第30話 乾杯
エレベーターが二十四階に到着すると、僕たちはカウンター席の真ん中に案内された。一旦、ここで想像を膨らませるらしい。間違っても、『まだ準備ができていないのか』と疑ってはいけない。
正面を見ると、素晴らしい眺めが待っていた。特徴のある建物が幾つも見えたが、それが何なのか、検討がつかなかった。母が上京して、ここに連れてくる時は、予習を怠らないようにと、固く誓った。
ここは、どうも中継所のようだ。店側にそんな意図はないだろうが、試されているような重圧も与えた。この空間、そして、この間の最適な運用を、一任されたように。
蘊蓄を垂れてもよい。ここにはもう飽きてきたと、得意になってもよい。
でも、本条さんが隣にいると、黙っていることが、この間に相応しいと思えた。
食前酒を聞かれたが、本条さんも断った。何も注文しなかったからか、僕たちはすぐに、食事の席に案内された。
席に着くと、後ろから前掛けをセットされた。赤ちゃん以来の体験だった。自尊心が形成されるまでに、恥ずかしい体験は終わっていた。前掛けをすることは、少し照れた。しかし、隣の彼女を見ると、同じように前掛けをしていたので、可笑しくなった。
「何が来ても平気ね」
彼女は微笑した。
彼女は、注文を任せると言ったので、予定通りのコース料理を二つ頼んだ。飲み物には生ビールを注文し、彼女も同じものを選択した。
「今日は、食事に誘ってくれてありがとう」
彼女は改めて、僕にお礼を言った。
「そんな風に言われると、なんて言っていいのか」
「そこは、素直に、別にいいのだよ、でいいのでわ」
僕は微笑んだ。彼女は、僕の声を真似て低い声を出そうとしたが、失敗に終わった。
「では、付いて来てくれてありがとう」
僕は、少しアレンジして言った。
「沢村さん、出身地は?」
「熊本です」
「やっぱり、イントネーションが違っていたので。熊本らしいというか」
本条さんは、くすっと手を口に近づけた。
「なんですか、それは。本条さんは、どちらですか」
「私は東京です。初台の近く」
「初台ですか」
彼女が、あんな都心で育ったとは思ってもみなかったので、少し距離を感じた。
「近くに首都高速があるとこですよね」
「そうです。首都高は、どこにでもありますけど」
いつの日か、本条さんを抱きしめようと誓った。
『お待たせしました』
生ビールがやってきた。とても美味しそうだった。僕たちはグラスを手に取り、どちらともなく、二つのグラスが、僕たちの体の真ん中で、優しげな音を立てようとしていた。
頭の中に、複数の乾杯の言葉が浮かんできた。
二人に、出会いに、これからに……
どれも違う。熊本っぽくない。
迷っているうちに、僕の手の進むスピードが落ちていった。早く決めないと。これ以上、ゆっくり出来ない。もう、本条さんのグラスとの距離が無い。もうダメだと思った、その時、僕の口からこぼれた言葉は、
「エレベーターに」
僕は、熊本県民に謝罪する。僕の時間は止まったが、グラスの軽快な音が、僕を応援してくれた。この選択が良かったかは、分からなかったが、少なくとも、悪くはなかったようだ。
彼女は、僕の知っている数少ない笑顔の中で、一番に笑っていた。
色々な話をすることができた。今まで言われて、一番傷ついたこと。そして、聞けなかったことと、言えなかったこともあった。
聞けなかったことは、今、本条さんに、お付き合いしている人がいるのか。
そして、言えなかったことは、三年後に死ぬ可能性があること。
食事を堪能し、別室に案内された。奥の窓際にある、赤色のふたり掛けの皮のソファーに。
「いい眺め」
僕は、率直な意見を言った。
「ええ、とっても。星は見えないですけど」
本条さんは、そう言ったので、横顔を覗くと、少し寂しげに見えた。
店員は、この素晴らしい空間とメニューを残して、下がっていった。どうも、ここでデザートの時間を過ごすようだ。
「沢村さんって、甘いものはどうですか」
僕の中で、まだ食事も、本条さんの物寂しい表情も、消化できずにいた。
「大好きです。お酒も好きです」
「甘いものとお酒かぁ。珍しいですね。私、男性の人が甘いものを好むのって、子供っぽくて好きです。でも、飲みすぎは体に毒ですから」
また、本条さんは微笑んだ。
「お酒は好きと言っても、強くないので、もう十分です」
夕食に、生ビール一杯だけだった。
「だったら、安心です」
彼女の選択した安心という言葉に、先ほど魅せた孤独に似た表情が重なって、素直に喜べなかった。
僕たちは、メニューに目を通した。僕は、モンブランとコーヒーを、彼女は、抹茶のシャーベットと紅茶を選択した。
暫くの間、つまり、店員がデザートと飲み物を準備する間、食欲を満たした満足感と、外に広がる夜景とが、非現実感を演出した。
彼女との食事が、初めてだとは思えないほど、居心地が良かった。それは、何年も交際して、初めて生まれる感覚に近い。
違っている点は、程よい緊張感があることだ。これは、お互いの体を知って、初めて溶けるものなのだ。
『コン、コン』
店員が立てた、優しい音。
動いているのは、微かに揺れる、カップの中のコーヒーと紅茶だけである。この二人の時間が、これからも続いていくように思えた。
そうなることが、自然、いや、必然のように思えた。
そして、僕の体は、その思いを行動に移していた。先ほどの、本条さんの寂しい表情を、振り払うかのように。
「本条さん、僕とお付き合いしてください」
ちゃんと会うのは初めてで、本条さんは、憧れの存在でしかなかった。でも、こうすることが、自分のやるべきことだ。
本条さんの表情を見ると、不思議と驚いていなかった。
「私を幸せにしてください」
それは、僕が、ずっと憧れていた人から、一番聞きたいと願っていた言葉だった。
「はい。命ある限り」
暫くの間、僕は無言だった。どれくらいの間、無言だったのかは、わからない。恐らく、それは交際を申し込んだ直後にしては、かなり長い時間だったと思う。
既に運ばれてきたコーヒーを、台無しにしていたのだから。
帰宅中、いろんな思いが交錯した。
彼女の『私を幸せにしてください』の言葉に、『命ある限り』と答えた。この本当の意味を、彼女は知らない。
僕の気持ちに、嘘はない。
でも、僕の言葉には、既に嘘が含まれているのだから……。




