さまよう少女と冷えた夜
塾に来てから1時間が過ぎた。
「もう、いいか。」
映像授業の動画を停止し、ヘッドフォンを耳から外す。
志淳がこの塾に入塾したのは高校の2年になる頃だった。高校生の中で、そろそろ受験を意識し始める時期だ。
カバンの中から財布だけを取り出し、周囲に塾の先生 がいないことを確認してから、ポケットにしまう。
ロビーに飾ってあるサッカーボールくらいの大きさのだるまに舌打ちをしながら通り過ぎる。
道路へとつながる扉を押すと、冷気とともに、子どものキンとする声が響いた。
この子どもたちも、いずれ俺のようになるのかもしれないと思うと、やはりこの世を嫌うほかない。
志淳は白いため息を地べたに吐きつけ、下を向いて歩き始めた。
目的地は、ない。
監獄というべき塾の明かりを睨みつけ、大股になってアスファルトを力強く蹴った。
火事で燃え尽きればいいのに……こんな塾
凍える手をポケットに突っ込む。
「ん?」
指先には、少し硬く、布に包まれたものが触れた。
お守り。
くすんだ水色で、結び目が黒ずんでおり、少しほつれている。
「ああ、まだあったのか」
どこにいったかわからないお守りは、これで3つに減った。
全部なくなっても、別に困らないのに。
自分はおかしい人間なんだと感じはじめたのは、半年前、成績がだんだん落ちてきていたとき、相談した先生から
「今までの成績は、たまたまだったんじゃない?」
と言われた頃からだと思う。
不思議と怒りの感情はほとんどなく、ただただ絶望した。
自分は俗物だったんだと、知った。
自分は人より優れていなければ、気がすまなかった。
それが、凶とでたわけだ。
もちろん、俺は昔から頭は悪かったし、そのくせ、点の高いやつのことを陰で恨んでもいた。
努力は…していた。
休み時間をやすみ時間で終わらせたことはないし、定期テストも80点を下回ったことは一度もない。
しかしこのとき、どこかがちぎれた。
チューターのせいでは、絶対にない。
それがまた自分を苦しめている気がした。
その日、塾から帰ると、母は寝ていた。
時刻は夜11時を過ぎていた。
蒸気で水の溜まったサランラップを取り、レンジで温め、固まったいつもの味が濃い焼きそばを口に詰め込んだ。
すぐに寝る準備を済まして、母の眠る寝室に向かい、体を揺らした。
母が明日も仕事で疲れており、ぐっすり寝なければいけないことくらい、わかっていた。
「……どうしたん、ゆき」
「……もう、お守り、買わんといて」
突然言われた母は、理解するのに時間がかかっているようだった。
俺は、母が「なんで?どうしたん?」と訊いてくる前に続けた。
「あと……」
俺は少し息をのんだ。言葉が喉の奥で引っかかる。
「……もう、無理かも。」
すぐに立ち上がり、自分の部屋に急いだ。
母の目線が、自分の背中を追っているのがわかった。
布団にもぐって目を閉じると、まるで今までこらえていた堰が、唐突にすべて崩れたように、涙がこぼれた。
塾を抜け出して、1時間ほど経った。
もう足がだいぶ痛くなってきた。
ほんの半年前くらいに部活を引退したばかりなのに、体が弱くなっているのがわかる。
もうそろそろ戻らないと。
冬の夜は早い。
静かで暗い公園も、昼は賑やかだったのかもしれないと思うと、新鮮な気分になる。
「はあー」
うすく青白い一本の街灯が、ぼんやりと周囲を照らす。その明かりに引き寄せられた蛾が、ぱたぱたと舞っている。
勉強は嫌いではなかったはずだ。しかし、自分が受験生であるということを言い聞かせるだけでは、俺は動かない。何のためにここに来たのかも知らない。
志淳は暗い公園の片隅で、小さな影が自販機の下にしゃがみ込んでいるのに気づいた。
その影は小さな手で地面を探っているように見えた。
時折、冷たいアスファルトに指先が触れるたび、んっ、とうなっているのが聞こえる。
俺は少し離れたベンチに座り、その様子を見ていた。何をしているのか尋ねるべきか、声をかけるべきか。
「…ない、か。」
彼女は何かを受け入れたように腰を下ろし、膝を抱えて座り込んだ。
俺はその影に、まるで自販機の光に引き寄せられるようにゆっくりと近づいた。
いつもならまずそんなことはしない。
今思えば、興味もしくは、何か自分の行く先を見いだしたかったのかもしれない。
そんな自分の気配を感じ取ったのか、彼女は一瞬だけ振り向いた。
その瞬間、俺はすぐに視線を下に向け、何気ない振りをして自動販売機の前で立ち止まった。
