第32話 重村
言葉にするには酷である。検査結果が出るまでの三週間を。
本条さんとは会えていない。会って欲しいと伝えれば……。昼食はおにぎりにするわ、と言うかも知れない。今から話したいと言えば……。寝不足でも、優等生であり続けそうだ。そんな人だから、僕は本条さんに隙間を作った。
僕は昼食を早々に切り上げるようにした。でも、一度、食器を片付けて運ぶ時に、本条さんを見かけた。
僕は、どうしようもない顔をしていた。一番大切な人を、このタイミングで傷つけている。でも、本条さんの表情は、いつもと変わらなかった。告白の事実は確かに、その中に溶け込ませていた。
快眠の要素が乱れていたが、ベッドに入るしかなかった。だから、カーテン越しに透ける夜明けの気配と、それに誘発される生命の騒つきで、降伏するように眠りに落ちていた。
その夜は、寝不足の蓄積から早い時間に眠気を催した。夕食の時にはピークを迎えていた。満腹感で快眠の要素が強制的に成り立ち、ようやく不眠との戦いには勝利できそうだった。
そんな時だった。重村から、飲みに行かないかと電話を受けた。顧客との会議が先方の都合で延期になり、僕を誘ったのだ。
重村と差しで飲むことは珍しい。最後は四年と六ヶ月前になる。
気まずいとか、気を遣うとか、避ける理由はなく、一緒に行くだけの出来事がないのだ。長く連絡を取らなくても、二人の間に劣化は起こらない。何についての劣化かと敢えて言えば、気持ちを含めて全てである。だから、二人で飲んだのがだいぶ前でも、正確にいつだったか覚えている。
今回、不意に飲みに誘われて気づいた。今対峙していることに、もっとも相応しい相手であると。
重村とは、そんな仲である。
重村はらしい店を予約していた。
店に向かう時に、温めていたことを実践した。温め始めたのは誘われてからなので、抱卵期間のそれより短い。
これまで、このような妙な考えは浮かばなかった。もしかしたら、心の中に邪心を抱いていたのかもしれない。それは、重村と会うのは、これが最後になるのではないかと、おぞましい思想が突飛な行動を誘発したのかもしれない。
それは同時に、重村とお店に入ることだ。
考えてみれば易しいことだ。時間通り、店に到着すればよいのだから。そう、簡単なことではあるが、店の前で待つことはずるい。
不思議なもので、あっさり達成したくもない我情も同居していた。
同じ駅から店に向かうのもずるい。駅から店までの間、重村を感じながら歩いてしまうからだ。だから一つ前の駅で降り、歩くことにした。
公平さを保つため、自分の歩度を忠実に守ることにした。無意識の中にいる、あの思想が孵化して意識として成長しないように。
懐中時計によると、店の前でバッタリ会うはずで、セリフも準備していた。だが、重村は近くにいなかった。悪くないセリフは無駄になったが、重村を満足させられるかは別の話である。
僕の受けた些細な失望感は、すぐに治癒された。店構えは片引き戸が六枚分程度の間口であるが、黒寄りの鳶色が広く見せ、静謐に迎えられる。
店前に寄ると、ぼんやり薄卵色の据え提灯が施した化粧が溶け、素顔の玄関戸は墨色であるが、灰に帰すでもなく、始まりの表情をしている。
ここを会食に選ぶに際しては、暗黙のルールがありそうだ。少なくとも、感謝の気持ちなしではこの舞台は踏めない。だから、顧客に感謝の意を込めたのか、それとも僕のために……。
店に入るとすぐに、一本の檜がカウンターとして横たわっているのが見えた。木曽檜なのか、尾鷲檜なのか、それとも他の産地なのかわからない。根をもぎ取られ、皮を剥がれ、加工されたにもかかわらず、蝉のように本来の姿になれた輝きを放っていた。
ただ、蝉とは違い、この檜を看取るには人生は短すぎる。
カウンターの奥に目をやると、重村がいるのに気づいた。
懐中時計は遅れているようだ。
ここの暖簾をくぐるには大義がないと、怖気付いてしまう。今の状況には、それがある。
僕は重村の隣に座った。そして僕らの間に、懐中時計を置いた。
「どうも時計が遅れている」
重村は手に取り、表と裏を交互に見た。
「それを言ったら、この子が泣くと思うぞ」
「ハンカチは持っているけど」
「時計にハンカチ使ったら、今度はハンカチが泣く」
「ハンカチに涙腺はないはず」
「泣けないなら、ハンカチはストレスで壊れるぞ」
