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贈り物  作者: 村上は


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第18話 食事の約束

 朝の出来事は、形を変えて意識の中で泳いでいたにもかかわらず、仕事がはかどった。活力を産む燃料なのかもしれない。それも最高純度を誇り、燃焼後に残留物は何も残さない、理想系で有る。


 仕事が一段落し、帰宅の時間が迫ってきたので、本条さんの顔を水野にすり替え、彼の様子を窺った。ちょうど水野の隣の席が空いていたので、席を立った。


「水野さん、ちょっとアドバイスいただきたく。今、いいですか」


 水野は途中だった文章を打ち終え、保存した。一応仕事をしていた。

水野には、決して『どうして桂木に聞かないのだろう』と悟られてはいけない。


「改まって、どうしたの」


「今度、食事に行こうと思っているのですが、どこか雰囲気のいいお店、

知りません?」


 水野は、身を乗り出してきた。


「何料理がいいの。あと予算は?」


 思った通りだった。彼の気にするところはもっぱら、自分がいかに短時間で、何軒候補を探し出せるかである。


「和食ですかね」


 最初の食事は和食に限る。箸と鉛筆の持ち方には自信があった。

拠り所にされた箸は迷惑に思っているかもしれない。


「やっぱり木の温かみがあっていいですからね」


「何だその、木の温かみって」


「いや、なんとなく日本的かな、と思って」


「日本食だから当たり前だろ。それで、いくら予算は」


「いくらでもいいです」ちょっと格好つけすぎたかな。


「そりゃすごい。やる気満々じゃん」


 何か嫌な答えを誘発した気がしたので、僕は間髪入れずに言った。

「いくらでも、って言っても常識の範囲で、ってことで」


 お構いなしに、水野は店選びに取りかかった。

「それならいい所がある」


 そう言いながら、水野は即座におすすめの店のホームページを開いた。


「鉄板焼き。恵比寿のタータントホテルの二十四階。雰囲気も抜群。デートには最高だ。まあ、和食かは微妙だけど、こだわりはないよな」


 あっさりデートって言ってくれましたね。そう言ってもらえたことで安心して、ここに決めることができる。確かに和食にした理由は、箸を使うことだ。なら問題ない。


 水野に言われて思ったが、ホテルの高層階にあって雰囲気がいいとなると、夜景と調和した内装になっているはずだ。照明など、デートには最適だろう。


 だから、ゆっくり会話もできるし、周りが個人を過大に美化するような演出もない。ゲレンデでドキッとし、後日、借金の取り立てのように理不尽さをかえりみず、「ドキッを返済しろ」と迫られることもない。


「安全そうなので、じゃ、そこにします」


「安全って、相手にそんな趣味があるんだ。あ、でもここ結構高いよ。

 二人で五万は覚悟しといて。まあ、いいよね。デートなんだから」


 今さら、この気持ちを後戻りさせることはできない。これが押し売りだったら、いらない水晶を買わされていた。


 ちょっと待てよ。これってデートなのか。水野の言葉を流したのは正解だ。

でも、これをデートとは誰も呼ばないだろう。


「もちろん、予約はいるよね」


 水野は無言のまま電話番号をポストイットに書き留めた。


 店は鉄板焼きに決まった。あとは、何時にするかだ。週末に設定するのは申し訳ないし、一大イベントにもしたくない。平日だと、気持ちのゆとりがある金曜日。と思ったが、別の予定が入っている可能性も高くなる。

しかし、せっかく食事に行くのだから、やっぱり金曜日は譲れない。


 カレンダーを確認した。今日は火曜日だから、最短で翌週の金曜日となる。

本当は今週の金曜日に設定したいが、さすがに非常識だし、店の予約もできないだろう。一番の懸念は自分自身の心の準備である。それに、エレベーターで本条さんと交わした『仕事が早く終わった時に食事行きませんか』が嘘になる。


 さて、いつメールを送信するか。来週の金曜日がターゲットだ。それほど時間はない。でも、この時間って、ずっと焦がれていたのではないか。本条さんがどんな人で、何に時間を使い、何を嫌うのかを想像することは、実は後ろ向きである。

でも今は、確実に前進するための時間だ。どんなに平凡で単調な思考でも、少しずつ積み上がっていく。


 今日一晩、無駄にならない、無駄な思考に使おうと決めた。


 翌日、仕事は捗らなかった。前言撤回する。マルチタスクには向いていない。

大筋のメール内容をシミュレーションしていたからだ。


 帰宅前に、電子メールの『新規メール作成』ボタンを押した。いつもよりメッセージ入力画面が、ゆっくり開いた気がした。通常なら宛名を先に入力するのだが、作成中に誤って送信されないように、まず本文から入力を始めた。だが、なかなか指が動かない。


