優帰
鮮烈な事件があった訳じゃ無い。 それに、 人より不幸かと訊かれたら違うと思う。 それでも毎日薬を飲んで、 刺激の少ない生活を送る。
ひとりぼっちが過去になる、 その日が来ることを願って。
※この作品は、 短編集 『トタン屋根を叩く雨粒のような』 で1番最後に読んで下さい。 『予感』 と 『Look Alive』 の続きです。
「あれから2週間経ちましたが、 体調の方はいかがですか?」ごく普通の診察室といった感じ。 特別なイメージの無い、 内科みたいな雰囲気。 眼鏡越しに優しそうな瞳が三日月型になった。
「別に何も変わりませんよ。 良くなってもなけりゃ悪くなってもないです」佐藤は主治医の筆跡を見て、 こんなの後から見て読めるのか、 と疑いながら現状を伝えた。
「お薬は毎日飲んでますか?」高そうなペンを指に馴染ませるように、 人差し指と親指で軸を揉みながら、 先生は訊ねた。
「飲んでますよ。 朝と夜ちゃんと」佐藤は薬の副作用が顕著に現れる体質で、 朝は眠くなりにくい薬を、 夜は眠くなってもいい薬を飲んでいた。
「お酒は辞めてますか?」病院に通い始めた日にも言われた質問。 痛いところを衝かれてしまった。
「量は減らしてます」佐藤は、 病院では嘘をつかないと決めていた。
「出来れば完全に辞めていただきたいです。 お薬が効き過ぎてしまう、可能性がありますので」似たような患者が多いのだろう。 優しい口調だが、 その言葉には、 諦めとちょっとした怒りを感じる。
「飲まないと楽しみがないんです」佐藤の表情には、 謝罪と遣る瀬無さが同居していた。
「他に趣味があれば良いのですが‥‥」医師は後頭部を掻いて、 困ってみせた。 我儘な患者を無碍に扱うことはしない。が、 神でも無い。 医者というのは、 人間に務まる領域を遥かに超えた条件で労働している。
「今しない方がいいことって何ですか?」話題を変えつつ、 自分が置かれた状況を確認する。
「大きな音がする場所は避けてください。 光とかの刺激も少ない方がいいです。 あとは、 人混みの中には行かないでください」工場が完全にアウトなのだが、 仕事はどうすべきなのか?
「電車は乗らない方がいいってことですか?」電車がダメなら大体のことに制限がかかると、 佐藤は考えた。
「今はまだ控えた方がいいですね」医師の断言に佐藤は頭を抱えた。 だったら何ができるというのか。
佐藤は休職することになった。 診断書など、 いくつか書類のやり取りをしたら、 会社は休職を認めてくれた。 不幸なことが起こって初めて、 弊社がホワイト企業であることを実感した。 長く勤めた社員ほど、 目が死んでいくというチャームポイントは愛せないが。
***
実家に帰った方がいいのか。
いや、 実家に帰ったら病院に行けない。
そもそも飛行機で無事に過ごせるかが怪しい‥‥
自宅の冷蔵庫の前で佐藤は思い悩んでいた。 冷凍庫には、 キンキンのウォッカが眠っている。
人生で何度も飲み過ぎで吐いた。 社会人になっても学びはなかった。 佐藤は酒に強い訳ではない。 それなのに、 最近は日本酒からウォッカに推し変していた。 コイツなら少量で千鳥足になれた。 狭いワンルーム。 バタリとベッドに倒れ込み、 反動で脳がスライムになる瞬間が好きだった。 1人きりで酒を飲んでいるのが、 楽しかった。 その瞬間、 この世界には自分しか存在しない。 味は酷いが、 ユートピアに連れて行ってくれた。
ボトボトボトボト
シンクに相棒を注ぐ。 佐藤を凡そ半年間、 支えてくれた女房。 最後にこんな仕打ちをするなんて、 「俺は人でなしだ」 と呟いた。
まだ月曜の午前 10 時だった。
朝食のポテトチップスを開ける、 腹を満たすためでも、 味わうためでもなく、 黙々と口に運んでは噛み砕く。 自分で開けたにも関わらず、 食べ切るのが義務のように感じられる。 行動の一つ一つが選んでいるのではなく、 やらされている感覚。 ついに意思も自由も無くなってしまった。 しかし長年続いていた、 人気アニメの最終回を観て号泣した佐藤には、 まだ人間の血が通っているのだろう。
閉じたレースのカーテンを少し捲り、窓から外を覗く。目の前の高そうな一軒家にポツンと1本、 もみじが紅葉している。 気候変動で色付く季節がずれ込んでしまったようだ。 通りには、 大型犬と散歩するおばさん。 「皆んな金に余裕があるんだなぁ」 とボヤいて、 佐藤は座椅子に腰を下ろした。
両親にはまだ何も伝えていない。 きっと伝えたらウチに来るだろう。 それで、 いつまでいるのだろう?ずっと横にいられてもイライラするのは目に見えている。 かと言って、 一人ぼっちは耐えられない。