「ああ、分かったよ。その通りだ。これに罪はない」
僕は降参し、時計を寝床にしまった。この会話を続けても勝ち目はない。
「ビールでいいか」
重村は、僕の降伏があまりにも早かったのか、笑いながら注文した。
どこまでこの店と縁があるかわからないが、ここでの幹事は任せることにした。食事の選択も任せようと思ったが、ここはコース料理のみであった。今日は酔い潰れるまで飲んでも良いと思っていたが、そのような店ではなさそうだ。
「しかし、いい店だな。よく来るのか」
「特別な時にな」
「そりゃ悪かったな」
「お前も特別だよ」
やはり会食の話は方便のようだが、そこは聞かないことが乙であり、郷にいれば郷に従うべきである。
ビールが届き、僕らはグラスを合わせた。言葉が思い浮かばなかったわけではないが、無言であった。
ビールを三分の一ほど飲んだところで、重村が言った。
「人間ドックだが、誰か当選すると思うか」
僕は回り道をしてここへ来たが、重村は回り道はしない。
「あっさり言うね……。当選か……本来、それって落選になるよな」
重村は笑っていた。
「それで?」
「そうだな。希望はある。良い勝負になるんじゃないか。ただ、片桐には驚かされる」
「まあ、あいつにしてみれば、いつものことだが」
「そこは疑いの余地はないな。でっ、お前はどう思っているんだ」
僕は、重村の思いが知りたい。
「俺か。宝くじよりは遥かに確率は高いだろうよ」
「宝くじ……、か。確率なんてゼロだ」
「誰が仕掛けたのか、忘れたか」
先付が目の前に置かれた瞬間、当選したと思った。うるい、みる貝、赤貝を酢味噌あえに、炙ったからすみの粉末がまぶしてあり、もちろん、キャビアも忘れられていない。大将はその様な説明を簡単にしてくれたが、僕らに把捉を求めていないし、気の利いたおべっかも不要だ。
「なるほど。この料理の隠し味を当てるよりは、確率高くないか」
「ああ。でも俺は知っている。ただ一等が当たると、今の医療でも完治せんよな」
重村の視点は僕にはなかった。病気の一等って、なんなんだ。僕の知り得る大病が頭を駆け巡り、食す前に味覚を損ねそうになるが、医者が列挙すると、隠し味がチョコレートに変化し、吐き気を催す。
「重村、恐いこというなよ」
「核心って、いつも恐いんだ。だからみんな、言葉にはしない」
先付を食べ終え、揚げ物の次にお造りが提供された。それを一口味わい、考えた。
重村はメニューを見ずに冷酒を注文した。お猪口ふたつと言って。
「理屈で言えば、当たりが出ても治療はできる。早期発見になるはずだ」
「沢村、今は、理論的な話じゃない」
「お前らしくないな。いつもなら論理的に突き詰めるくせに」
僕をここへ誘ったことも、重村らしくない。
「まあ、お前には難しいかもな。とことん突き詰めるから。男らしく諦めろ」
「重村、大丈夫か。さっぱりついていけん」
「お前に分かるようにいうと、こんな料理、毎日食えるか。無理だろう。金銭の話じゃない。日本食でさえ。これがフレンチだったらどうだ。めちゃくちゃ美味しいものって、沢山食べられない。口に入れた瞬間、拒否反応を起こす。刹那的だから気づかないが。食べる行為自体が負担になる。食べるのにエネルギーを使うからだ。
おかしいとは思わないか。エネルギーを摂取するのに、それ以上に疲労するからな。それは、美味しくなるにはそこに至るまでに命をいただいているからだ。だから食べ過ぎると健康を損ねる」
僕は、とりあえず目の前の残っていた作りを食べた。重村は怪訝な顔で僕を見ていたが、とても美味しかった。
「余計分からん。旨い料理と論理的思考に、どう関係があるのか」
「ロッキー見たことあるよな?」
「シルベスター・スタローン、のか……」
「ああ。確かロッキー4かな。ロシア人と対決するやつ」
「ドルフ・ラングレン、のか……」
「ああ。ふたりの鍛錬の違いのメッセージはなんだ」
酒を口に含むタイミングを逃していた。
「ロシア人は金を掛けていたような。ロッキーは貧乏臭かったな。エイドリアンを持ち上げたりして」
「お前、それは女優の好みだろう。まあ、俺も金髪はいいと思う」
と言いながら重村は酒を飲み干したので、僕が注いでいると、
「そうじゃなくて、あれを観て視聴者はロッキーの勝利を確信したろ」
「映画だからな」
「勝ち負けはどうでもいい。言いたいのは、バーベルと丸太。それとも、舗装された道と凸凹道。見栄えだけの筋肉か、生きるための体か。女優の好みはいいからな」
