第26話 張り込み
片桐とこうしていると、昔を思い出した。あれは確か、日高のフライデー事件だ。大学二年の頃だったと思う。僕らは日高から特命を受けた。彼女の心が揺れているので調べてほしい、と。
最初は気乗りしなかったが、片桐の「若い時はどんどん変えて、経験すればいいんだよ」という言葉に、同い年の僕は背中を押された。日高も悩んだ末の決断だったし、「介錯を頼む」と、終わらせたかったのだ。
その時も、僕らは二人で一週間、日高の彼女を尾行した。
尾行そのものは苦痛ではなかった。依頼を受けた時から、終わりが来ることは覚悟していた。ただ、どこかで日高が「もういい」と言ってくれるまで続くことを願っていたが、任務は呆気なく完了した。
一週間ほど経って、彼女が浮気している現場を目撃した。あの行動が正しかったのか、今でも分からない。片桐にも、それを問うことはなかった。
事実を日高に伝えるのは、とても辛かった。それだけは鮮明に覚えている。だが、もっとも印象に残っているのは、後日、最上が日高にかけた慰めの言葉だ。
『婚前の浮気って、悪いことじゃない。付き合うって言葉の定義が、クソ喰らえだ』
「あの時は辛かったな」
片桐は渋い顔で言った。どうやら、同じ記憶を辿っていたらしい。
「俺は、事実を伝えた時の日高の顔を、今でも忘れられない」
僕も渋い顔を真似た。
「お前に嫌な役を引き受けてもらったな」
「今となっては、楽しい思い出の一つだ」
こんな場面で笑いを提供してくれた日高に、同情より感謝が勝った。これで健康診断の件をチャラにしよう、と、僕らは堪えきれずに笑った。借用書を破くような気分だった。
「片桐、注文は決めたか」
「ああ。俺はカレーライスとアイスコーヒー」
「カレーはともかく、アイスコーヒーは寒くないか」
「大丈夫だよ。お前は?」
「俺もカレーにする。でも、アイスコーヒーには付き合えない」
いつもなら片桐が何を頼もうが気にしない。だが、日高の苦悩を共有した直後だったせいか、同じものを注文することが、暗黙の義務のように感じられた。
片桐は出入口に注意を払いながら、カメラの準備をしていた。ビルに男が入るたび、見逃していないか気にしている様子だった。
「今日、雨宮に会った時はどんな格好だった」
「上下黒のスーツだった。ワイシャツは白だったと思う」
「つまらないやつだな」
目立たないようにしているだけだ、と思いつつ聞いた。
「雨宮を見つけて、どう探るつもりだ」
「まだその先は考えていない。ここに来る途中で何か浮かぶと思ったが、さっぱりだ」
片桐はカメラのピントを確認しながら続けた。
「まあ、顔を見れば何か思いつく。まずは雨宮から、依頼人を割り出さないとな」
「また空振りに終わりそうだが……でも、ひょんなところから占い師の素性は分かったしな」
片桐の自信の根拠は分からなかったが、僕は頷いた。日高の時とは状況が違う。
「佐久間は、何をしようとしていたんだろうな」
片桐はピントの合ったカメラをテーブルに置いた。
「永井に賭けるしかない」
僕は、そう思った。
『お待たせしました』
僕らは無言でカレーを食べた。今この瞬間にも、雨宮が現れる可能性がある。流し込むように食べたが、カレーは思いのほか美味かった。
食事中も外に目を配ったが、雨宮らしき人物は現れない。今日、本当に戻って来るのかと不安になり始めた、その時だった。
駅の方から、見覚えのある男が歩いてくる。
「片桐、間違いない。あれが雨宮だ」
「よし、角度も悪くない」
片桐はスプーンを素早くカメラに持ち替え、構えた。数回、シャッター音が小さく響く。獲物を捉える獣の目だった。彼のレンズ越しの視線で、成功を確信した。
「よし。上手くいった」
片桐は画像を確認し、その一枚を僕に見せた。
「これで間違いないか」
「間違いない」
「よし。長居は無用だ。今日はこれで帰ろう」
ただカレーを食べに来ただけの客のように会計を済ませ、店を出た。
帰り道、僕は聞いた。
「何か良いアイデアは浮かんだか」
「いや、何も。今日はゆっくりしよう。雨宮もどこにも逃げない」
「家、盗聴されていると思うか」
「そこまではしていないだろう」
片桐の言葉で、少しだけ安心した。
自宅に戻り、洗濯物を取り入れた。気温は低かったが乾燥していて、意外とよく乾いていた。ひと段落ついた途端、どっと疲れが押し寄せた。
片桐から雨宮の写真が送られてくる予定だったが、待つ気力はなかった。確認したところで、雨宮の顔が変わるわけでもない。
僕は、大事な何かをすっぽかした気がするほど眠った。時計を見ると、すでに十時を回っている。それでも、まだ寝足りなかった。
布団の中でしばらく過ごした。今日は穏やかな一日になるのだろうか。そう思えるほど、幸せな時間だった。
そんな中、ふと、本条さんの顔が浮かんだ。
そうだ。今週、食事をする。




