派生 ー hṛdaya ー
彝之イタルの狂裂死に端を発し、それに応えようとする天易真兮の奇行は伝説の連鎖によりもう一つの伝説となった。それに附随する様々な議論、批判、ムーヴメントが起こった。
一番大きなものは、コンセプチュアル・アートとしての小説、Novel as Art(アートとしての小説、美術としての小説)などというものだ。文学は必ずしも、文字や言葉によらなくても良い、という考え方であった。
真兮は言う、
「あのとき、小生が『小説さ』と言ったのは、ちょっとあざとい、穿ったもの言いで、別に言う必要はなかった」
天平普蕭が物憂げに言う、
「だろうね」
「ふ。
しかたないさ、現実はいつもそうだ。本当に大事なことだけでソリッドにやれれば気持ちもいいんだが、そうはいかないのさ。それが現実さ。
小生は、ただ、ホーマー社製のブルースハープの音を現存させたかった。それだけさ。他意はない」
「なぜ、それを現存させたかったか、それが大いに皆の議論を沸かせたものさ」
「別に意味なんざない。
ただの現実さ」
「現実って、何だろ」
「さあね。誰でも知るが、誰にも知られない。
幻想を見ている者はいるが、それも其奴にとっては現実なのさ。どんな人も、それぞれのかたちの現実を生きている。いや、人だけじゃない。命ある者全ては。
いや、生命は有機物の化学的な反応による現象だ。
有機物は無機物から成っている。
だから、爬虫類も微生物も真菌も酸素も水素も空も風も金属も空間も時間も無空も、それら一切の存在者はそれぞれの現実を見ている(生きている)。萬物・萬象・萬事は皆、齊しく現実を生きる(知覚している)。
そんなありとしあらゆるかたちの〝知覚〟を、何もかもを網羅するがゆえ、かたちのない、かたちなきというかたちもない、〝型〟の不定な、無際限に無制約なあり方の〝知覚〟を知覚することなど可能だろうか。
不可能だ。誰もが、いや、一切の存在者が知らずにいられないような事柄を知覚するなど不可能だ。それは無際限に無制約な一切の遺漏なき全網羅であり、無際限に制約なき、タブーなしの全肯定で、全肯定それ自身が全否定のみであることも、一部のみの肯定であることだけであることも、一部のみの否定であることだけであることも、無制限に肯定する。
自己否定の矛盾が起こる。尾を噛む蛇だ。解決不能、未遂不收。
無色透明、無味乾燥、不存在ですらない、無空をも絶つ、非空、絶空だ。唐突な存在」
「じゃ、なぜ、やろうと思った」
「だって、知覚できただろ?
そういうことさ。それほど〝型破り〟なのさ」
「狂裂自在か」
「そう、自由狂奔裂だ」
「龍肯(龍ごとく大いなる肯定)だね」
「だから、ただ、ハープの金属製リードの震えなんだ。
その震えが空気を震わせて耳の鼓膜にその振動を伝導させ、それを聴覚が脳に伝え、その刺激によって神経伝達物質が分泌され、神経細胞のイオン・チャネルが開き、細胞内外での電荷の正負の関係が逆転して脱分極化が起こり、その化学反応による電気的な発火現象が脳内に発生し、内在的(意識内)に表象作用を起こす」
「それが何だ、って言われるだろうな」
「ただの空き缶さ」
資料篇
当時既に卒業生であった天易真兮が真義塾附属眞神高等学校の文學倶楽部の部屋に突然入り、唐突に、ハープを吹いた件については、咄嗟にスマートフォンで録画した者がいて、その音源はネット上で公開された。
https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/Bluez.mp3
又そのサウンドに触発されて左のような文章が書かれた。サウンドのイメージを文章化したものだ。
『ニューヨークNew York、ハーレムHarlem 古い赤煉瓦のアパート。黒い鉄製の外付階段。半地下の部屋の割れた曇りガラスの窓、寂しい歩道。手摺のある玄関前の石段。十二段あり、黒人が坐っている。手に小さなブルースハープBlues Harp リードの震えのひずみは、半音下がった、即物的な、かん高いブリキ音と、ぶち壊れたチューバのような低い金属の音の雑ざったような、不安定な、揺らぐ音程。乾き切った、深みやまろみや潤いのない、輪郭のきつい、存在のくっきりしたサウンドSound。真夏の昼下がりの、気怠い静寂を裂帛する、古い蛇口の栓を捻るような、響き』
物的な、無味乾燥なマテリアル感をヴィヴィッドに表現しようと努めている。
なお、この文章に触発され、コンテンツを作った者もいる。左にURLを録す。
https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/index7-2.html
この数年後に、天易真兮はその主著『-人間存在の実存的分析による存在論考-「空」』を上梓することとなる。