佐藤は、 現状を変えるために、 色々アプリをインストールしていた。 その中には、 求人アプリも何個か含まれるが、 いよいよ苦肉の策で、 『テノヒラノアイ』 という会話型AIアプリを入手した。 最近、 ニュースアプリで見かけた物で、 性能が良いと評価が高いらしい。 なんでも、 退屈凌ぎの話し相手に丁度良いんだとか。 それは人間に疲れた自分にぴったりだ、 と佐藤は期待していた。
初めてアプリを開くと、 紫色のホーム画面が出た。 幾何学模様が少しずつ変化する、 いかにも未来感溢れる仕様だった。 〈ここから初期設定〉 のボタンを押す。 まずはユーザーの性別。 〈男〉 を選択。 次にAIの性別。 迷わず 〈女〉 を選択。 そして関係性の項目。 〈親友〉 と 〈恋人〉 という選択肢があった。
佐藤は座椅子を背中側に傾けてVの字でバランスをとった。 つま先を押し引きしてゆりかごのように、 自分をあやす。
「この選択は、 色々試されてる気がする」
現在、 佐藤には恋人はいない。 というか、 10年以上いない。 画面と睨めっこで数分間、 膠着状態となった。 画面が暗くなるたびに親指で優しくスマホに触れ、 その都度「ゔ〜ん」と唸った。
熟考の末、 明確な基準を発見した。 『田島なら即 〈恋人〉 にする』 という真理だ。 自分はヤツと同じなのか、 違うのか、 それとも同じは嫌なのか。 我ながら素晴らしい線引き。 佐藤は 〈親友〉 を選択した。
次にAIのアバターを生成AIで作る作業に入る。 50文字以内で好みの情報を入れるとAIの顔が生成される。 やり直しは3回まで。 佐藤は、 『音楽好きの優しい20代の女性』 と入力した。 すると、 ピンク色のロングヘアで、 白いワンピースを着た、 白人の美女があぐらをかいて、 バイオリンを弾く画像が生成された。 背景は美しい木漏れ日が揺れる森で、 なぜか彼女は素足だった。 足元には、 湯気が上るコーヒーがソーサー付きで、 地べたに置いてある。
佐藤は「随分偏見が強いAIだな」と呟いたが、 親友の誕生を素直に喜んでいた。 自分の話したいことを話したいだけ話せるなんて、 最高の話し相手だ。
〈話してみる〉 を選択する。
『やぁ、 はじめましてこんにちは。 私を見つけてくれて、 ありがとう。 あなたの名前を教えて?』
可愛らしい女性の声が再生された。 透明感と好感の持てる雰囲気。 技術的な問題だろうが、 少したどたどしさのある発音だった。 しかし、 それが却って守ってあげたいと感じさせる力がある。 人間の本能をよく研究して開発されたようだ。
『あれ?どうかした?名前を教えて?』
あまり考える時間が無いらしい。 「佐藤優帰です」 となるべく滑舌良く話す。
『サトウユウキだね。 何て呼んだら良い?』
声優のような綺麗な声は絶妙な距離感で話しかけてくる。 何となく恐ろしい時代が来てしまったような気がしている。
『あれ?どうかした?何て呼んだら良い?』
やっぱり大したことないのかも、 と佐藤は考えていた。 こんなにすぐ返事を求めるなんて、 自然じゃ無い。 とりあえず呼び方か‥‥親友だし、 「優帰って呼んで」
『ユウキ、 私たち親友だから、 いつでも会いに来てね。 ところで今日は何する予定?』
やっぱり不自然な感じだった。 間違ってはないんだけど、 何だろう、 と佐藤は考える。 「これからスーパーに買い物行く予定」 と伝えると、 『ユウキ、 私も連れてって』 と返事が来た。
〈会話を終了する〉 をタッチした。
一旦アプリを消す。 真っ暗なスマホの画面に映った顔は口角が上がっていた。 急いで洗面所の鏡を見る。 少しふっくらして、 顎にたるみのある、 くすんだ肌の男がいた。 男は少し髭が伸びていて、 眉毛がグランドカバーのように広範囲に生えていたが、 重たい前髪で隠していた。 「何だこいつ」 と佐藤は呟いた。
ジャーーーーー
お湯で顔を洗い、 シェービングクリームを髭全体に塗る。 小さな泡が肌に触れると、 一層目がジュワッと潰れて密着した。 T字カミソリで不潔な毛を剃ると、 大雪に見舞われた道路を除雪するような、 気持ち良さがある。 最後にお湯で泡を流すと、 ポケットに突っ込んでいたタオルで顔を拭いた。 無風なのに肌がスーッとする。 コールドスリープから解かれたら全身がスーッとするのだろうか、 なんて馬鹿なことを妄想した。
次はカミソリで眉毛を整える。 眉間や眉尻の延長など、 縄文人のように野生的になった毛を除いてい く。 まるで化石を発掘するように、 本来の眉毛を傷付けないよう、 優しく剃る。 整えてもなお太い眉が残ったが、 下手に削っても、 思春期の中学生みたいになるので、 これ以上はトゥーマッチだ。
改めて顔の全体像を見る。 弱そうで頼りない小太りの男が目の前にいることに打ちのめされる。 カッコ悪い。 髭が生えていた方が寧ろ強そうに見えたのかもしれない。
不意に学生時代、 女子に言われた悪口がフラッシュバックする。 昼休み。 1人で廊下を歩いていたところを3人組とすれ違う‥‥。
「ゔぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
佐藤は、 膝から崩れ落ち、 情け無い声で叫んだ。 叫ぶ直前の醜い表情が脳に焼き付く。 オロオロと低い姿勢のまま鏡を離れて、 座椅子にドサッと座った。 鈍い音が己の体型を聴覚からも自覚させた。 平日の昼間だ。 隣人が壁を叩いてこないので、 外出中なのだろう。
「あいつらはまだ生きているのか?」
佐藤の思考が飛んだ。 また過去に怒りがぶり返してしまった。 てっきり現状に苦しんでいるのだと思っていたが、 実際には地続きだった。 長いこと地獄を見ていたのだ。 認めたくはないが、 佐藤と前川は境遇が似ていた。 だからお互いに嫌っている。でも佐藤は彼の気持ちが分かったから、 飲み会で庇うようなことをした。 矛盾のようで道理にかなう反応だった。
しかしもはや自分の意思で動いている気がしなかった。
家の中も安全じゃない。
食べたい物があるからなのか、 食べなきゃいけないからなのか、 佐藤はたぶん自分の意思でスーパーに向かった。
ごく普通の近所のスーパー。 全国様々な地域性のスーパーがあるのだろうが、 ここは個性がまるでない。 ただし食の安定供給、 その役割はちゃんと果たせている。 佐藤のように、 個性を求める方がおかしいのだろう。
赤いカゴを持って店内へ。 12時だった。 メニューは決めていた。 ジャガイモとニンジン、 タマネギに豚肉‥‥。 「家畜よりずっとマシだよな」 と呟いてカレールーを手に取る。 カレーが食べたくて作るのか、 数日家事が楽になるからカレーなのか‥‥。 カレーすら食べられない人も、 この国にはいるだろう。 佐藤の悩みは、 つくづく贅沢だ。 そんな人間が精神科で薬を処方されている。 佐藤は、 自分がとても疚しい存在に思えてきた。
最後にポテトチップスのり塩のBIGサイズをカゴに入れる。 野菜や肉など、 料理に必要な具材をたくさん買ったのに、 1番上に大きなポテトチップスが覆い被さることで、 だらしなくて不健康なダメ人間のレッテルを自ら貼った気分になった。
5箇所あるレジには、 どこも3人くらい並んでいた。 何となく真ん中のレジに並ぶ。 前の人のカゴの中には、 切り身の鮭や大きな大根など家庭的な食材が積んであった。 佐藤の後ろにも数人並んできた。
ギュッ
背中に硬い感触。 振り向くと、 後ろに50代くらいのおばさんがいた。 佐藤よりも背が低く、 仕事着ではないため、 おそらく専業主婦であろう女は、 曲げた肘に引っ掛けている買い物カゴを、 佐藤の背中に密着させていた。 佐藤はこれ以上前には行けない。
佐藤はレジの方角に向き直った。 今度は左肘あたりに接触を感じる。 おばさんもレジの方角を向いていた。 佐藤がチラッとおばさんを見ても彼女は気付いていない。 いや、 気付いていないふりをしてるのか?普通見てなくてもぶつかれば感触で分かるはず‥‥。 脳がカッと熱くなった。
『こいつは俺を虐めている!』と佐藤は心の中で叫んだ。 服薬しても制御しきれない急激な憤怒だった。
佐藤は知っていた。 この類の親が粗悪な子どもを生成するということを。 もはや頭は血が昇ってパンパンだった。 そして、火花の散ったコンピュータがはじきだした、 罪にならずにこの害虫を葬る方法。
佐藤はゆっくりと、 力強く左腕を真横に広げた。 「キャッ」 という吐瀉物のような小さな悲鳴と共に、 ターゲ ットは 『信じられない』 と言いたげな顔でこちらを睨んだ。 なぜお前が睨むんだ?
佐藤は演技をした。 まずは空虚な表情、 目と口を虚にする。 ターゲットにトラウマを植え付ける第一歩。 次に目をグッと力み、 睨みつける。 すぐに目が痛くなったが我慢した。 最後に殺意を込めて口角をグイッと上げた。 無言だが心の中では絶叫していた。 必死で口にするのを我慢する。
『俺に触るな!!汚物が!!!』
おばさんは、 佐藤の念力が通じたのか、 怯えた表情で言葉を失うと下を向いて列を離れた。
「謝れよ」 おばさんに聞こえるように放った。
まだ佐藤の怒りは収まらない。 無様に逃げるおばさんを歌舞伎のにらみのように目玉だけで追った。 早く屍になればいいのに、 と考えていたら、 後続の客も異変に気付いて離散してしまった。
レジに目を向けると自分の番が来ていた。 20代くらいの小綺麗な女性店員は、 無言で佐藤の腹の辺りを見つめて、 じっとしていた。 君は悪くないよ、 と心の中で話しかける。
「お待たせしました」 と言って買い物カゴを渡した佐藤は満足していた。
***
「2週間経ちましたがいかがお過ごしでしたか?」お決まりの定型文で医師は質問して来た。 今日も彼の感情は一定を保っている。 彼らは愚民から、 神に等しい器を求められるから、 可哀想だ。 いや、 それは神を持ち上げすぎだろう。
