第1話 始まり
二〇〇七年二月二十三日(金)
今日、沢村和人は、大学時代の友人に会う。
彼らとの集まりは、僕にとって肝臓の役割を果たす。
社会への献身が常となり、定期診断の期日はとっくに過ぎていた。
勤務中、彼らとの記憶の周遊と、フル回転する肝臓を想像するだけで、
すでに老廃物は溶け始めていた。
会社は渋谷駅から徒歩五分に自社ビルを構えている。
挨拶がてら勤務地の話題に及ぶと、決まって同じ反応が返ってくる。
『羨ましいですね』
このやり取りを重ねるうちに、羨ましい、を掘り下げたこともあったが、ある時から意味のない言葉だと悟った。
沈黙に効く万能薬、天気の話題と同しであると。
渋い大人の代名詞の方のように、ひとりで洒落たバーに館寄るわけでもない。
僕にとって勤務地渋谷とは、この程度である。
出世街道はおべっかを課せられるので一般道を走っている僕だが、今日くらいは力技で切り上げ、予定通り会社を出た。
新宿駅で電車を降り、西口を目指した。
真っすぐに伸びたホームを、蛇行せずに歩くのは容易ではない。
ポケットから懐中時計を取り出した。三分以内の誤差を期待しないが、間に合いそうだった。
目下のところ結婚指輪をどうするかが課題だが、それよりもまずは相手に出会う必要がある。
ホームを渡り切ったころには、小額の貯金を引き出されていた。
階段から改札へ、さらに混雑の度合いは増し、改札を出た頃には遅れ気味だった。
今日はなんとしても遅れたくなかった。
最初の、照れくさい独特の感覚を、みんなと共有できなくなる。
改札を出ると、ダムから放たれたように歩みも自由を得た。
これなら借金を全額返済できそうだ。
待ち合わせ場所はすぐそこまで迫っていたが、能面が赤ランプを点していた。
目の前を横切る車の隙間から目を凝らすと、待ち合わせ場所に見覚えのある二人の男がいた。
朧な姿だが、最上誉と佐久間重彰に思える。
不規則に生まれる車の隙間ごとに、二人の輪郭は記憶を頼りにはっきりしていく。
肝臓の加速が感じられた。
最上と佐久間で間違いない。
児玉清氏のクールな声が脳内で響く。『正解!』
そこへ一人の男が輪に加わった。
懐中時計はぴったり十九時を告げている。
さすが重村鎭だ。
笑みは、記憶が生み出すものから、現実が作り出すものへ変わった。
懐中時計を調整する必要はない。
独立国家のように、昔の感覚を取り戻す過程を楽しんでいるようだった。
数分後、あの輪の中に亡命することを想像すると、
能面の中の赤は血色よく映った。
信号が変わり、歩みを再開した。
彼らに近づくにつれ抑えきれない高ぶりが足を加速させ、足音を強めた。
「よう、沢村。元気そうやん」
「ああ。そっちは」
「見ての通りや」
最上の声を聞くと、三年の空白が霧のように消えた。
「片桐はまだのようだな」
と僕が言うと、笑いを含み最上が応じる。
「今頃、会社出たんちゃうか」
「期待通りだ」
やり取りを聞いていた佐久間が言った。
「ところで、重村も変わらないな。なぜ鉄道会社に就職しなかった」
やや不快な表情を浮かべ、重村が返す。
「枝葉末節だ。遅れが出る時点で。比較対象が悪すぎる」
「比較もなにも、日本はダントツや。まあ、朝のラッシュは家畜運搬みたいなもんやけどな」
最上の意見を受け、重村は少し間を置いて言った。
「よそが、一極集中を避けるために、管理を怠っているように芝居をしているとしたら、面白い」
重村の高潔さと、片桐のいい加減さを足して半分にできないものか、と思った。
「誰のや」
最上がセンスの悪さを指摘した。
僕の携帯だった。着信は固定電話から。
「はい。そうですが。ええ、片桐の秘書……承知しました。ありがとうございます」
自然と笑みが溢れた。
「……秘書?」
最上が興味津々で訊いてくる。
「やってくれた。そろそろ着くという連絡だった」
「あいつやるな。ほんまに秘書を」
最上が続けようとしたところで、重村が割り込んだ。
「最上、それ以上続けなくていい。やつの気遣いだろう」
学生時代の記憶が蘇り、みんな笑った。
