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贈り物  作者: 村上は


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第31話 人間ドック

 人間ドックの日を迎えた。


 事業主は『労働安全衛生法 第六十六条』を遵守し、サラリーマンは義務として毎年健康診断を受ける。

受診日が多忙な時期と重なると、総務に理不尽な敵意を抱き、閑散期と重なった時は、感謝はせずとも気分転換の一環として気楽に受診していた。受診後、ちょっとした懐石料理が出るからだ。


 そんな訳だから、読影に見落としがあっても罪に問うことは難しい。責任が伴わない検査と、ものまね占い師のお告げとでは、どちらに信憑性があるのだろうか。

もちろん前者である。ただ、後者は信用ゼロから巻き返しの兆しがある。

そして、今日の人間ドックは占い師が起点である。


 これまでの健康診断では、過度な期待はしていなかった。採石場のように、検査工程は改善の余地がなく、鉱物化は受診者の多くが同意している。砂漠で落とした携帯が見つかるとは期待しない。

ただし、今日は違う。携帯の電源が入っているのだから、クリニックには検出できる可能性がある。


 あいにくの雨だった。

この雨を歓迎する人もいるだろう。出かけない日に降る雨は好きだ。空から水が落ちてくるのに、家にいれば濡れることはない。屋根のない庭の多年草、藤袴フジバカマや京鹿の子、公園にできる水溜り。

雨がもたらすものは、精神への影響、洪水や浸食、そして生命への恵みと、星の数ほど列挙できる。そのなかで僕が雨を好む理由わけは、背伸びをやめさせてくれるからだ。


 太陽が顔を出すと、木々は空へ近づこうと背伸びをする。鳥も塵も、そして人の感情も。

雨はそんな力みをそっと和らげ、激しい雨音は依怙地いこじな僕をたしなめ、柔らかい雨は僕を慰める。

今日の雨は、()()寄りの雨足である。


 平日の朝雨は、通勤ラッシュの殺伐さに武器を与え、濡れた足元が不快感に拍車をかける。

僕はこの状況を好機と捉えることにした。状況を楽しむことで、検査に一役買うのではないかと思った。


 本条さんに交際を申し込んでから、正面から彼女に向き合えないでいた。

このわずかなズレが、僕が誓った言葉に隠された嘘を、彼女の視界に映してしまうかもしれない。


 このズレの修正に、週末とこの雨が味方するなら、これからの航海に千思万考は過重であり、邪魔な荷物を取捨選択し、身軽にできた可能性はある。

捨てきれなかった荷物には、人間ドックが持ち得る医療科学の進化が、非科学的根拠の挑戦に勝利してほしいという願いも含まれている。

だから、雨の日の通勤ラッシュの苦痛に対する自覚がなかった。


 今村クリニックは六本木駅から徒歩三分の場所に構えていた。賃料から必要な売り上げは想像できないが、僕の検査費用は一日分にも満たないだろう。

自動ドアから中へ入ると、リゾートホテルを連想させた。設計者の意図は、間違いなく伝わった。


 壁紙の代わりに高価な水槽があり、丹念に健康管理されたカラフルな魚が、患者予備軍にチアリーディングを披露していた。

その水槽を背に、長時間耐えられそうなソファが置かれている。もう、このクリニックの人気の理由が分かった。


 このような演出は十中八九、好意的に受け取られる。

しかし、僕らは隠れることが天才的で、身を潜めることを生業なりわいにしている相手を前にしている。過剰な演出はしゃくに障る。


 独善的で当てつけだと承知しているから、素直に内省ないせいしている。

なぜなら僕は、とても卑怯な願いを抱いていたからだ。この人間ドックで『死の種』の発見を希求ききゅうしている。

誰でもなく、僕が助かることを。

片桐、最上、重村、日高の命を引き換えに。


 

 受付で、予約している旨を伝えた。


「沢村様ですね。お待ちしておりました。片桐様のご紹介ですね」


 片桐の名前を出されると、見透かされているようで畏怖いふの念を抱いてしまう。でも、この洞察眼なら、このクリニックに期待できるかも知れない。


「はい」

「今日は通常のコースに、オプションのPETで良かったですか」


 受付の口調は、生まれたばかりの期待感にミルクを与えてくれなかった。


「はい」

「この所、沢村さんくらいの年齢の方にPETが人気なのです」


 受付は訝しさを隠し味に返答したが、僕は食することなく調味料を言い当てることができる。


「なにかが起きているのではないですか?」


 僕は念じたが、女性は子供がUFOを見たと聞いた時のような目をしていた。

二人の間には鞄が置けるほどの幅しかなかったが、この平行線は一ミリも誤差がなく、悠久ゆうきゅうに交わることはない。


「青年期から健康に注意することは良いことです」


 と受付は言った。


「そうですよね……」


 と、丁寧に答えた。


「それでは、ご案内します」


 女性はマウスをワンクリックして、僕を誘導してくれた。数名のソファーを楽しんでいる患者予備軍をよそ目に。


 やっぱり、座る機会を奪われたあの大袈裟なソファーは、依然としてしゃくに障った。

 価値の分からない絵が掛けられた廊下を歩いた。この環境において、ありがち、と思える時点で高価な絵だと云えるかもしれない。

そして、医療機器が待つ個室に案内された。


 程なくして、僕を担当するであろう女性ひとが入ってきた。その瞬間、このクリニックの料金が過剰でないことを示していた。片桐の秘書もこんな感じなのかと、馬鹿げた想像をしてしまった。