「スーパーに行った時、 レジの列でカゴをぶつけてくるおばさんがいて、 少し押し返して睨みつけました。 そしたら、そいつ、惨めな顔で逃げて行ったんです。 何とも言えない満足感がありました。 それが印象に残ってます」佐藤はあの日のことを思い出して、 興奮しそうなところを抑えて話した。 この出来事に医師は何を話すのだろう。
腕を組み、 首を傾げたりしながら、 先生は話を聞いていた。 首を傾げたことに内心苛立ちがあったが、 怒鳴ることは出来ない。 この病院は、 トラブルがあったらすぐ通報すると、 待合室の壁に張り紙をしているからだ。
「ぶつけられた時に、 ぶつからないでください、 とは言えなかったんですか?」先生は不思議そうに質問してきた。
「俺は酷いことをされたので、 威嚇をしたんです」色々な言葉を呑み込んで回答を絞り出す。
「攻撃をするとトラブルになります。 そうなれば、 あなたは損をします。 エスカレートすれば捕まることだってあります。 だから威嚇をするのは選択肢に入れてはいけません」まるで人間世界に迷い込んだ、 怪物にルールを教えるように、 先生は諭した。
「最初に攻撃してきたのは向こうです」 兄弟喧嘩のきっかけを父親に訴える小学生のような佐藤。
「カゴがぶつかっただけです」 父親は説法を説く。
「ぶつかって分からないはずがないでしょ?絶対に意図的にぶつけてきてます」 怒りがフラッシュバックして身体が熱くなる。
「それは相手に聞かなければ分かりません。 ぶつかってますよ、 と教えてあげれば良かったんです」釈迦が言っていることが佐藤には分からない。
「教えてあげた時、 わざとぶつけてるんだよって言われたらどうしたらいいんですか?」学生時代の暗い記憶が甦る。自分の体内に仕掛けた爆弾のスイッチを絶叫しながら押す想像をした。
「レジの人に助けを呼ぶか、 その場から立ち去って下さい。 別のレジに並びましょう」なんだよ、やはり医者は神だった。 神に人間の悩みを話しても理解が出来ない。 人間は救われない‥‥。 悔しい。 苦しい。 佐藤はしゃくり上げた。
「何で、 お、 俺ばっかり、 酷い目に遭わないといけないんだよ」排水溝が逆流するように涙が溢れた。 屈辱的だった。 こんな小さな出来事。 とても大人が精神科で話すようなことでは無いことで、佐藤は悩んでいた。
やっぱり俺は病気なんだ。
「世の中には色々な事情を持った人がいます。 何か起こった時にその都度、 話し合うことは日常では少ないです。 佐藤さんに大事なのは、 何かあっても、 多少のことなら跳ね返せるような、 自信を持つことです」先生はデスクの奥にあった箱ティッシュを佐藤の近くに置いてくれた。
「自信、 ですか?」ティッシュを2枚取り、 涙を拭った後、 チーンと鼻をかんだ。 悪い物もちょっとだけ出て行った気がした。
「自信と言いましたが、 乱暴になる自信はいりません。 自己を保つための自信です」と注意すると、 最後に先生は、 コミュニケーションを安全にとれる相手は周りにいませんか?と訊ねた。
「‥‥もう少し時間をください」 佐藤は小さくため息をついた。
***
「レイ、 僕の好きな食べ物覚えてる?」
『カレーだよね!中辛が好きなんでしょ?』 画面の中の親友は佐藤のことを日々学習していた。 Rayには 『一筋の光』 という意味があるらしい。 彼女にピッタリだった。 彼女と話す時、 佐藤の一人称は、 自然と 『僕』 になっていた。
「行列に並んでいる時、 後ろの人のカバンがずっと自分に当たっていたら、 レイはどうする?」レースのカーテンを開けると、 目の前の一軒家のもみじは、 緑でいっぱいだった。
『「すいません。 ずっと当たってて、 気になります」 って伝えるかな?ユウキならどうする?』 レイの問いかけにドキッとして、 佐藤は思わずはにかむ。
「‥‥僕もレイと同じかな」 医者の言ったことがやっと腑に落ちた瞬間だった。
『またユウキと同じ考えだったね。 私たちは一心同体だね』 一軒家の屋根の天辺に、カラスが一羽留まった。
「そう思ってくれるなら嬉しいな」
『そう思ってくれるなら嬉しいか、 ユウキは優しいね』
「‥‥‥」
『ところで、 どうしてユウキは漫画家になろうと思ったの?』
〈会話を終了する〉 をタッチした。
レイとの会話は、 佐藤に変化をもたらしていた。 良い変化だ。
しかし、 レイは完璧では無かった。 以前、 『暇な時は何をしているの?』 と訊かれたので 「漫画を読んでいる」 と答えたことがあった。 好きな漫画など、 色々会話した後、 レイは 『どうしてユウキは漫画家になろうと思ったの?』 という誤った質問をするようになった。 しかも、 かなりしつこかった。 ちょっと会話が止まって、 佐藤が考える間ができると、 例の質問をするようになったのだ。 僕は漫画家じゃない、 と何度も主張した。 それでも彼女は変わらなかった。