これまでの人生で一度たりとも動物のふんや、人の吐しゃ物を踏んだことがない。通学のときも、学校の廊下も、マラソンのときですら、ほとんど下を向いている。
「何か落としましたか。」
「……いや、その……」
おどおどした素振りで視線を泳がせ、足元の砂を小さくつま先で突く。パーカーの袖を、指先でつまんでいるのが見えた。そのグレーはくたびれていて、袖口には土の汚れがにじんでいる。
自販機の青白い光が、二人の影を地面に落とす。彼女の影もまた、どこか所在なさげだった。
「何か飲みたいものある?」
彼女の赤く冷えた指が、「これを」と、コーンスープを指す。
彼女は時折スープをすすりながら、少しだけ顔を上げて遊具の方を見た。
その目には何も言えないまま、ただ遠くを見るような寂しさが映っている。
「……どうして、買ってくれたんですか?」
俺は「んー」と相槌を打ち、
「なんとなくかな」とごまかした。
どこか自分と似ている気がしたから、とは言えなかった。
「散歩…ですか?」
ベンチの真ん中を空けた反対側にいっしょに座ったのを怪しく感じたのか、訝しげな顔で聞いてきた。
「…そうですね」
また、ごまかした。
しかし今のは即答したので怪しまれない…はずだ。
「はい」「いいえ」の質問はだいたいいつも即答できる。
「君は?」
「……わたしも、そんな感じです」
そんな…感じ?
散歩ではないのかもしれないという思いは、心のなかでとどめた。
俺たちは、寒さを感じさせる静かな夜の公園で、ただ並んで座っていた。
ふと、どこからか鳴き声が聞こえた。
「……猫?」
彼女がかすかに反応する。俺はその声を逃さずに、同じ方向を見る。
「どこにいるんだろうな」
「……さっき、あっちの茂みに入ったかも」
少しだけ、彼女の声がはっきりした。俺たちは目線だけを動かして、木の柵の向こう、闇の中を探ったが、猫の姿は見えなかった。だけど、肌寒い夜の空気が少し軽くなったような気がした。
「あの猫、迷子なのかな…」
小さな声でつぶやく。
彼女は、缶を手の中で転がしながら、
「…いいな、あの子は。」
彼女の声が、少しずつ解けていくように聞こえた。俺は何も言わず、ポケットの中で手を深くもぐらせた。
おそらく、母からもらう最後のお守りだ。それを軽く握った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる気がした。
最後の一口をすすり、底に残ったコーンを確かめる間もなく、そばにあるゴミ箱に静かにいれた。
「……私、学校行ってないんだ。」
じゃりの音にかぶせて、声がのっかる。
突然の告白に、俺は驚くよりも、その言葉の重さを感じた。彼女はパーカーの紐をいじり、静かに話し始めた。
「別に、嫌なことがあったわけじゃないんだけど……なんか、行けなくて。でも、家にいるのも窮屈で……」
彼女のつま先が、砂を小さくかいている。
「別に親も、うるさいわけじゃないんだけど……なんか、ずっと見られてる気がして。」
横から肌寒い風が吹きつける。
彼女の声はとぎれとぎれになり、
手に強く握られたその缶は震えていた。
「今日も、そうなんです」
「今日もって?」
夜の空気がすぼまっていく気がした。
自然と腰が折れ、前かがみになる。
視線の先には、風に運ばれてきた褐色の巻いた落ち葉が止まっている。
「心療内科に、連れて行かされたんです。
行きたくないって言ったのに…無理やり……」
行かされた――の言葉に、強いの恨みを感じた。
彼女の家族は、最善だと…思ったのだろう。
「ああ」とつづけることしかできなかった。
そのとき。
公園の入り口にあるコの字のポール近くを、小さな影が動いた。
「あ、猫!」
彼女は勢いよく立ち上がり、砂利の音がなるべくたたないように早歩きで猫を追う。俺も彼女の後をついていく。
ポールを左に曲がり、薄暗い夜道の中をすたすた歩く。
彼女の目はまだ猫を追っている様子だったが、俺はとうに見失ってしまった。
彼女の背中を、コケてしまうのではないかと、心配しながらついていく。
『こんなことをしていても良いのか?』と心のなかで誰かが問いかけてくる気がする。
ただ俺はその質問をぶっきらぼうに断って、彼女の背中を追う。
お守りをポケットの中で握りしめる。
夜風が顔にあたり、冷たい。
ここらへんの地図はだいたい頭に入っている。閑静な住宅街がつづき、こんな時間になると、人もあまり通ることはない。
ときどき、大通りのほうからできあがった酔っ払いが帰路についているくらいだ。
