰囲気は、一体感のような強固なものに変化していた。僕が最初に打ち明ける同僚は、水野になる。


「あっ、どうも。はじめまして。沢村と申します」

「噂の沢村さんね。とっても時間が掛かった」


 百合子はそう言いながら、本条を横目に続けた。


「藤森です。よろしく。美咲のこと、大切にしてね」


 体内から言葉を選ばないといけないという緊張感が、消えて行った。緊張が解けたお陰で、藤森の願いにどのように答えれば良いか追い込まれた。

それは、緊張していれば体裁だけを考えれば良いのだが、藤森はそれでは許してくれそうにない。

それより、藤森が言った()()()()()()()が意味していることは、なんとなく伝わった。


「はい」


 結局、これ以上の言葉は浮かばなかった。話すことはスムーズに言えないけど、二人と居るこの空間は、すぐに終わってしまった。


 僕たちはエレベーターを降りた。そして駅までは、三人で行くことになった。


「二人は長いのですか」


 お互い名前で呼び合っているので、年は近いと推測はできた。


「私たち大学から同じなの。面接も一緒に受けて。それで二人とも同じ部署に配属されたわけ」


 藤森の熱は冷めていない。


「そうだったんですね」

「私たちは何て言うか、母と娘の関係なの。これは大学時代から変わっていないわ」


 本条が藤森を見ながら言った。


「美咲ったら、私が年寄りみたいじゃない。まあ、いっか。それ、私が言った台詞だし。私の結婚式のスピーチでも娘として話してくれたしね」


 藤森は続けた。


「沢村さん、美咲は大学時代から人気者だったのよ。だから、私が余計な虫が寄って来てもガードしていたの」


 と言いながら、ハエでも叩くジェスチャーをした。


「百合子は、いつも大袈裟に言うの」


 と本条は、ハエを叩いた手を押さえた。


 僕は本条さんの手にハエが付いていないか気になった。藤森の手首のスナップが、バドミントンの選手のような切れ味だったからだ。

それはともかく、藤森が言ったことは事実だと思った。


「良かったです。藤森さんに叩かれなくて」


 と言いながら、僕はとっても痛いだろうと想像した。でも、藤森に感謝しないといけない。


「沢村さんは叩きたくても寄ってこないし。どちらかというと、ゴキブリホイホイの方ね」


 藤森は独特の言い回しをした。本条さんも二人の時は、こんな普通の感じなのだろうか。


「ゴキブリですか……」

「百合子、失礼よ。私の大切な人に!」


 本条は藤森の肩を叩いた。


「だってね。これでも全然足りないわ」


 と言って藤森は次の言葉を飲み込んだが、とても楽しそうだった。


 交際を申し込んでからの僕の対応を非難しているのだろうが、そうだとしたら、甘んじて藤森の説教を正座して受け止めたい。本条さんは僕には罰を与えることはしないから、誰かがその役目を担ってもらわないといけない。


 僕自身、ゴキブリ呼ばわりされたが、悪い気はしなかった。二人のやり取りを聞くことは、普通への線消しであり、僕の心を優しく温めてくれた。


 渋谷駅で藤森と別れ、僕たちは地下鉄の半蔵門線に向かって歩いた。彼女は僕の隣にいた。隣を見ると、その距離は前回より近いように思えた。


 そして彼女との距離を、そっと埋めた。僕は彼女の手を握り、彼女はその手を握り返した。


「実は、沢村さんを最初に見たのは、駅のホームだったのです。多分、覚えていないでしょうが。

帰宅中でした。私は列の後ろの方で待っていました。その隣に、目の不自由なおばさんが列からはみ出ていました。電車が到着し、私は乗り込みました。その日は、そんなに混んでいませんでしたが、気になったのでおばさんを見ると、ドアの位置が分からなく、焦りました。

ある人が走って来るのが見えました。そして、乗る前にそのおばさんに気付いて、何の迷いもなくおばさんの手を握って、一緒に電車に乗りました。

その後、偶然会社でその人を見ました。それが沢村さんだったのです」


「そんなことがあったような、無かったような……」


 言われるまで忘れていた。性格的に目立ったことが苦手なのだが、あの時は自然と身体が動いたと思う。


「いつか、あの時のように、沢村さんが私の手を握ってくれる日を待っていました」


 そういうことか。藤森が言っていた意味は。

僕も握る手に、強い思いを込めた。


 彼女との接点である手には、物理的な変化は何も現れていないが、手には新たな思いが込められていた。この手は、もう離したくない。


「僕でよかったら、ずっと捕まえています」


 彼女は何も言わなかった。その代わりに、彼女は小さく頷いた。と同時に、僕の手は不思議なくらい、彼女の手の形を寸分違すんぶんたがわず立体化出来ていた。

正直に打ち明けてくれる思いの強さに反して、彼女の手は、全てを包み込めそうな程、寛大で繊細だった。


 その瞬間、今日、あの話をすることになっている現実が、大きくのしかかってきた。


 僕たちは半蔵門線に乗って、青山一丁目で降りた。


「さあ行きましょう。片桐は多分、遅れて来ると思うけど」

「いつもそうなの」

「いつもではありませんが、今日はなんとなくそんな気がして」


 いつも遅れて来る。片桐の名誉を毀損するのは僕自身ではない。それは本条さんが判断するべきなのだ。


「片桐さんって、どんな方ですか」

「そうですね。なんて表現したらいいか……ううん、表現できない男です」

「親友なのですよね」

「はい。少なくとも親子関係ではないです」

「私のこと、からかっていますよね」

「僕はいつも真面目です」

「とっても時間かかりますもんね」

「本条さんこそ、僕をいじってますよね」

「はい。わかりました」


 本条さんの笑顔を見られるなら、普通になるまでいじられても構わない。


「片桐さんって、お付き合いしている人いますか」


 僕は、きっぱり答えた。


「はい。沢山います」

「もうひとりの親友に、どうかと思ったのですが……」

「それは、()の方ですか?」

「私には母しかいません」


 僕は先ほどの本条さんと同じ程度に笑って、続けた。


「なるほど。親友に、ですか。片桐には悪いけど、彼には勿体無いです」


 と言いながら、本条さんも僕には勿体無かった。本音では片桐は推薦できるのだが、僕の考えが矛盾しているのは分かっている。

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