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贈り物  作者: 村上は


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第16話 脱皮

 最上は戻ったその日に、重村と日高に連絡を入れた。あいにく日高とは連絡が取れなかったが、重村とは話をし、健康診断に賛成してくれた。


 日高には最上が翌日連絡を取ったが、年に二回も健康診断を受ける必要はないと断られたらしく、最上はもう日高とは話したくないからと、僕が後を引き継いだ。


 その日の夜、日高に電話をした。健康診断のことは言わず、ただ会いたいとだけ伝え、日高に会う約束をした。


 作戦や、どうやって話せばいいかといったアイデアはなかった。事前に準備することなく会えるのが、友人たる所以であるからだ。


 ただ、結果は、そんな簡単にはいかないと思い知らされることになる。社会的地位には、自分の家庭も含まれる。それは時に、社会的地位の枠を外れ、何よりも優先されることがある。それを僕は思い知らされるのである。


 数日後、僕は仕事を予定通り終え、日高との待ち合わせ場所へと向かった。責任ある立場になると時間の自由は失われるが、優先順位の設定においては優位になる。


 僕は時間ちょうどに現地に到着した。店に入ると、すでに日高が待っていた。ビールと簡単なつまみを注文していた。


「すまん、遅くなって」

 僕は遅れていないが謝っていた。


「俺もそんなに待ってないよ」


 ビールも一杯目らしく、ほとんど飲まれていなかったので、本当にそれほど待っていなかったようだった。とりあえず同じものを注文した。そして、家庭人の日高を思い、前置きを省いた。


「最上から、実家へ行った時のことを聞いたか」

「佐久間が保険に入っていたって、どういうことだ」


 日高から最初に出た言葉が「保険」だったので驚いた。最上がどのように説明したのかはわからないが、どんなに話が下手でも「保険」が最初に出てくるのはおかしい。国語の試験なら正解かもしれないが、道徳なら答案用紙は真っ赤になって返却されるだろう。


 だが、僕は赤ペンを使うのを控え、自分の意見を伝えた。


「佐久間は、自分の死を分かっていたとしか思えない」


 日高は首を横に振った。


「本気でそんなことを信じているのか。最上にも言ったが、お前たちはどうかしている。何を根拠にそうなるんだ。確かに保険に入っていたことには驚いた。だが、俺は単なる偶然だと思っている」


「だったら、佐久間の死亡日と占い師の言った日付が一致したことを、どう説明する」


 日高は再び首を横に振った。


「そんなの説明できないし、説明する必要があるのか。それも、たまたまだろ。だって、そんなこと予言できるわけがない。できるとしたら、佐久間の担当医くらいだよ」


 僕の赤ペンを振るう時が来た。


「今、何て言った。佐久間の担当医なら死亡の予測ができるだと。お前は何が言いたい!」


 日高は冷静に答えた。


「佐久間は何らかの持病があり、医者から死を宣告されていた。そして占い師を雇って、一芝居打ったのだ」


「お前、いつからそんな言い方ができるようになったんだ!」


 これは、日高があの日遅れて来て、占い師とのやり取りの現場に居合わせなかったこととは、まったく関係ない。


「俺はトラブルに巻き込まれたくない。俺には、お前たちと違って家庭がある。だから、はっきり言っておく。この件に関して、もう俺を巻き込まないでくれ!」


 僕は、青色リトマス紙を塩酸に浸したように、落胆から怒りへと変わっていく自分が、はっきり分かった。


「佐久間は死んだんだぞ。お前は平気なのか。何も感じないのか」


 日高の顔も、僕のリトマス紙のように赤らんできた。これはアルコールによるものではない。


「それはこっちの台詞だ。お前たちは無神経にも程がある。佐久間の実家までのこのこ行って。そっとしておくことが大切なんじゃないのか。お前たちの行動こそ、佐久間を裏切っている」