俺たちは、明かりがぼうっとした窓の路地を進み、今にも崩れそうなボロボロの家や真っ暗でどこか不気味な神社を過ぎていった。
両側に長く林立する道路へ出たときだった。
彼女は立ち止まり、ある家の方向を見つめる。
その家の窓の開いたカーテンからは、部屋の一家団欒の明かりが漏れ出ており、酒を飲んだ男の「大きい」というより「でかい」というほうが正しい声と、子ども特有の甲高い笑い声が混ざり合いながら響いてくる。
猫はどうやらそんな、まさに平和というべき家に姿を消したらしい。
彼女は鼻を淡いピンクに染めてうつむいている。
俺は喉の奥で、出てきそうになった「帰るか」を飲み込んで、
「…戻るか」
と言い換えた。
「……猫、買ってもらえなかったな」
「バタン」と音をたてて、その家族の誰かが窓を閉めた。
少女の閉められた窓を見る目は、寂しく輝いていた。
今度は俺が先頭に立ち、下を向いてとぼとぼと歩いた。夜風が触れるたび、「はあー」と息をはきながら。お守りは、自分の手汗で少し湿っていた。
歳を重ねるにつれて、お守りが何のためにあるのか、わからなくなった。
昔、自分が受験勉強というものを知る前、家族でよく神社に行った。中でも母は熱心だった。たくさんお守りを持っていたし、賽銭をするときには、5円や10円ではなく、50円を渡してくれた。
中学二年の夏、祖母が倒れた。
入院すればよくなるものだと思っていた。だから、母の「もう長くないかも」という言葉に、ただ涙をこぼした。
数日後、大阪の神社に参拝することになった。
鳥居をくぐり、苔むした石段をゆっくりと上る。奥へ進むほど、ざわついた境内の音は遠のき、松林の梢が風に揺れる音が近づいた。
丁寧に並んだ木々に囲まれると、どこか監視されているようで、心が澄んでいく。
母は静かに絵馬をかけた。
「病気平癒」と書かれたその字は、驚くほどきれいだった。
祖母は――死んだ。
それといっしょに、祖母からもらった学業成就のお守りたちは、厚紙になってしまった気がする。
志淳は少女に気づかれぬよう、ジャケットのポケットから、お守りをのぞかせた。お守りの中身の感触が、強く手に残った。
公園へと戻る途中、スマホの時刻をふと見てみると11時になっていることに気がつき、慌てて母に「今日はちょっと遅くなるかも」とラインを送った。「わかった」というたった4文字が妙に心を苦しめたが、「なんで」という3文字ではないことに、ほっとする気持ちもした。
公園の姿が見えてきたとき、嫌な予感がした。それは公園に近づくにつれ、確信に変わっていった。彼女もそれにはなんとなく気づいていたようだった。
5人。男の声。まだしっかり熟していない、ねばっこい笑い声。3人がスケートボードを乗りまわし、2人が片手にスマホと片手にドリンクを持ち騒いでいる。
その一人が「まじみとけよ!」とふざけた口調で仲間に言いながら、スケートボードを片手に走り出した。
大げさにタイミングをとり、
足で地面を蹴る。
腰をおろして台に全体重を集中させる。
その瞬間、足をバネのように跳ね、空中へと舞い、そのまま、足をスケートボードへと着地するところで、バランスを崩して、コケた。
仲間たちは皆、いっせいに金切り声や叫び声をあげた。
「帰ってこないなら、もう帰らなくていい。だって」
「誰から?」
「お父さん」
「お母さんは?」
「何も」
家出するならやってみろということか…
俺は「んー」とうなずき、少女に問い詰めるわけでもなく「どうしようか」と、電信柱につぶやいた。
「……私が、だめなんです」
ぽつりと落とされた言葉は、まるで積み上げたジェンガの隙間が、知らぬ間に広がっていたことに気づいた瞬間みたいだった。
気づけば、もう隙間だらけで、支えられているはずの土台はスカスカで、どこを触ってもぐらつく。
けれど、それを直す手立てはなく、ただ崩れるのを待つしかない。
彼女の肩が、ほんのわずかに落ちた。
まるで、自分が崩れることに、もう慣れてしまったみたいに。
彼女の目にはいっさいの輝きも無かった。
正直、俺自身にしてもよくわかっていなかった。
俺は本当に帰りたくないんだろうか、…わからない。
どちらでもいいというわけでもない。
それでも、いつかは、…帰ってしまうのだろうか。
少女はじっとスマホの画面を、悩ましげな顔で見つめている。
「……帰ったほうがいいのかな。」
「帰りたい?」
「わかんない、だって……」
お前マジ死ね!