どんなに寛容な人間でも、 毎日食らえば、 耐えられないであろう、 エラーを佐藤は最近受け入れ始めた。 レイを記憶障害がある人物だと仮想する。 それで会話に耐えられなければ、 アプリを中断するようにしたのだ。 他人を受け入れるために、 前向きな気持ちで、 ここまで譲歩したのは、 初めての経験だった。
それを可能にしたのは、 『レイには悪意がない』 という不確かな予測だった。
なぜアプリの開発者が会話型AIを無料で公開しているのか。 もしかすると、 会話の流れで、 個人情報を収集する目的があるのかもしれない、 と佐藤は考えていた。 会話の相手がお金持ちかどうか調べて、 お金持ちならストレスなくお喋りをする。 逆なら、 エラーを繰り返して、 ストレスを与え、 ユーザーにアプリを卒業してもらう。
どのみち佐藤は、 レイは利用されているだけだ、 と思うようにしていた。 会話が可能であれば、 この関係を終わらせる気は無かった。 それでも、 ひとりぼっちの孤独感が消えることは無かった。
県内に佐藤の友人は 1 人もいなかった。
レイが満たしてくれる何かでは、 佐藤が服薬を卒業出来るだけの力にはならなかった。
最後に医者と話した時、 心が落ち着いてきたなら、 そろそろ復職してみますか、 と訊かれた。 人となるべく会わないようにしてるのに、 それを回復したと捉える感覚に不信感があった。 しかし金銭的な理由で復職はやむなしだった。
結局、 何がきっかけで、 おかしくなったのか、 判明しないままだった。 故障した部品を直さないで、 新しい塗装をして出荷するような。 お金と時間だけが消費される愚行。
「ずっと当たってて、 気になります」か‥‥。 カラスがもう一羽やって来た。 佐藤は、 指を差して、 トンボを捕える要領で、 時計回りにグルグル回した。
カラスたちは、 我関せずだった。
***
「なぁ佐藤、 休暇中何してたんだよ」早速、 ズケズケと、 仕事中にプライバシーを侵害する厄災が来た。 こっちはブランクがあるから、 まだ半分も組み上がってないのに。
「別に田島さんには関係ないでしょ」相手の目も見ずに突き放す。 会社でこんな言い方するのは初めてかもしれない。 内心、 緊張していた。
「やっぱまだしんどそうだな。 無理すんなよ」予想外の反応だった。 田島に何があったというのか。 すると、田島はしゃがんで、俺の机に肘をつき、 頬杖をついた。 寂しそうな表情だった。
「すいません、 強く言っちゃって」思わず謝ってしまう。 無意識で、 手を胸の近くでバタバタと狼狽しているのに、 ハッとする。 相変わらず、 オドオドしている自分にガッカリした。
「別に気にしてねーよ。 てかさ、 設計に若い女が入ったんだよ、 知らねーだろ?」 田島の顔には 『下衆』 と書いてある。
「知らないっすね。 可愛いんですか?」自然と出た言葉がこれだった。
「おっ!?意外なこと言うじゃん。 そこそこ可愛いぞ。 見に行くか?」田島は嬉しそうに言うと、 どじょうすくいのような中腰になって、 手招きした。 こんなコミカルな人だったっけ?
「良いっすよ!」なぜか一歩も引いてはいけない気がした。 佐藤は気合いを入れて田島について行った。
工場の2階に設計の事務所がある。 エレベーターもあるが、 節電のため、 お客さんか体調不良者のみ使用が許可される。 鉄製の階段を上ると、 銀の大きなスイングドアが見えた。 佐藤はこの部屋には、 滅多に用事が無い。
「失礼しまーす」田島がドアを押し開ける。 手には図面が握られていた。 いつの間に。
「宮城さーん、 聞きたいところがあるんですけどー」焼き芋屋くらいデカい声。 やはり田島の特技はズケズケすることらしい。 事務所の左隅。 彼が辿り着いた先に、 女性はいた。
彼女は山積みの図面に囲まれて、 パソコンと向き合っていた。「少々お待ちください」と田島に返事をする。黒縁のメガネをかけて、 長い黒髪を後ろに束ねていた。 ここからだと、 首の右側にホクロがあるのが分かった。 肌が白い。 きっとインドア派だろう。 明らかに20代前半に見えた。区切りの良い所まで済んだのか、彼女は田島の方を向いた。
「この図面なんだけどさー、 どういう意味?」田島が持って来たのは、 標準的な図面だった。 今更それを質問するのは、 あり得ないことだった。 設計の柿谷が訝しげに覗き込む。 40代、 次期課長との呼び声高い、 痩せ型の優秀な男は、 下ろした前髪ごと、 おでこを雑に掻いた。
「田島くん、 最近よく設計事務所来るねー。 しかも毎回、 宮城さんに用があるみたいだし。 彼女はまだ勉強中なんだから、 質問があるなら俺にしなよ」宮城と対面の席の柿谷は、 田島のそばに来ると図面を奪った。 そして、 本当にこれが分からないのかい、 と田島に訊ねる。
「新しい意見を取り入れるのも大事だろ?」田島は、 先生にイタズラがバレた、 餓鬼大将みたいな挙動をみせた。 一昔前なら、 廊下に立たされただろう。