『本条さん(さすがに下の名前を書くことはできない)、こんにちは(『こんにちは』って今は夜だ。やっぱり『こんばんは』の方が良いか。でも、彼女はもう帰宅しているから、このメールを見るときは朝のはず。やっぱり『おはよう』の方がいいか。でも、本条さんならメールの発信記録を気に掛けると思う。これは僕の想像であるが。やはり読むのは朝なので、おはよう、に書き直した)おはよう(天気の話は出来ないな〜明日の天気はわからない)

お元気ですか?昨日はエレベーターにて失礼しました。その時、約束したことを現実のものにしたいと思いメールしています。(率直に自分の気持ちを伝えるためにちょっと強気に出てみることにした)来週の金曜日はいかがでしょうか?ご都合よろしければ予約を取ります。沢村(名字で始まったのだから、名字で終わったほうが釣り合う)』


 送信ボタンを押す前に、もう一度読み返した。誤字脱字がないことを確認し、送信ボタンへマウスを向けた。


 その時、開封通知設定を行うか迷った。


 仕事で緊急度の高いメールには必ず付けるようにしている。

開封して返事がなければ、遠慮なく督促する。


 開封通知設定をしないで送信することにした。このメールが読まれるのは、おそらく明日の朝だろう。


 時計を見ると、すでに二十二時前だった。僕はパソコンの電源を落とした。


 翌日、いつもと変わらぬ時間に会社に着いたが、鞄を置く前にパソコンの電源を入れた。起動中に鞄の中身を取り出し、すぐにメールソフトを起動させた。


 本条さんから返事が届いていることはすぐに分かった。メールの件名が“RE: 食事の件”で異色を放っていた。


 差出人の名前はどのメールも同じ書式なのだが、『本条』という名前だけは、大きく、太く、輝いている。なぜか『みにくいアヒルの子』の話が頭に浮かんだ。


 図形の認識は二つの経路が脳内にあるらしい。腹側皮質視覚路と背側皮質視覚路である。この二つを最初の入り口として、さらに複雑な工程があり画像を認識するそうだ。


 しかし、本条のかたちは頭の中で再三再現され、第三の経路、つまり二つの経路をバイパスし、無意識に形成された直通ライン(()()皮質視覚路)を経由するのだ。この第三の経路はどの経路よりも優先され、超高速で『本条』を認知する。人間の脳の不思議である。


 一呼吸おいて、僕はメールを開いた。


『沢村さん、おはようございます。昨日も遅くまでお疲れ様でした。私は元気にしています。ありがとう。食事の件ですがOKです。詳細が決まったら教えてください。楽しみにしています 本条』


 想像と現実の境界線から、現実側への第一歩を踏み出した。こので彼女からの了解メールを読むと、本当に嬉しかった。


 短文にもかかわらず、読み忘れがないように何度も読み返した。行間はもちろん、すべての文章に別の意味を探した。文字数と、そこに伏せておく想いの質量は比例しない。


 文字数を減らす方法に、ツーカーの関係が挙げられる。ひとつ言えば、じゅうのことを伝えられる。以心伝心、阿吽あうんの呼吸。


 でも、僕らにはその領域に至るまでの時間の共有も、学習プロセスもない。初めて姿を見て以来、話すらできなかったのに、この数日で食事の約束をし、すでに店まで決めている。


 物理、エネルギー保存の法則。ゴムのように圧縮すればするほどエネルギーは蓄積され、開放時に爆発的な出力を発揮する。本条さんとの加速も同じなのか。


 互いの想いはそれぞれ独立し、別々の方法、別々の速度で育まれてきたことになる。なぜなら、この加速には共同作業、共鳴、共振、そして一番大事な同意がないと成立しないのだから。でも速度については、光を追い越したのかもしれない。


 ごめんなさい、アルベルト・アインシュタイン。あなたに舌を出して。

そうだ。早く店を予約しないと。


 予約するにあたって、本条さんの都合をメールで確認した。すぐに返事が返ってきた。当日、定時には終われるということだったので、予約を十九時半に入れた。


 僕は予約時間を本条さんに連絡し、具体的な待ち合わせ場所は当日連絡することにした。


 それに対し本条さんからは、簡単な返事が返ってきただけだった。


『よろしく』と。

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