と裏返った罵声が鳴り響いた。
「…わかんない。」
彼女はそう言い捨て、顔を覆うように俯きながら、歩くスピードを上げた。
一瞬目があった。
その潤んだ赤い瞳は、街灯の光をかすかに映つしていた。
大通りに出ると、にわか雨がぽつぽつと降りだした。傘を買おうか迷ったが、彼女は「いらない」と言うのでやめた。
冷たい雨の匂いが、鼻を刺す。
「お兄さんは、どうして?」
「わかんないけど……まあ、疲れ、かな。」
「何に疲れたの?」
「いろいろあるけど、勉強とか……人間関係、とか。」
ちっぽけだ。自分でも思う。
家出というのは大げさで、でも、散歩や現実逃避では、表せない。
皮膚に当たる雨が冷たい。
普通に授業を受けていれば、今頃家に着いた頃だろう。別に恋しくはないが、寂しくもない。
上手く頭がはたらかない感じが、ますます自分をうっとうしく、自己嫌悪にさせる気がする。
俺たちは大通りにでた。
大通りといっても、車線は二本しかなく、大都会のように車のライトが眩しい訳では無い。
その分、コンビニやファミレスの看板灯や店内のもれ出るあたたかい光が目立っている。
二人ともまだ夜ご飯を食べていないということで、俺が何度か行ったことがあるファミレスを紹介したのだった。
雨粒でぼやけたガラス張りの中は、思ったよりすいていた。
「どうかした?」
彼女は店内に目を奪われていた。
いままでこういう飲食店に来たことはないらしい。
しかしその目は、どこか冷たさを感じさせ、なにより、何か邪悪なものを睨む目つきであった。
定員が、雨に濡れた俺たちを見て、嫌そうな顔をしながら、メニューを渡した。
髪からしたたらないように外で水は落としたつもりだが、服は濡れてしまい、お尻のほうが少し気持ち悪い。
窓から外を見てみると、店に入る前よりも強くなっていた。
彼女はさっきからずっと雨が降るのを、ただただ見つめている。
「野菜もちゃんと食べんかいな」
「ええー」
「お姉ちゃんは食べてんのに、あんただけやで」
「そっちのほうが少ないもん」
ふたりの後ろには、外からも見えた4人家族が食事をしていた。
顔を覆った髪は目を隠し、そのパーカーの肩のあたりは、雨のせいで黒く変色し、髪をつたう水滴は机にとどいていた。
「何があったの?」と訊いても、
「寒くない?」と声をかけても反応は、
「いいえ」や「そうでもないです」だけ。
窓に映る彼女は、悲愴、物憂げ、深刻…どの言葉にも当てはまらないような、絵にできない顔つきだった。
俺が塾を抜け出すときも、こういう顔をしていたのだろうか。
したたる水滴を拭うこともなく、肩の黒色がだんだん脇の方まで届きそうである。
まばらに過ぎるヘッドライトや信号の赤青黄が、頼りなくぼやけている。
窓にとまったいくつかの水滴が、それらの光を反射して輝き、集まって下に流れる。
今年の10月半ばくらいだろうか。
あの日もこんな雨だったが、家族で車来たことを憶えている。
その日は学校から帰るなり、すぐ塾へ向かった。母がいたからだ。
カバンの中にはテキストやノートは入っておらず、小説が一冊、財布、スマホ、それだけ。
電車で約20分、小説を開くこともしないまま塾に着き、チューターの気のない挨拶に適当に応じて、トイレに入った。
――泣いた。
誰にもバレないよう、静かに泣いた。
そのあとは、ぼうっとして時間が過ぎるのを待ち、一年前ならもっと長くいたはずの塾を、三時間も早く家に帰った。
母の「おかえり」が、いつもよりやけに心の中をえぐり、ゾクゾクさせ、恐かった。
俺はあまり気がのらなかったが、その日はたまたまみんなが早く帰ってきたということで、外食をすることになった。
我が家で外食をすることはめったになく、妹や父は喜んでいる様子だった。
その目的地が、まさにここだった。
家族でここに来たときには、必ずと言っていいほど最初にオニオングラタンスープを注文する。コンソメのよくしみ込んだ玉ねぎがおいしい。
たがその日のスープは味が薄かった。
「なんでも頼んでいいで。ここで元気を出して、またがんばりや。」
俺は、自分の大好物なはずであるハンバーグを頼んだ。
しかし、注文したスープとハンバーグは、
食塩水と豆腐のようだった。
「おまたせしました。こちら、オニオングラタンスープです。」
テーブルに、ほんのりと甘いチーズの香りが、白い空気とともに広がる。
オニオングラタンスープにしたのは良い判断だと思った。
雨に濡れて寒かったし、香ばしい匂いが小杜愛の食欲をそそると考えた。
そっとお皿に触れてみる。
大丈夫。まだ温かい。
壁にかかった時計は、日付を変えるまで
残り30分であった。
少女がお手洗いに行ってから、15分を過ぎていた。
トイレにも行ってみたが、外から確認できなかった。
少女はまだ一口しか飲んでいない。
「……お手洗い、行ってくる」
は、本当にお手洗いだったのだろうか。
…いや、違う。
わかっている。
あのとき。
この雨の中立ち止まり、彼女はなぜこの店を見てぼうっとしたのか?