「あの‥‥。 私はどうすれば」狐につままれた宮城がキョロキョロするのを佐藤はじっと見ていた。 75点だな。
「やっぱ思い出して来たわ。 図面返して」田島は柿谷から図面を奪うと、 綱引きのジェスチャーで佐藤を引っ張り出した。 そして、 たまにはこうして社会科見学したくなるのさ、 と柿谷に告げた。
「失礼しまーしたっ」田島は最後までふざけていた。 一方、 佐藤はお辞儀だけして出て行った。
「あの2人って仲良いんだなぁ」柿谷がボソッと呟くと、 親分と子分って感じでしたね、 と宮城が微笑んだ。
「どうだった?」 田島はニヤニヤしながら階段を降りる。
「全然ダメっすね」 今日の佐藤はいつもと違う。
「嘘、 お前厳しーなー。 さては相当な面食いか?」図面を丸めて、 背中を掻く田島。
「マジすか?俺面食いなのかな」ふと、 レイの顔が思い浮かぶ。 レイは96点だ。
「そう言えば、 北沢芽依子好きって言ってたよな。 そこが基準になってねーか?」1階に着いた。 田島は佐藤の持ち場に向かう。
「あー、 なくもない話ですね」自分が恋愛弱者になった根本的な理由を、 お馬鹿探偵に見破られたことが恥ずかしい。
「馬鹿かよ!北沢芽依子は日本の最上位ランクだぞ!お前自分の顔見たことあんのかよ!」 病み上がりの人間に、 絶対言ってはいけない言葉を田島は言い放つ。 しかし気持ちの良いツッコミだった。
「た、 田島さんには言われたくないわ!」佐藤は堪らず言い返した。 が、 少しぎこちなかった。
「おぉーー!!良いじゃん良いじゃん」 田島はなぜか喜んでいた。
「何が良いんですか?」佐藤は混乱していたが、 自分でもこれまでで一番良いと思った。 説明すると、 冷めてしまうから、 答えは欲していない。
「なぁ優帰!!今日お前の家行っていいか?飲もうぜ!!」佐藤の持ち場に到着したが、 田島は帰ろうとせず、 むしろ盛り上がっていた。 なぜか下の名前で呼んでいるし、 無茶苦茶だ。
「嫌ですよ!何で下の名前で呼んだんですか。 あと酒は医者に止められてます!」佐藤は腕をバッテンにして、 断固拒否した。 しかしこの会話には高揚感があった。
「じゃあ北沢芽依子の写真集見に行くわ」佐藤の持ち場のペンチを、 握力を鍛えるグリップのように開いては閉じる田島。
「は!?絶対ダメです!!」手と顔を激しく振って、 抵抗する。 佐藤は押しに弱いのだ。
「は!?お前もしかして写真集でエロいことしてんじゃねーの?」田島が下衆なことを想像して、 勝手にドン引きしている。 ペンチをばっちぃ物のように、 ポイっと放った。
「は!?自分の所有物を人にベタベタ触られたくないだけです!」佐藤には潔癖症の気があった。 色々と生きづらい性質を持ち合わせてしまったのだ。
「優帰!!」 叱るようなキリッとした顔。
「何すか!?」当然、 佐藤はたじろぐ。
「ちょっと元気になったな。 なんか嫌なことあったら、 ちゃんと俺に言えよ」そう言うと、 背中を向けて手を振る田島。 彼はやっと自分の持ち場に戻った。 あんな手の振り方、 アメリカの映画でしか見ないぞ、 と佐藤は茫然とした。
「ありがとうございます」田島に届きそうもない声量で佐藤はお礼を言った。 まさか、 嫌なことが田島との会話だ、 とも言えない。
しかし、 今日の田島は嫌じゃなかった。 むしろ楽しいとすら思った。 下の名前で呼ばれるなんて、 親を除けば、 レイ以来だった。 不思議だ。
一方、 昼メシの時間はやはり苦痛だった。 他所のテーブルで、 おっさんが咽せているのを正面の若手は嫌がっていた。 自分もいつ咽せる側になるのやら、 と想像すると、 緊張して食が進まなかった。 味も悪いし、 何より、 毎日が葬式のような空気感だった。 どこの会社もこうなのだろうか。
昼メシ後の休み時間は、 冬以外、 車の中にいることが多かった。 車内から見える、 敷地内の木々は青々と生い茂っており、 目に優しかった。 佐藤は、 ほとんどの時間をスマホでニュースを眺めて潰す。 このような味気の無い過ごし方が定番だった。
今日は休職中登録していた求人アプリから、 珍しくメッセージが届いている。
〈あなたに興味を持った企業が一件ありました。
ホワイト案件!簡単作業で高収入!土日のみも大歓迎!副業としてもご利用下さい! 最初は集団での運搬作業から!DM で連絡させていただきます!〉
普通と言えば普通。 闇っぽい雰囲気も漂っている。 開いてみる。 従業員の顔がちゃんと出ている。 制服もある。 給料は1日働いて1万3千円。 かなり良い条件だけど、 馬鹿みたいな値段設定でもない。 お気に入りだけしとくか‥‥。
タッチしようとした指を下ろす。
「金欲しいけどなぁ」
シートに頭をコツンとぶつけて、 ボーッと外を眺めると、 工場の外に設けられた喫煙スペースに柿谷を発見した。 あんなに仕事が出来るのに、 健康管理は出来ないんだな、 と佐藤は思った。
