第17話 エレベーター
二度目の偶然がやってきたのは、一度目からだいぶ経っていた。
佐久間のことを考える時間が増えたことで、不定期に浮かんでいた雑念は、ハンマーで吹き飛ばされ、モグラの出現はぴたりと止んでいた。
モグラの絶滅による生態系への影響は、他人事のように聞こえるかもしれないが、雑念との共存は日々の義務に向き合う活力を与えてくれる。稀に仕事をサボることは罪悪感を誘発し、責任感を加速させる。処方を誤れば、精神疾患を発症するかもしれない。
ただ、鋼鉄でできたハンマーであっても、仕事と本条さんのことは、どこへも追いやれなかった。生活の手段と、生きるために必要なもの。元素、有機物、エネルギー、水、仕事、そして彼女である。
素敵な言葉で言うなら、聖域。堅く言うなら、治外法権となる。雑念を失った分、思考の揺らぎ幅が狭くなったように思う。それは、車のハンドルが必要とする遊びのような、なくては困るものではなく、携帯の画面に保護シートを貼るときにできる気泡のようなものだった。
つまり、精神疾患を起こすかと思われたが、結果として不可欠な柔軟性ではなく、雑念は不要なのだと気づいた。しかし、モグラが不要だとは言わない。
だから、感情を喪失したわけでもなかったし、同僚から性格が変わったと指摘されたこともない。内なる変化が行動に出るとは限らないようだ。
その変化のひとつとして、偶然を期待するのをやめた。とても大きな変化と言っていい。マーフィーの法則との関連性はわからないが、期待するのをやめると、それは起きるのだ。
その朝、僕はいつものようにエレベーターを待っていた。以前なら、エレベーターの速度は遅いと感じていたが、今はそうではない。エレベーターは設計通り、止まることなく、きちんと動作している。
この程度の心の変化なら、誰も気づかず、指摘もしないだろう。
「おはようございます」
後ろから聞こえた声の主は、本条さんだった。彼女から声をかけてくれるとは思ってもいなかった。同じ会社に勤務しているのだから、挨拶くらいはする。声をかけない方が不自然だ。ただ、日本の場合、声に出さないことも多い。
「おはようございます」
僕はきちんと本条さんの目を見た。そして言葉を続けた。
「偶然ですね」
まるでこの時を待ち侘びていたかのように、自然と口から出ていた。それが今朝叶うとは期待していなかった。もちろん、望んではいた。
しかし、彼女の次の言葉が、僕を茫然自失にさせた。
「これで二度目です」
それは、僕が思っていたことだった。本条さんより先に気づいていた。これに関しては自信がある。
「そうですね。この前は、たしか一年ほど前でした」
彼女に対しては、思っていることを思考のフィルターを通さずに伝えようと思った。思考のフィルターは、多機能であるがゆえに、自分をよく見せようと偽り、相手への印象を気にして言葉を濁す。その結果、鏡のように同じフィルターを相手にも供与してしまう。
始末が悪いのは、この供与が勝手に行われ、自分では制御できない点だ。だから、一体感のようなものが得られた気がした。
「お仕事は大変ですか?」
これは社交辞令ではない。知りたかったことリストの、掴みのカテゴリーに属する。
「そんなことはないです。定時日はちゃんと守っています。私、優等生なの。沢村さんは、いつも大変そうですね」
笑うところだろう、と心の叫びが聞こえたが、対応できなかった。確実に僕は一瞬フリーズした。それは、本条さんが不意にお茶目な台詞を発したことへの、喜び混じりの驚きと、それに対する切り返しを考える思考のトリガー中に、自分の名前を耳にしたからだ。回路が迷走し、鼓動はこれ以上ないほど加速した。
なぜ僕の名前を知っているのか。名前を調べることは容易い。会社が公開しているデータベースにアクセスし、組織表を見ればいい。それをするかどうかは、モチベーション次第である。
突然放たれた彼女の二つの魔法には対応できなかった。サッカーの試合で、突然チャンスボールが目の前に転がり、どこにゴールを決めようかとキーパーの位置を探っているときに、審判がいきなりルール変更し、もう一つボールを追加したようなものだ。
だから、僕のシュートは弱くなり、ガラ空きだった左サイドではなく、キーパー正面へと放たれた。
「そうですね。あっ、でも、たまには早く帰るようにしています。出来が悪いので」