「近くで隠し撮りしているんじゃないか」
佐久間が辺りを見回す。
「やっぱ、現地集合にするべきやった」
秘書ネタを言えなかった最上が言った。
「ところで重村、仕事の方は大丈夫か。残業ばっかだろう」
佐久間が尋ねる。
「そうだな。あるシステムで見込みが立たないものがあって」
「無理するなと言いたいところだけど、やるしかないか」
会話が一段落したところで、僕が言った。
「そうそう、日高が遅れるから先に店に行ってくれだと」
佐久間が少し怪訝な顔をした。
「俺には連絡は無かったが」
残念そうな表情だった。
「片桐! 遅いぞ!」
最上が叫んだ。
「お前の登場の仕方には安心する。片桐時間は不変だ」
「俺の身にもなってみろ」
「それより、俺からのプレゼントは届いたか」
「ああ、みんなでありがたく頂いた」
片桐寮は、いつもこうやって現れる。
五人揃ったので店へ向かった。
オフィスを出た時は肌寒かったが、今は心地よい。理由は明白だ。
秘書は温度上昇には関与していない。
夜の新宿は人を呼ぶ。
東口まで五人揃って歩くのは、なかなか困難だった。
重村と佐久間が先頭に立つ。
距離は渋滞のように、詰まったり離れたりを繰り返した。
突然、佐久間が立ち止まった。
「凄い行列だな。しかも、ほとんど女性だ」
行列の源を探していると、重村が教えてくれた。
「あれは占いだ。何を占ってもらっているかは、行列が物語っている」
少数派の男性の半分は退屈そうに寒空の下で待ち、残りは交際歴の浅い発熱期間だと思われた。
この時期は人を途方もなく寛大にし、
自分にだけ備わった何かを、密かに期待させる。
占いは、その心理の襟元を上手に擽る。
だが、触れ方次第では致命傷にもなる。
「おい、隣を見てみろ。哀れなものだ」
佐久間が、もう一人の占い師を指した。
競争の原理を目の前にすると、寒気がした。
IT会社を率いる片桐が牽制する。
「占いなんて気休めだ。並んだら褒美を期待して、毎日努力すればいい話だ」
片桐の刀は錆びていなかった。
「まあ、運も大事だよな。列の方は、たまたま当たったことをお喋りな女が広めた。そんなところだろう」
そう言いながら、僕は二人の占い師を見比べた。
明らかな違いは、行列の方が女性で、不運な方が男性だったことだ。
先へ進もうとした時、佐久間が言った。
「……なあ」
間があって、
「占ってもらわないか」
耳を疑った。周章狼狽。
佐久間には、ババ抜きのジョーカーに汚れが見えているのか。
それとも、結婚式に喪服で現れるようなものか。
新郎に親しいほど、怒られない。そこに意図があると慮られるからだ。
この時は、喪服の意味を理解していなかった。
「待った、待った。予約がある」
最上が代表して止めた。
佐久間は、最初から行列に並ぶ気はなかったようだ。
「だったら、哀れな方に並ぼう」
どちらに並ぶかではなく、並ばないのが正解だった。
「一人も並んでいないのは怪しいだろう」
「やれやれ。俺もサクラになる義理はない」
佐久間の歩みは悠然として、大魔神のように言葉を拒んだ。
ここにいる全員が、片桐のポツダム宣言を理解したはずだった。
「すいません。この五人の将来を占ってもらえませんか」
最上は呆れた表情で僕を見たが、諦めていた。
賽は、すでに投げられていた。
僕は片桐に判断を委ねた。
どちらでもよかった。佐久間がこんなことを言うのは初めてだったし、時間の心配もない。
片桐は概賛成の態度を示した。
「占い師さん、頼むよ」
占い師は少し驚いた様子で言った。
「五人でいいのですか」
「仕方がないな。せっかく集まったんだ」
最上が言った。
占い師は当惑していた。
僕は彼に同情した。反対の立場なら、頼まない。
この男は罰ゲームでここに立っているだけかもしれない。
年齢は僕らと同じくらいに見えた。
やる気は微塵も感じられなかったが、
相応の恥を晒している勇気だけは認める。
占い師が言った。
「今日は、あなた方が初めてです」
その無関心な態度が、嫌な予感を連れてきた。




