第29話 食事
僕は木のそばで待つことにした。
ひとりの男性が目に入った。見かけたことはあるが、名前は知らない。誰かと待ち合わせをしているのだろうか。その答えはどちらでもよい。ただ、ここでよかったのか、と正当な疑問が浮かんだ。『障子に目あり』というが、炙り絵のように密会は浮き彫りになる。色彩はなく、墨絵として人目に晒され、それぞれが好き勝手に脚色するから始末が悪い。
少し肌寒く感じ始めた。これは五感のうち、どれを刺激しているのだろうか。確か、温度を検知するのは五感ではなく皮膚だったような。
本条さんを待っているのに、余計なことが巡り始めた。五感より大事な感性があるか。二番目に大事なものが、生命を支えているのかもしれない。
いずれにしても、五感が機能しない東京で、黄昏時を感じ取ってくれている脇役の皮膚に、感謝したかった。
嫉妬したのか、視覚が目覚めた。ドアが開いた瞬間、分かった。本条さんだった。
エントランスから放たれる像は、永く待ち焦がれた蜃気楼かと思えた。憧れのきっかけとなった立ち姿が、際立っていた。
彼女の装いは、細部に注目させるでなく、理想体型に誂え物の品位を得ていた。それは、僕が購入したカーディガンとは一線を画しており、平凡な価値観や金子では太刀打ちできない。僕の裁定基準が誤っていたことを、思い知らされた。
とても清々しい気付きであり、なんとなくカーディガンをクローゼットに仕舞った訳が、ここではっきりした。そして、その冤罪も確定した。
一瞬の遅れだったと思う。彼女が先に微笑んだ。僕にだけ向けられた、意思のあるものだ。僕もそうしていた。微笑みを返すのが、精一杯だった。
恍惚感のあまり、用意していた言葉を見失い、言えなかった。それは動揺なのか、先に来て待ち、静止状態から動作へ移る際の慣性が作用していたのか、わからない。
彼女への憧れは、これらを凌駕するはずで、他にも協力者がいたに違いない。
勘ぐるなら、金曜に会社の目先で会うことへの面映ゆさと、ごくごくわずかな疾しさを、うまく調和できなかったからだと思う。
だから、僕は遅れをとったのだ。
「すみません。お待たせしました」
「仕方ないです。僕は四階ですから」
遅れてはいない、と伝えるつもりだった。
「総務に友達がいるから、席を三階にしてもらおっかな」
「そんなことしたら、次からは言い訳ができなくなりますよ」
「失礼しちゃう。私、遅刻は一度もないの。優等生って言ったの、覚えている。沢村さん」
「優等生の称号は、まだ早いかな」
「いいわ。三度証明したら、いただけるかしら」
「邪魔してもいい」
「受けて立つわ」
そう言って、右手で握り拳を作った本条さんの目は鋭く、僕を怖気づかせた。
「行きましょうか。遅刻するといけないので」
「はい」
勝手ながら、二人の関係が発展したような気がした。無断で拵えた憧れの本条さんとの間には、磁石の同極に似た、一定の縮まらない距離が存在し、それは決して距離を失わないと誤解していた。
なぜなら、そこにあるのは、本条さんへの思いの質量を、詰め込んだものだからだ。
でも、時間ぴったりだった本条さんは、その思いが、ふたりの間に距離を創造するのではなく、既にそれは質量を失い、目の前で、本条さんの拳の中で蒸発していると示してくれた。
何気ない会話の始まりは、全くの他人から、ステップアップしたように思えた。そのステップは小幅だったが、確実なものであり、数名の社員が通り過ぎるのを、気に留めない決意をくれた。
僕らは駅に向かった。ふたりの距離は恋人以上に離れていたが、他人だと違和感であり、エレベーターより確実に近い。
ずっと憧れていた人が、そばにいることが、僕の遠近感を鈍らせたのだ。そう、その概念自体が、失われていた。
「今日はどこに連れて行ってくれるのですか」
「お肉は好きですか」
お肉が好きだと、盲信していた。
「はい」
「良かった。恵比寿の鉄板焼きです」
「私がベジタリアンだったら、どうしたの」
彼女は、嬉しそうに僕を見た。
「肉を抜いて、と頼みます」
シェルへの冒涜である。
「お肉は頼んでください」
雨が地面を這い、低所に溜まるように、渋谷駅では人の冠水が見られた。
ここは年中、干上がることはない。
本条さんを隣にすると、溜池よりは、オアシスの方が適切である。雨水にも不純物が含まれているように、仕事以外の割合は、他の駅より高いと思う。
ゆえに、朝の殺伐感は、多少なりとも緩和されており、これは不純物の割合の増加と、社会的義務の遂行により、オアシスであっても木々を萎えさせる。
改札を出たところで、本条さんを待った。
「ごめんなさい。金曜は人が多いですね」
「逸れないように、旗を持ってくればよかった」
本条さんは、月の笑顔を見せた。
「必要ないわ。ちゃんと見ていますから」
僕たちは左側に並んで、エスカレーターで上った。恵比寿方面のホームは、新宿方面に比べると、空いていた。
電車を降りて、ガーデンプレイスに向かった。駅からガーデンプレイスまでは、思ったより距離があったが、道のりは心が踊り、声が弾み、耳は爽快に目を覚ましていて、お腹の音が、鶯のように響き渡った。
ホテルに入ると、その雰囲気に圧倒された。僕が知っている、これまでのホテルより、天井が遠かった。床の大理石は、白黒で配列されていた。ここでオセロをプレーしたら、滑稽だろうと想像した。
その一つひとつの大きさも、広い空間と調和していた。全ての装飾品が、それ一つを取ると、高価で個性を主張している。それらをどう合わせれば角が取れ、全体の雰囲気に馴染み、そのためだけに献身と犠牲を払えるのか、綿密に計算されていた。無駄が、有効に変わる瞬間である。
「凄く豪華な造りですね」
どちらが、ここに決めたのだろうか。
「タータントホテルっていえば、トップレベルですよね」
彼女が、ここへ来るのは何度目だろうか。そして、その目的は何だったのか。結局、僕は鉄板焼き屋について知っていたのは、電話番号とコースメニューのみだった。
「タータントが、こんなに素敵だとは思っていませんでした」
正直に言った。僕たちは、エレベーターホールへ向かった。店の階が二十四であることを確認して、上りボタンを押した。
「楽しみですね」
正直、お腹が満たされればいい。そんな意味が、この言葉に込められていることを、彼女は恐らく、気付いていないだろう。
「私も、とっても楽しみです」
彼女の楽しみって、どっちだ。
「どうぞ」
彼女を先に、エレベーターに乗せた。そして、ボタンの前に立った。
「何階ですか」
と、僕は言ってみた。
ここは特別な場所なのだ。ドアが閉まってから、再び開くまでの限られた時間が、決断と行動を促すのだ。
「七階でお願いします」
この瞬間、豪華な夕食は、今日の出来事の格付けで、副菜に転じてしまった。初めて出掛けているにもかかわらず、一体感がたまらなかった。
会話を録音し、再生すると、少し恥ずかしいやり取りなのだが、それさえも台本にあり、本条さんは演じてくれた。
「エレベーターでお会いした時のことを、思い出していました」
僕は、彼女があの時、どんな気持ちだったのか、聞きたかった。どんな思いで、食事の承諾をしてくれたのか、と。
そして、柿が好きかは、いつでも聞けそうだ。