僕は促されるままに、茶色の寝落ちしそうな椅子に背を預けた。終始、理想的な受診者でいることを容易にしてくれた。


 検査は、日頃から親しんでいる身長・体重から始まった。身長を測る時には靴下は脱いでいたので、誤差は出ない。体重は、ガウンと下着を付けたまま測定した。女性は丁寧に、ガウンの重さは考慮していると安心させた。

検査前には、こんな基本的な検査はいらないと思っていた。しかし、女性の真摯な対応と、このクリニックの傑出した態勢が、その考えは無粋で見当違いだと否定し、共感できる本当の目的を教えてくれた。


 さすがにウエスト周りの測定時には、ガウンをまくり上げた。採血はチクリともせず、貧血を起こしてもここでは安心である。

心電図・心拍数は、不要なノイズの影響が気になったが、問題なさそうだった。

流石にPETでこの部屋を出る時には、名残惜しく思えたが、戻ってこられると思うと、先導されるのも悪い気はしない。


 PETは初めての経験だったが、何かを見つけてくれる期待感を抱かせた。部屋に戻ると、ここが自分の私有地のように思え、目的を失いそうになった。同時に、ここは来る場所ではないと思えたのだ。女性の対応には満点を付ける。


 このクリニックは最後まで、一貫したホスピタリティを提供する。検査の締めくくりは、夕食の提供である。個室で今日を締めくくるか、共用のレストランで取るか、の選択肢を与えられた。

今日初めて頭を使い、ここを出ることを選択した。少し歩きたかったのと、レストランにも興味があったからだ。僕は一般人であり、お忍びで受診したわけではない。


 レストランに入ると、ガッカリとまでは言わないが、拍子抜け感は否めなかった。ただそれは、このクリニックの配慮だと思われる。一日王様のような扱いを受け、いきなり現実社会に戻ると心臓に負担をかける。それを避ける程度である。

具体的には任侠映画を観て、あたかも自分が強くなったように過信し、売られたケンカを買わないように、映画館を出る前にパンチングマシンゲームを無料提供するような、程度である。


 もう一点は、食事のスタイルがビュッフェだった。自分のことは自分でするように、矯正させる目的があると思われる。ただ、この形式で散見される『元を取る』精神は、大半が年配だったので問題なさそうだ。なにより院内にいる感覚が、まだ存在している。


 僕は適度にバランスよく皿に盛って、奥の空いている席に座った。窓の外を見ながら食事をしていると、ほんわかな気配を背に感じた。

振り返ると、


「ここよろしいですか」


 おばさんが尋ねてきた。

さりげなく見られないが、他の席も開いている。


 僕は微笑んで、


「どうぞ」


「ありがとうね」


 おばさんは、もちろんいいよね、の表情を見せた。その所作には『ちゃんと食べて』を含んでいる表情だった。


 テーブルは四人掛けで、丁度おばさんが、僕が観ていた夜景の中心に座ったことになる。それでも不快に思わなかった。


「今日は会社の定期診断で来られたのですか」

「いいえ、個人的に来ました」


 なんとなく嘘をつきたくなかった。


「健康そうに見える人ほど手遅れになりますので、それは良いことです」


 おばさんの言葉には実感が籠っていた。


 僕ら五人とも今は、健康そのものなのに、三年後には一人、五年後には二人死ぬことが予言されている。


 食事を取っていたおばさんの手が止まった。


「実は私には、あなたくらいの息子がいました」


 なんとなく次の言葉が分かったので、その先は聞きたくなかった。


「息子は半年前に亡くなりました。手遅れでした。末期の胃がんでした。主人の家系は癌の体質なので、息子には注意するように言っていたのですが……」


 おばさんがこのテーブルを選んだ意味が分かった。


「今日は、私の主人が勧めたのです。最初は息子を亡くし、私だけ生きているなんて我慢できず、来たくありませんでした。どうしても主人が折れなかったのです。私まで失いたくなかったのでしょう。毎日説得されました。結局、生きたくなりました」


 おばさんの目に光るものを見た。半年流し続けても、枯れることはない。


「おばさん、私も友人に言われたのです。その友人は、自分の命を犠牲にして」


 おばさんの言った意味が理解できる。おばさんは今、共に生きようとしている。生死に境はあるけれど、おばさんの思いを息子を通じて、見知らぬ僕に確かな何かを残してくれた。

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