第14話 実家
僕は先頭を歩いた。電話をした手前、そうすることが正しいと思った。そして玄関の戸を開いた。線香の匂いが脳天を突き、僕の言葉を詰まらせた。まるで線香に麻酔効果があるように。最適な音量が分からないまま、
「こんにちは。沢村と申します」
暫く様子を見たが返事は無かった。僕は繰り返した。
「こんにちは」
「はい」
佐久間の母親らしき人の声が聞こえ、僕は構えた。麻酔とは違う肉体の硬直だった。足音が段々近づいて来た。僕は深呼吸し、手を力一杯握り締めた。
「重彰の母です。遠いところわざわざありがとうね。葬儀ではちゃんと話さんで、ごめんなさいね」
母親の目は赤みがかっていて、一週間という時間は、その赤みを元に戻すには足りない。要する時間は愛情の深さと比例していて、僕には想像できない。
母親は佐久間と重ね合わせたのか、僕たちの事を随分と待っていたような表情に思えた。佐久間と一緒にここを訪れていたら……もうそんな母親の笑顔を見ることはできない。
「私は沢村と申します。この度は本当にご愁傷様です」
これ以上、言葉が続かなかった。
「最上と申します」
「僕は片桐と申します」
葬儀のときは殆ど話せなかったので、今回が初対面のようなものだった。
「重彰に、こんなにええお友達がおったなんて知らんかったわ。あの子、何にも言わんもんやから。今日、東京を出られたのでしょ。疲れたでしょ。遠いからね。さあ、どうぞ上がってください。こちらです」
確かに東京からは時間が掛かったが、それにしても母親は大袈裟に東京からの道のりを気に掛けた。それは葬儀から一週間という短い時間で再訪したことへの気遣いだと思ったが、佐久間は頻繁に帰省しなかった言い訳に使っていたではないか、という考えもよぎった。
「失礼します」
母親は仏間を案内してくれた。十畳ほどの広さで、付け鴨居に先祖と思しき御影が並べられていた。この場所にあるから御影と分かるが、どれを見ても佐久間の親族には見えなかった。
「ゆっくりしてって」
母親は佐久間の遺影に慈愛の面持ちを向けてから、部屋を出て行った。
僕たちは佐久間を囲む形で腰を下ろした。各々が佐久間へ追慕の念を込めた。最上は思いを伝えたのか、それとも伝えたいことがまとまったのか、腰を上げた。
荘厳な趣を放つ仏壇は、まさしく旧家の風格を示していたが、佐久間の柔らかい人柄と、先祖と並ぶであろう夭折した佐久間の遺影を前にすると、悲しみは癒えることはなく、いつまでも同居するほかない。
最上に続き、片桐が立ち上がって線香に火を灯した。最上とは対照的に、外見からは誕生日ケーキの蝋燭に火をつけるのと同じように映った。
最後に僕は、二つの線香から蛇行しながら天に向かう煙を隔て、佐久間の前に正座した。線香の煙は短命で、佐久間の人生と重なり、自然と涙が溢れた。夭折の煙は揺らいでいたが、佐久間は揺るがぬ心柱を持っていた。
正座した足の痺れを気に留めず立ち上がった。最上は僕に「しかたない」の目を向けた。佐久間の前では泣かないでおこうと、無言の約束だったからだ。
僕たちが線香を供え終えると、母親がお茶とお菓子を持って現れた。佐久間が帰省した時も同じように準備していたのだろうか。それとも特別に準備をしてくれたのだろうか。答えは佐久間に聞くしかない。
古色を帯びた高雅なお盆に置かれたお菓子は、この辺りの名産、黒豆が使われていた。お茶は先週頂いた丹波茶だった。
「これは重彰の好物だったんよ。ほんま、これと漬物がないと拗ねるんよ。これは私が漬けたん。いつまでたっても子供やった」
佐久間に聞くまでもなかった。佐久間ではない僕たちのために、ここまでさせて、来るべきだったのか、と、美味しそうに菓子を頬張る最上を、怨めしく、だがとても羨ましく、ないまぜの感情から罪悪感が生まれた。
そして、それを悟られまいと振る舞ってしまった。とても卑怯な振る舞いだと自覚していたが。
「お母さん、お構いなく」
お構いなく。何を言っている。構ってもらうためにわざわざ来たのだ。そして「お母さん」と呼んだことも滑稽ではないか。今日が事実上の初対面である。佐久間がいる実家への訪問だったら、僕らの発する「お母さん」は直接届かず、佐久間を介して伝わるのだ。
