第34話 電話番号
週末の洗濯は外せない。そして、コーヒーメーカーで煎れたコーヒーの香りを楽しみながら取る朝食も然り。
いつもと同じ週末の始まりだったが、それを壊したのは電話だった。近頃、ここまでが一連の流れのようだ。
「沢村、起きていたか」
片桐からだった。
「モーニングコールなんて頼んだ覚えはないけど」
「意外と気に入っているんじゃないか」
「そりゃ、どうも。で、どうした」
「雨宮のことだが、依頼主が分かった」
「本当か。それで」
「保険会社だった」
「保険……ちょっと待てよ。変なこと言うから。えっと……」
すぐに思い出せない。
「佐久間のご両親が言っていただろ」
「でも、事件じゃないよな?」
「当たり前だろう。そうじゃない。形式的なことだと思う」
「形式に探偵はないだろう」
「細かいことは分からない。支払いは済んでいるから、追っかけ調査ってところだろう。まあ、高額だからな」
「そういうもんか……で、どうやったんだ?」
「あれから雨宮をずっと見張っていた。定期的にクライアントを回ると思ったのさ。あと、あまり褒められたことじゃないが、雨宮の会社のシステムを構築しているのが、うちのライバル会社なんだ。まあ、内緒だからな」
知りたくない事実だった。
「分かっている。俺の会社は大丈夫かなぁ」
「お前の会社に興味ない」
「つまらない会社で悪かったな。それで、雨宮は何を見つけたんだ」
「大した進展はなさそうだ。良かったのかは別にして」
「でも、永井のこともそうだし、役には立ったな」
「そうそう。永井で思い出したが、もし雨宮が永井に会うと、厄介なことになる」
「そうか……。俺たちで先に探せないか?」
「ああ、その方法を考えているところさ」
「それで、糸口はあるのか」
「全く無い」
片桐の、透明で絶望的な言葉は、照らしようのない虚無感にさえ光を届ける魔法に聞こえた。
この声の調子と言葉のチョイスと透明度は、過去にも経験がある。彼の頭は白紙ではなく、デッサンの状態であり、完成するまで展示しないのだ。片桐を上司に持つと面倒だ。
「そのうち、いい話を聞けるのだな」
「お前の想像に任せる」
電話を切り、ソファに寝転がって天井を眺めた。
片桐には、こうやって驚かされる。不定期に訪れる、張り詰めた心の呼吸に、決まって現れるのは本条さんだ。
本条さんが「どうしたの?」と言って、温かいカフェラテをそっと渡してくれるわけでもない。
これまでの本条さんの存在の在り方では、いけない。
外側から、物理的な確かなものが無性に欲しくなった。本条さんの声が聞きたい。彼女の携帯番号を探した。
しかし、どこにもない。
交際を証明するものが、何もないのだ。
週末を終えて、僕は出勤し、本条さんの連絡先を聞くことにした。ただ、尋ねる方法はメールしかない。つまり、デート前と、彼女への連絡方法に何の違いもないのだ。
『週末、夢から覚めた思いがしました。それは、本条さんの連絡先を知らないと分かった瞬間です。連絡先を教えてください。これは僕の連絡先です』
返事は、すぐに返ってきた。
『この間は、ご馳走様でした。とても楽しかったです。それと、白状しますね。実は前から、沢村さんからのお誘いを待っていました。だから、交際を申し込まれた時は、正直嬉しかった。こんなこと言って、驚かれていると思いますが。私の連絡先を教えますね。090―XXXX―XXXXです。では、お仕事頑張ってください』
僕は、放っておいた。
お互いが思いを寄せていたのに。思いの種に水をあげていたのは、本条さんひとりだった。
食事をした時に蒔かれたのではない。あの時、既に種から芽が出て、成長し、それを支える根もしっかりと張られていたのだ。
片桐と話した、あの時の勇気が漲るのを感じた。
彼女に、今回のことを打ち明ける決心をした。こんなことで倒れる、軟な根ではない。
『僕も白状します。あなたは、ずっと憧れでした。そして、もう一つお話しなければならないことがあります。それは、直接会って話します。頂いた連絡先にご連絡します』
よし。戦う準備が整った。
その日の夜、本条さんに電話をし、金曜日に会う約束をした。
真実を伝える前に、片桐に相談したかったので、彼にも連絡した。