「俺はそもそも戦わない」
「そんなことは分かっている。だからお前は、何を学んだ」
僕は思わず酒を口にした。和食には酒が合う。米から作られているのだから。
「ジムで走る。雨も関係ないし。正直、手書きは面倒だ」
僕は、お酒のせいか、重村に反論したい自分がいるのに気づいた。
「面倒くらいがちょうどだ。便利になって、早くもなったけど、質が落ちていないか。このメニューがパソコンだったらどう思う。ロッキーを観て、手書きの方が勝つってみんな思ったよな。現実ではそれを選ばないのに。
結局、何を作っているんだろうって思わないか。食事にしても、素材が良ければそれでいいし、破裂するくらいなら途中でやめてもいい。走るならその辺走っとけばすむ話だ」
「言いたいことは分かる。でも、合わせないと生きづらいだろ。俺は、そう感じている」
重村は、まだ酔ってはいないと思う。
「ああ。大多数の人間はな。俺らの中では片桐ぐらいか。抗って生きているのは」
「あいつの場合、あれが自然だと思うけど。こんなふうに考えているとは思えん」
僕は手酌しようとしたが、重村に奪われた。
「だから、あいつは凄いんだ。自然とやっているからな。俺は頑張る場所を間違えていたと気づいた」
受け止められるのか、僕に……。なんだか、どうしてなのか、胸の中が沸々と熱くなるのを感じた。酒がほんの少し関与しているかもしれないが、
「でも、重村、良いじゃないか。形振り構わず、大切な人と生きるだけで」
僕らの前に太い土鍋が置かれた。その風格は、重村の狂気じみた、そして僕に自害後の介錯でも頼んできそうな告白に割り込むことができる。
その威厳は旨さの保証から来ており、美味しいかの疑念を持つことさえ許さない。
僕らの美味いと言う言葉を既に反映している。大将は徐にトリュフを削り始めた。その動作は何度も繰り返された。行員が札束を数えるように。僕らに向かって、津波のようにトリュフの香りが押し寄せた。
「美味そうだな」
「……素晴らしい感想だ……」
「どうも今日は戦況が思わしくない」
「だったら、ここでダメを押すとするか……お前……、いい人できたな」
僕は劣勢から敗勢に後退した。勝負ではないので敗戦感情はおかしいが、ルールを教えられていないゲームに負けたような気持ちだった。
なんで今、それを言うかな。最上と同じではないか。
人間ドックの結果が出たら、重村にも話そうと思っていた。
自然と懐中時計に手が行ったが、見るのをやめた。しかし、今、聞いてくるかな。でも、ここで質問が飛んで来るのは世界広しとも重村しかいない。だから、僕は言った。
「付き合い始めた。この間から」
「いいじゃないか。それは、素晴らしい」
重村の反応は、最上とは違っていた。
「重村、ありがとう」
佐久間は僕に重村を託したと思っていた。でも、今は立場が逆転している。
重村は佐久間に、『沢村を頼む』と言われたのだろうか、と脳裏に浮かんだ。
僕は目一杯ハードルを高くして、炊き込みご飯を一口頬張った。スレスレでハードルを超えていった。二口目、三口目と、より美味しく感じた。重村は初めて食べたようには見えなかった。
「お前も前進しているんだな。……いいことだ」
重村は『お前も』と言ったが、話を聞いていると、重村が前進しているとは思えない。
「攻撃したり、今度は褒めてきたり、炊き込みご飯みたいにとりとめがない。いつものとは真逆だ」
「これは……」
重村は炊き込みご飯の入った茶碗を持ちながら、
「旨い以外に表現できない。それに、俺は一貫している。まあ、理解できるかは俺の責任じゃない。炊き込みご飯の旨さを表現できない沢村にはな」
「……それは、悪かったな」
「人っていつ死ぬかわからない。でも、もう逃げることはできないな」
僕らは無言で、炊き込みご飯を平らげた。
そして重村が、
「機嫌直して、その付き合い始めた人のこと話してくれよ」
と言ったので、僕は長い夜をかけて本条さんとのことを話した。最後に見たのは、昼食の後で恥ずかしい態度を取り続けていることも。どのみち、ベッドに入っても眠れないのだから。
聞き終えると重村は、一言だけ言った。僕の話はとても長かったにもかかわらず。
「それで、いいんじゃないか」
その日は自宅に戻るまで、懐中時計はずっと寝床にいた。




