表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
贈り物  作者: 村上は


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/62

第30話 乾杯

 エレベーターが二十四階に到着すると、僕たちはカウンター席の真ん中に案内された。一旦、ここで想像を膨らませるらしい。間違っても、『まだ準備ができていないのか』と疑ってはいけない。


 正面を見ると、素晴らしい眺めが待っていた。特徴のある建物が幾つも見えたが、それが何なのか、検討がつかなかった。母が上京して、ここに連れてくる時は、予習を怠らないようにと、固く誓った。

ここは、どうも中継所のようだ。店側にそんな意図はないだろうが、試されているような重圧も与えた。この空間、そして、この間の最適な運用を、一任されたように。


 蘊蓄を垂れてもよい。ここにはもう飽きてきたと、得意になってもよい。

でも、本条さんが隣にいると、黙っていることが、この間に相応しいと思えた。


 食前酒を聞かれたが、本条さんも断った。何も注文しなかったからか、僕たちはすぐに、食事の席に案内された。


 席に着くと、後ろから前掛けをセットされた。赤ちゃん以来の体験だった。自尊心が形成されるまでに、恥ずかしい体験は終わっていた。前掛けをすることは、少し照れた。しかし、隣の彼女を見ると、同じように前掛けをしていたので、可笑しくなった。


「何が来ても平気ね」


 彼女は微笑した。


 彼女は、注文を任せると言ったので、予定通りのコース料理を二つ頼んだ。飲み物には生ビールを注文し、彼女も同じものを選択した。


「今日は、食事に誘ってくれてありがとう」


 彼女は改めて、僕にお礼を言った。


「そんな風に言われると、なんて言っていいのか」

「そこは、素直に、別にいいのだよ、でいいのでわ」


 僕は微笑んだ。彼女は、僕の声を真似て低い声を出そうとしたが、失敗に終わった。


「では、付いて来てくれてありがとう」


 僕は、少しアレンジして言った。


「沢村さん、出身地は?」

「熊本です」

「やっぱり、イントネーションが違っていたので。熊本らしいというか」


 本条さんは、くすっと手を口に近づけた。


「なんですか、それは。本条さんは、どちらですか」

「私は東京です。初台の近く」


「初台ですか」


 彼女が、あんな都心で育ったとは思ってもみなかったので、少し距離を感じた。


「近くに首都高速があるとこですよね」

「そうです。首都高は、どこにでもありますけど」


 いつの日か、本条さんを抱きしめようと誓った。


『お待たせしました』


 生ビールがやってきた。とても美味しそうだった。僕たちはグラスを手に取り、どちらともなく、二つのグラスが、僕たちの体の真ん中で、優しげな音を立てようとしていた。


 頭の中に、複数の乾杯の言葉が浮かんできた。


 二人に、出会いに、これからに……


 どれも違う。熊本っぽくない。


 迷っているうちに、僕の手の進むスピードが落ちていった。早く決めないと。これ以上、ゆっくり出来ない。もう、本条さんのグラスとの距離が無い。もうダメだと思った、その時、僕の口からこぼれた言葉は、


「エレベーターに」


 僕は、熊本県民に謝罪する。僕の時間は止まったが、グラスの軽快な音が、僕を応援してくれた。この選択が良かったかは、分からなかったが、少なくとも、悪くはなかったようだ。


 彼女は、僕の知っている数少ない笑顔の中で、一番に笑っていた。


 色々な話をすることができた。今まで言われて、一番傷ついたこと。そして、聞けなかったことと、言えなかったこともあった。

聞けなかったことは、今、本条さんに、お付き合いしている人がいるのか。

そして、言えなかったことは、三年後に死ぬ可能性があること。


 食事を堪能し、別室に案内された。奥の窓際にある、赤色のふたり掛けの皮のソファーに。


「いい眺め」


 僕は、率直な意見を言った。


「ええ、とっても。星は見えないですけど」


 本条さんは、そう言ったので、横顔を覗くと、少し寂しげに見えた。


 店員は、この素晴らしい空間とメニューを残して、下がっていった。どうも、ここでデザートの時間を過ごすようだ。


「沢村さんって、甘いものはどうですか」


 僕の中で、まだ食事も、本条さんの物寂しい表情も、消化できずにいた。


「大好きです。お酒も好きです」

「甘いものとお酒かぁ。珍しいですね。私、男性の人が甘いものを好むのって、子供っぽくて好きです。でも、飲みすぎは体に毒ですから」


 また、本条さんは微笑んだ。


「お酒は好きと言っても、強くないので、もう十分です」


 夕食に、生ビール一杯だけだった。


「だったら、安心です」


 彼女の選択した()()という言葉に、先ほど魅せた孤独に似た表情が重なって、素直に喜べなかった。


 僕たちは、メニューに目を通した。僕は、モンブランとコーヒーを、彼女は、抹茶のシャーベットと紅茶を選択した。


 暫くの間、つまり、店員がデザートと飲み物を準備する間、食欲を満たした満足感と、外に広がる夜景とが、非現実感を演出した。

彼女との食事が、初めてだとは思えないほど、居心地が良かった。それは、何年も交際して、初めて生まれる感覚に近い。

違っている点は、程よい緊張感があることだ。これは、お互いの体を知って、初めて溶けるものなのだ。


『コン、コン』


 店員が立てた、優しい音。


 動いているのは、微かに揺れる、カップの中のコーヒーと紅茶だけである。この二人の時間が、これからも続いていくように思えた。

そうなることが、自然、いや、必然のように思えた。


 そして、僕の体は、その思いを行動に移していた。先ほどの、本条さんの寂しい表情を、振り払うかのように。


「本条さん、僕とお付き合いしてください」


 ちゃんと会うのは初めてで、本条さんは、憧れの存在でしかなかった。でも、こうすることが、自分のやるべきことだ。

本条さんの表情を見ると、不思議と驚いていなかった。


「私を幸せにしてください」


 それは、僕が、ずっと憧れていた人から、一番聞きたいと願っていた言葉だった。


「はい。命ある限り」


 暫くの間、僕は無言だった。どれくらいの間、無言だったのかは、わからない。恐らく、それは交際を申し込んだ直後にしては、かなり長い時間だったと思う。

既に運ばれてきたコーヒーを、台無しにしていたのだから。


 帰宅中、いろんな思いが交錯した。

彼女の『私を幸せにしてください』の言葉に、『命ある限り』と答えた。この本当の意味を、彼女は知らない。


 僕の気持ちに、嘘はない。

でも、僕の言葉には、既に嘘が含まれているのだから……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