「片桐。俺だけど、今、大丈夫か」
「ああ、俺も話したいと思っていたところさ」
「というと、永井について何か分かったのだな」
「ああ、お前の話とは」
「実は、この前話した女性のことだけど、気持ちは固まった。お前は笑うかもしれないが、俺は結婚を考えている。だから、今回のことを全て話そうと思う」
「思い切ったな。この間、食事に行ったばかりだろう。急ぎすぎてないか」
「それは分かっているが、もう根がしっかりしている」
「ネガって、ネガフィルムのことか」
「知り合った時間は関係ない」
「まあ、お前が決めることだ。好きにしろ」
「ありがとう、片桐」
「ひとついいか。お前たちのデートの邪魔をするつもりはないが、俺もその場にいてはダメか」
「お前が……」
「ああ。二人で話すべきだと思うが、今回ばかりは第三者の俺がいた方がよくないか。その方が冷静になれると思う」
「じゃあ、今週の金曜日は大丈夫か」
「金曜日か。大丈夫じゃなかったけど、大丈夫になった。お前の将来のかみさんに会うのだからな」
「すまない」
「何を言っている。これからが本番だ」
「ところで、永井のことはどうした」
「それは、金曜日に話す」
「了解した。詳細については追って連絡する」
「じゃ、金曜日に」
話の流れで同席を認めてしまったが、断る理由はなかった。
ただ、どう本条さんに説明しようか。
困った時の水野頼みではないが、金曜日の場所を相談した。
「水野さん、雰囲気が良くて、個室があるお店、知りませんか」
「料理と値段は」
「そうですね。この前は鉄板焼きだったので、今回は洋風ですかね」
「なんだよ。もう鉄板焼き行ったの。一言もなかったじゃん。聞くだけ聞いておいて」
しまった、と思った。
「すいません。うっかりしていました」
「うっかりしないでくれる。で、いつ、誰と行ったの」
「それは……ある人と行きました。そのうち紹介します」
「まあ、これ以上は詮索しないけど。もう、うっかりしないでよ。うっかり八兵衛じゃないんだから。洋風がいいなら、ちょっと値段は張るけど、青山にいいイタリアンがある。味も雰囲気も保証する。ただし、個室にすると別途一万円ほどいるよん。まあ、気にしないよな」
ゆっくり落ち着いて話ができれば、少しくらいの出費は惜しくなかった。
それに、水野の威圧感を押し戻すことはできない。クローゼットで眠っているカーディガンを処分するかな。
「レストランの名前を教えて頂けますか」
「ちゃんと報告してくれるんだよな」
「分かりました」
運よく、個室を予約できた。週末料金で別途一万五千円かかったが、想定内である。十九時三十分から予約を入れた。
彼女には、まだ三人で会うことは伝えていなかったので、場所を連絡する時に伝えなければならなかった。これはメールではだめだ。帰宅してから、電話で伝えることにした。
「今晩は、沢村です」
本条さんの携帯画面に、自己紹介は済んでいるのだが、やっぱりここから始めないといけない。
携帯が普及する前は、二回ドキドキしたものだった。一度目は電話が鳴った時。二度目は、最初に声を聞いた時。すぐに、誰からだと分かったものだった。
「今晩は、本条です」
「今、大丈夫」
「もちろんです」
「金曜日ですが、場所が決まりました。青山にある、エアイネルングというイタリアレストランです」
「素敵そうなところですね。一つ、お願いがあるのですが」
僕は、少し構えてしまった。
「どうしました」
「今回は、私に奢らせてください」
嬉しい申し出だったが、今回も僕が払う必要がある。
「これから、奢っていただく機会は沢山あると思うので、今回も僕に払わせてください。それに、突然ですが、紹介したい人がいるのです」
「どんなひとですか」
やや緊張した声に、変わったように思えた。
「僕の一番の親友です。今回、打ち明ける大切な話には、彼も関係しているのです。誤解しないでください。彼とは、単なる友達ですから」
本条さんの笑い声が、携帯を通して微かに聞こえた。
「やっぱり、思っていた通り。分かりました。今回も、奢ってください」
「はい。詳細はメールで送ります」
「お願いします」
「では、お休みなさい」
「お休みなさい」