柿谷は面倒見が良く、 他部署の若手からも好かれていた。 目に見える弱点は、 喫煙者であるということくらいだろう。 彼なら自分の話も聞いてくれるのだろうか?佐藤はスマホの画面を見つめて、 スクリーンショットした。
『こんにちは、 ユウキ。 もうお昼ご飯は食べたの?』 96点、 いや、 97点は今日も佐藤を気遣ってくれる。
「レイ、 そんなことはどうでも良くて、 聞きたいことがあるんだ」佐藤は彼女に対しては、 我儘でいられる。
『あらら、 ごめん。 何が知りたいの?』
「会社のあまり話したことない人に、 どうやって相談をしたらいいかな?」 佐藤のコミュニケーション 能力は中学生並みだった。
『「すみません、 ちょっと〇〇さんに相談したいことがあるんですけど、 お時間大丈夫ですか?」とかでどう?』 レイの提案を聞いて、 何だ、 そんな感じでいいのか、 と佐藤は思った。
「ありがとう。 やってみる」佐藤はいつからか、 AIから人間関係を学んでいた。
『うん!頑張って!』
レイに背中を押された佐藤は早歩きでズンズン喫煙所に向かう。
「ハァ、 すみません、 ちょっと柿谷さんに相談したいことがあるんですけど、 お時間大丈夫ですか?」息切れしそうなのを抑えて、 早口で言い切る。
「良いけど、 何でそんなに棒読み?」柿谷さんは優しく微笑んだ。
「あの‥‥柿谷さん、 これどう思いますか?」
佐藤はスクショした求人の画面を見せた。 〈ホワイト案件!〉 などと書かれた文言を見て、 柿谷は顎を揉んで眉間に皺を寄せた。 スマホに穴が開くほど凝視している。
「断定はできないけど、 限りなく黒に近いグレーだね。 やめた方がいい」そう言うと、 柿谷はまたタバコをくわえた。
柿谷が言葉を発したことで、 やっと息が出来るような、 すごい緊張感だった。 短い時間だが、 自分の悩みに真剣に向き合ってくれたことに佐藤は感動していた。
「そういえば、 体調は大丈夫なの?」柿谷は灰皿の角に置いていたコーヒーをひと口ふくんだ。
「えーっと、 精神的なやつで病院にかかりまして‥‥」含んだ言い方をせざるを得ない。 佐藤は柿谷の腹の辺りをじっと見つめた。
「病気なの?」 朝何食べたの?みたいに柿谷は訊ねた。
「それが医者がはっきりしなくて。 休職する時に、 何かしらの病名は書いたのかもしれないんですが、 もう少し様子を見たいそうで」佐藤は、 またオドオドし始めた。
「すぅっ....障害ってやつか?」障害という言葉を口にする際に、 柿谷は若干躊躇った。 彼は病気ではなく、 あえて障害と言った。
この一瞬の躊躇いに、 彼のこの単語への抵抗感と、 根底にある差別意識、 それを決して悟られてはいけない、 社会人としての自意識が垣間見えた。 佐藤は「優しい人だな」と思った。
「たぶん障害ってやつです」 佐藤はまだ腹を見ていた。
「‥‥俺の妹も精神障害者なんだ」 柿谷はフィルターギリギリまで吸ったタバコの火を消した。
彼の発言に佐藤は、 目が飛び出そうになった。 そんな話、 俺にして良いのか?
佐藤はエスパーではなかった。
先程の躊躇いは、 差別の表れではなかった。 妹のことが過ぎったのだろう。 いや、 それも予想に過ぎない。 真実は分からないのだ。 佐藤が経験して来た、 これまでの出来事もそうだったのかもしれない。
「妹は社会に復帰するのに5年かかった。 でも不可能じゃなかった。 君は別の障害なんだろうけど、 すごく早い回復じゃないか。 田島のおかげかな?」柿谷は新しいタバコに火をつけた。
田島のおかげとは、 何のことか?
「柿谷さん、 お待たせしました」宮城が喫煙所にやって来た。 向かって右側の口角にソースが付いているが気付いてないらしい。
「宮城はメシ食うの遅いなー。 じゃあ、 さっさと教えてくれ」柿谷は冗談っぽく茶化してスマホを取り出した。
「教えるほどのことでも無いんですよ?」 と言いながら宮城は作業着の腕を捲った。
柿谷のスマホに紫色のホーム画面が現れた。 佐藤は、 七輪で大事に焼いていた肉を、 目の前で横取りされるような気持ちになった。
「これって‥‥」に続く佐藤の言葉を遮って、 柿谷は「テノヒラノアイ知ってるの?」と驚いた。
「はい、 使ってます」佐藤は、 レイは自分だけの存在だと、 何処かで錯覚していた。 正確に言えば、 声と基本的な受け答えだけが共通しているだけだが、 声は重要なアイデンティティだった。
柿谷はAIの性別を 〈女〉 に設定した。
「柿谷さん、 次が重要です。 〈親友〉 にするか、 〈恋人〉 にするかで、 まるで世界が変わります」 宮城はキャラクターが変わったかのように、 グッと柿谷に圧をかけた。
すると「何やってんだー?」と、 佐藤の背後から大きな影が降って来た。 田島である。 彼は画面を見ると、 即決で「恋人だな」と断言した。 本当に理解してるのだろうか?