言葉の最後に、優等生へのお返しを取って付けた。シュートは弱くとも、枠内に放つことは鉄則である。
僕は何をやっているのだ。動揺したのは許容しよう。試合中のルール変更なのだから。
しかし、一年越しに訪れた本条さんとの機会に、洒落た会話を楽しみたいのか。運よく彼女の興味ある話題を、おみくじで大吉を引き当てるように振る舞おうとしている。
占いにも懲り懲りではなかったのか。
違う。なぜルール変更に惑わされる。ルール変更があっても構わない。最初から使っていたボールだけに集中すればいい。そのボールだけを、魂を込めて蹴り込めばいい。
僕は、この瞬間を逃せば一生後悔する。そして何より、本条さんともっと話をしたいという気持ちが、すべての障害物を押しのけた。欲張りな僕は、二つのボールを両方とも蹴り込もうとした。
たとえ、この会話の途中で誰かが二人の境界に入り込んできても、恥ずかしいとは思わなかった。だから、素直に誘った。
「もしよかったら、仕事が早く終わったときに、食事に行きませんか」
言葉を発した瞬間、「言ってしまった」と思った。同時に、「でかした」とも思った。言うべきことを言ったのだ。
タイミングよく、エレベーター到着予定のブザーが鳴った。僕たちを舞台に上げるかのように。観客はいない。これは貸切だ。
「どうぞ」
良い返事がもらえるように、願を掛ける思いで言った。エレベーターは、空気が読めるのかもしれない。
「ありがとう」
「えっと、何階ですか」
彼女のオフィスの階を知っていることを、七階のボタンを押すことで伝えようかと思ったが、食事の返事を督促しているようでやめた。舞台に立ってくれただけで十分だった。ここは公平にいこう。
「七階、お願いします」
「承知しました。前回は二階でしたね」
一年前、本条さんが二階で降りたことを伝えた。そうすることが正しいと思ったからだ。
しかし、エレベーターが動き出すまで無言が続いた。僕は受験生の思いで待つことにした。やるべきことはやったのだ。
断り方を考えているのか、返事をせずにいようとしているのか。ひょっとして、僕の誘いが聞き取れなかったのか。結局、雑念は消えなかった。
質問をもう一度言うべきか迷っている間も、エレベーターは上昇を続けた。それでも、僕はこのエレベーターを信頼している。
「それでは、早くお仕事が終わりそうなときは、教えてください」
本当に、と心の中で叫んだ。最高に嬉しかった。この瞬間、三年後に死ぬかもしれないという運命のことは、頭から消え去っていた。
「メールしてもいいですか」
さすがに電話は無理だった。少し間をおいて、彼女は小さく頷いた。
「はい」
僕は先に四階で降りた。どうやって降りたのか記憶がないし、会話の内容もほとんど覚えていない。短いやり取りにもかかわらず。
ただ、食事に行く約束をしたことだけは、確かな事実だった。
今回の出来事と、佐久間のことで、悲喜交々な現実に転びそうになったが、転んでもすぐ起き上がれる。転ぶことで目が覚め、現実を噛み締められるなら、転ぶことさえ厭わない。
レストラン選びには心当たりがあった。同僚の水野に相談するのが最善策だ。彼はこういうことに、驚くほどのセンスを発揮する。特別モテるわけではないが。
本来なら、もう一人の同僚、桂木に聞いた方がいい。こういった類のセンスはあり、実際にモテていた。しかし、人間には良い面と悪い面があり、彼の悪い面は詮索好きなところだ。
桂木のしつこい質問攻めにあい、相手を悟られるのが嫌だった。僕としては構わないが、本条さんに迷惑をかけたくなかった。
それに、彼女との歩みに、どんなに微塵であろうとも、第三者の介入を許したくなかった。
食事の約束をしたから思えることだが、正式に電話や呼び出しで誘っていたら、同じ結果になっただろうか。誘う勇気はあっただろうか。おそらく、なかった。
なぜ誘えたのか。そんなことを考えている自分が不思議だった。実際に食事に行くことになったのだから、それだけ考えていればいいのに。
浮かれていた気持ちを、現実に引き戻す思いが脳裏に浮かんだ。モグラになったような衝撃だった。
——ちょっと待てよ。
あの事件がなければ、本条さんを食事に誘う勇気なんて、僕にはなかったのではないか。
この時初めて、僕の未来も、あの事件によって変わり始めていることを実感した。僕にはどうしようもなかった。動き始めた慣性は、自転のように途轍もなく大きい。
変化は、すでに心にまで届いていた。