「何を言っとるの、遠慮せんで」
その言葉によって時間が止まったかの様に動けなかったが、最上がお茶を飲んで言った。
「重彰はほんまの親友でした。でも正直言って、助けることはできなかった。だけど、彼が僕らにしてくれたこと、残してくれたことは、本当に数え切れないです」
佐久間の遺影に目をやり、母親は言った。
「そんなことありゃせんよ。皆さんがおってくれたからこそ、あの子は長谷川さんの死を乗り越えてこられたんよ」
そして、静かに詩を読むかのように続けた。
「実は葬儀が終わって、何もする気がなくてな。親より先に逝った息子を、親不孝と叱りました。どんなに叱っても息子には届かんわね。それから数日経って、親不孝だと叱ったことが息子に届いたんかね。手紙が届きました。息子から――
『父さん、母さん、先立つ俺を許してくれ。そして、こんな形で別れを言ってごめん。二人に孫の世話をさせてあげられなかった俺を許してくれ。これは俺ができる最大限の親孝行だと思って許してくれ。俺の命はもう長くないんだ。でも俺は死に対して何の恐怖もないです。本当だよ。だから安心して。手紙と一緒に入っているのは、俺の生命保険です。受取人は父さんです。これは僕の運命なんだ。仕方が無かった。こうして手紙を書くことができただけでも僕は幸せです』
息子の手紙には、こう書いてありました」
片桐は身体不動で肌で聴き、永久凍結に魔法が作用し解凍し始めた。
「重彰はいかなる犠牲を伴っても、僕たちを救おうとしました」
この片桐の溶解は確信を持っていた。悠久の個体からの液体なのだから。僕は佐久間の写真をじっと見た。そして不思議な感覚が僕の背中を押した。罪悪感は僕の中で霧散していた。液体からの気化。
「重彰君は僕たちに何かを残してくれたんですね」
「息子はあなたたちを本当の家族のように思っていたんよ」
母親は言葉が詰まり、祭壇の佐久間の遺影に再び目をやった。これで何度目なのだろうか。見るたびに、心の中の最愛なる息子への悲慕の念は、この手紙を読んで増幅したに違いない。でも、片桐が佐久間から贈られた魔法が、不可逆だった固体を気化させた奇跡、そして佐久間の死の悲しみは、生きているものへ光を照らす源に交換され、その質量は軽くなって欲しいと僕は願い、そして信じ、僕たちに伝えたことで、僕らも違う形で佐久間から恩恵を受けたのだと。
佐久間は自分の運命を悟り、沈思黙考し、深謀遠慮し、熟慮断行したのだ。それが自殺だったのかは分からない。でも、この手紙は遺言で間違いない。
佐久間の終焉との対峙は誰にも悟ることを許さず、それでいて、彼に対して僕は裏切りだとは思わないし、悔しさもない。ただ、僕が同じ立場だったらどのような選択を取るか分からない。でもやっぱり、佐久間は正しいと確信できる自信が、僕の血液の温度を急速に上げた。
この事実の前に、僕たちは母親へこれ以上何も言えなかった。母親も役割を終えたかのように、僕たちを佐久間と三人にしてくれた。
しばらくして――といっても、ある程度時間が経ったと思う――最上が母親に、東京に戻ると伝えた。
母親の手には見慣れないデザインの紙袋が三つぶら下がっていた。
「大したもんやないけど、いっつも重彰が持って帰ってな。財布を忘れても、これだけは忘れんかった」
嵩張るわけではないが、とても大事なものが入っていると思った。本当に大切なものは、値段や質量、あらゆる角度からの物差しでは推しはかれない。
母親の思いやりがくれた、予想を遥かに上回ったお土産と、無駄足だった方が清々しく佐久間の実家を後にできた、という真逆かつ等価の想いが、僕の奥底で混在していた。
体温の上昇と、取り合わせがあまりにも悪いこの二つの思いが、消化器官に不具合を起こした。胃液が逆上し、吐きそうになった。この苦みはとても苦痛だったが、表情に出すことは許されないと思った。
僕たちは母親に精一杯のお礼を言って、佐久間の実家を後にした。