 日高の指摘は、痛いほど分かっていたので、はっきり言われて堪えた。しかし、佐久間が言った「重村を頼む」が、僕の胸を突き刺していた。


 ただ、日高の立場も理解できる。彼が言っていることは本心ではない。偶然だの、担当医だの、理由は何でもいいのだ。


 彼にとっては、家庭を守りたいだけなのだ。彼の優しさのベクトルが、家庭に傾いただけである。


「日高、分かったよ。もう巻き込まない。でも、最後に一つだけ協力してくれないか」


 僕は、()()という言葉を使った。


「何をしてほしい」

「だから、健康診断を受けてくれ。頼む。全員が受けないと意味がない」


 日高はため息をついた。


「分かったよ。健康診断は受ける。ただし、この件に関して俺が協力するのはこれが最後だ」

「ああ、分かった。感謝する」

「勘違いするな。俺は佐久間のために協力するんだ。これ以上、お前たちが変なことを考えないように、今回だけは協力する」

「ありがとう」


 僕はそれ以上、何も言わなかった。このまま日高との関係がこじれるのを避けたかった。日高も本心では、不安で仕方がないのだから。


「日高、ところで奥さんとは上手くいっているのか」

「ああ、相変わらず口うるさいけどな」

「うるさいうちが華だよ。最上のように」


 日高は、娘の大事な行事があるらしく、夕食は家で済ますと言い、ビールだけ飲んで別れた。頼んでいたつまみには、ほとんど手を付けていない。


 恐らく、本当に娘の大事な行事なら、今日会うことはしなかっただろう。用件のみで帰宅した日高のメッセージは、とてもクリアだった。


 僕は帰宅後、片桐に連絡し、日高が健康診断を受けることに同意したと伝えた。近々、最上にも会って、日高との関係を修復しないと。電話を切り、ソファに寝転がって天井を見た。


 じっと天井を眺めた。いつも存在していた天井なのだが、こんなに見つめたことはなかった。正面のやや右に、茶色くなっているところがあることに気づいた。はて、いつからあんなふうになったのだろう。


 僕はおもむろにソファから起き上がり、洗面台の下の扉を開け、メラミンスポンジを取り出し、鋏でライターくらいの大きさに切り取った。


 それを水で濡らし、キッチンから椅子を持ってきて、先ほど茶色くなっていた箇所の真下に置いた。


 椅子に上がり、茶色くなった箇所を間近でじっと見た。特に変わった様子は見られなかった。手に持ったスポンジを、茶色の箇所に擦り付けた。


 それは簡単に色を失った。僕はスポンジを裏返し、何度も擦った。どこが茶色くなっていたのか分からないほど、跡形もなくなっていた。


 僕は少しがっかりした。ある程度の激戦を期待していたからだ。意外と弱かった、茶色君。何のために、君はそこにいたのだ。こんなに簡単に消えてしまっては、意味がないじゃないか。


 これまで、何気なく過ごす日々が幾度となくあった。人類誕生から今日までの時間を考えると、僕の一生など、この茶色君と同じように、一瞬のうちに痕跡もなく消えてしまうのだろう。


 僕は自分に問うた。このまま、何の抵抗もせずに消えてなくなっていいのかと。


 僕は人並みに、元旦にその年の目標を決める。その時は強く決心したと錯覚していた。しかし、それは単なる行事に過ぎない。そうしないと、新年がやってこないと思い込んでいただけなのだ。


 節分の豆まき、七夕の願い事、クリスマスのケーキ。それに、どんな意味があったのだろうか。


 確かに、繰り返すことは人間を安心の世界に導いてくれる。地球の自転のような永いスパンのものから、心臓の鼓動まで。朝起きてから寝るまでの間に繰り返している動作は多い。歯磨き、通勤、トイレ、タバコなど。


 こんな繰り返しは、生きていることに関係があるのだろうか。関係がないかもしれないが、これを成さなければ生きてはいけない。社会と人間の構造が、そうさせているのだ。


 人生は永遠に続くわけがないが、まるで永遠に存在するかのように生きてきた。くだらない暇つぶしの支配下で。


 新年に五円玉を投げ込むことと、天井にできた茶色い汚れを落とす行為に、何の違いがあるのだろうか。この二つを識別する常識を、僕は失った。


 だが、それと引き換えに、今の自分に向かってくる現実に、正面から向き合い、大きく開ける心の眼を持ち始めた。

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