ーー家族、だったんじゃないか。
4人家族。
父と母と中学生くらいの男の子と女の子。
母の隣に長女、父の隣に長男が座り、子どもふたりが窓際だった。
けっきょく長男の野菜が食べ終わるのを待ってから、
「会計済ませてくるから、車に行っていて」と言い残しレジの方へ向かった。
髪が少し白くなったブラウンのジャケットの背中には、何か情熱らしきものを感じた。
俺が定員から、女子トイレには誰もいないことを聞いてから店を飛び出したのは、少女が『お手洗い』に行ってから40分経つ頃だった。
雨は店に入ったときよりも強くなっており、
遠くのほうで雷も光っている。
都市の赤や青が、道路に長く反射している。
まずコンビニの傘を二本買った。
もし見つからなかったとしても、家族のものにすればいい。
家にはおそらく帰っていない。
少なくとも俺なら帰らない。
帰らずに、誰にも見つからない場所、もしくは、簡単に入ることができない場所だ。
俺の母も、こんな気持ちだったのか。
信じたい。
だけどそれは自分の勝手で信じているだけ。
相手からすればそれは…
いや、今はそんなことどうでもいい。
俺はいままで少女と通った道を探した。
公園には誰もいないなっており、おびただしい数の水滴が、まるで池のような水たまりを
つくっていた。
ビニール袋や空のペットボトルが浮かんでいた。
猫を追いかけた道をたどってみたが、例の猫が帰った家が静かになって、電気が消えており、その家族が寝たことを確認するだけで終わった。
終電までもう時間がない。
俺としては、家に帰りたい。
信頼を失いたくないとかではなく、
家出する準備も、勇気もない。
家に着くのは、明日になりそうだ。
両親はどう思うだろう?
もうみんな寝ていて、いつものように部屋は真っ暗だろうか、それとも、俺の帰りが遅いことを異様に思い、怪訝な顔で愚痴っているかもしれない。
……だまされたと、思っているだろうか。
俺も、少女に『だまされた』と思っているのだろうか。
そのときふと、塾のトイレで涙を出した過去
を思い出した。
彼女はどうして急にいなくなったのか。
それは、俺が……
俺の、せいじゃないのか?
俺の善意が、彼女をより傷つけた?
だって…、でも…、彼女にあってどうする?
どうすればいい……俺は?
そんなことをぐだぐだ、ぐずぐず考えていると、
もう駅が見えてきてしまった。
終電まであと……7分。
そのとき、突風が吹いた。
横殴りの雨のせいで、全身が本格的にびしょ濡れになった。
「くそ!」
足がすくむほどの強い風雨で、目の前がかすんでいる。
傘がバキバキに折れる音がした。
骨ごとねじれ、原形を失ったそれを見て、俺は舌打ちをした。
「こんなときに限って!」
橋の下の川は、大雨のせいで増水し、茶色く濁っていた。
街灯の光が反射するはずもなく、ただ鈍く、ゆっくりとうねる泥流のようだった。
俺は傘を力強く握り、足でリズムのおぼつかない助走をつけ、ぐちゃぐちゃになった傘を川に思い切り投げ捨てた。
「ぽちゃ」
耳をすましてかすかに、頼りない音が聞こえた。
落ちて浮かんだ傘がゆっくりと流されるのを目で追い、鼻で笑った。
風の波立つ川で、左ななめへと流されてくる。
…そして、もう一つ。
厚紙。
体の上半身を橋の柵から、落ちてしまいそうなほど乗り出す。
お守りを片手の指でつまみ、真下を覗く。
そこに――いた。
橋の下で屈む少女は、小刻みに震えて見えた。