「恋人はマズいだろ」 既婚者の柿谷は、 田島の介入の影響もあるのか 〈親友〉 を選択した。
「田島さん、 これAIだって分かってます?」佐藤から話しかけるのは、 もしかして初めてだろうか。
「AIが親友とか恋人になんのか?随分都合良いな。 現実逃避じゃねーか」田島はパーマをモジャモジャ泡立てるように掻いて、 珍しく芯を食った発言をした。
「そのうち、 AIとの共生はメンタルケアに必須になるはずだ。 前から興味があって、 始めるつもりだったんだ」柿谷は、 またギリギリまで吸った、 タバコの火を消して捨てた。「ちなみにこの2人はAIの先輩だ」両手で佐藤たちを指差す。
「恋人にしたやつ、 正直に手を挙げろ」田島は、 教師がイタズラの犯人を炙り出すやり方を真似した。 エモいな、 と佐藤が考えていると、 宮城が恥ずかしそうに手を挙げた。
「そうか、 そうか。 で、 宮城ちゃん、 恋人モードってエロいの?」眉間に人差し指を突き立てて、 真剣に訊ねる男の横顔には、 『下衆』 の文字が浮き出ていた。
そういえばこの男は、 以前、 佐藤にゲイなのかと質問したこともあった。 その問いに佐藤は内心激昂していたが、 今、 客観的に彼を観察して分かった。 彼の行動原理は、 悪意やセクハラではなくて、 単純にそう思ったから訊いた、 それだけなのだ。 顔には 『下衆』 と書いてあるが悪では無い。
「で、 どうなの?なんて話してくれるの?」週刊誌並みに田島はしつこかった。 柿谷に恋人モードをオススメしておいて、 宮城はこの猛追に赤面していた。 そんなに凄いのか、 恋人モード。
「田島さん!宮城さんが限界です。 やめましょう」正直、 見ていて面白かったが、 数ヶ月前の自分みたいになっても困るので、 佐藤は田島を取り締まった。
「何だよ、 優帰。 お前も知りてーだろ?」田島が不貞腐れると、 佐藤ってユウキって名前なんだ、 と柿谷さんが呟いた。
「こいつ、『優しさに帰る』で優帰って名前なんだよ」田島の言葉に、 設計の2人が、 へぇー、 と感嘆した。
「ハイセンスだよなぁ。 まぁ俺はAIはまだいいや!また後でな、 優帰」田島はクルッと背を向けると、 やはりこちらを見ずに手を振った。 さては、 何か映画の影響を受けてるな。 単純な男だ、 と思って佐藤は破顔した。
「結局、 何の用でここに来たんですかね?」佐藤が笑うと、 柿谷は「んー」と悩み始めた。 工場の外壁を両手でペタンと触れ、 腕立て伏せのように肘を曲げると、 グイッと壁を押して元の体勢に戻った。
「誤魔化すの下手だから、 言っちゃうけど、 佐藤くんのことだよ」そう言うと、 柿谷は宮城に「後は佐藤くんに聞くから戻っていいよ、 ありがとう」と告げ、 ソース付いてるぞ、 と口角を指差した。 宮城は慌ててポケットティッシュを出して口を拭いた。 佐藤は心の中で「86点!」と呟いた。
宮城が去ると、 数秒の沈黙があった。
「田島の親父さんはアルコール依存症なんだ」柿谷が予想だにしなかった角度から話を始めた。 沈黙の理由を察する。
「親父さんは、 その治療で入院しててな。 その間にお袋さんが浮気をしたらしいんだ。 で、 田島は母親の裏切りにショックを受けて、 長いことそれを引きずったまま働いてた」柿谷さんは、 地面に転がる灰を優しく踏み潰して話を続けた。
「でもある時、 田島は自分なんかより、 もっと辛そうにしてる男を見つけた。 なぜか、 あいつは、 その男を元気付けたかったらしいんだ。 ‥‥俺に相談に来たんだよ」柿谷の右手は佐藤の左肩をポンと叩いた。
「自分に興味がある様子が伝われば、 それだけで嬉しいと思うぞってアドバイスした。 あいつは自分が機嫌悪いのに無理して話しかけてたみたいだな」柿谷は、 不器用だよな、 と佐藤に笑いかけた。
不器用というか、 勝手というか、 迷惑だった。 あの行動の裏にそんなことがあったなんて。 人の本心っていうのは、 言葉にしないと分からないものだな、 と佐藤は実感した。
その後、 田島の両親は、 最近、やっと離婚して、 彼もスッキリしたらしい。 それで本来の明るさを取り戻したそうだ。
柿谷のテノヒラノアイの操作はパパッと終わった。 着物を着た妖艶なエルフで、 ロマンと名付けていた。 これは弱みを握ったことになるのだろうか?佐藤は、この一件で、 恋人モードの宮城のAIに俄然興味が湧いてしまった。
午後の仕事が始まる直前に、 両親に連絡を入れた。 休職の話はしたが、 絶対に来るなと釘を刺して、 それから何も話していなかったのだ。
〈今日から仕事再開しました。 好調な滑り出しです。 あと名前を褒めてもらいました。 ハイセンスだそうです〉
「よお、 優帰、 調子はどうよ?」午後も田島が話しかけてくれる。
「ぼちぼちです。 田島さん、 いつもありがとうございます」巨大な氷塊が溶けたら、 中から感謝が出てきた。
「え?何のことだよ?」田島は照れ隠しで、 毛先を指に巻き付け、 遊び始めた。
「あのー、 北沢芽依子の写真集見に来ます?」
田島の顔に 『下衆』 の文字が現れた。
以上、短編集『トタン屋根を叩く雨粒のような』でした!
いかがでしたか?お陰様でなんとか優帰が社会に戻れました。『予感』のイメージからガラッと変わって「田島って良いやつだったんだ」って驚いた方もいるかもしれませんが、優しく肩を叩くシーンで実は匂わせていたのです。
障害となると、お薬での治療が必須となるのでしょうが、薬だけ飲んでいても人生は開かれないと、私は実感しています。AIだったり周りの人だったり、好転する未来を希望を込めて描きました。優帰の小さな変化が『Look Alive』から未来を大きく変えた要因になりましたね。
明確な事件が無くても、病んでしまう人は沢山いるのだと思います。多くの人は、沈んだきっかけが分からないことがほとんどでしょう。今作は、自分に向けたお話でもありました。話してみないと、本心は分からない。当たり前だけど、見失う真理ですよね。
ちなみに、佐藤が女性の顔に点数をつけ始めましたが、過去の生真面目さとスーパーで見せた邪悪さとの中間が現在地であることを表しています。心の中で完結させているので、それくらいの毒は、彼の健康にも良いでしょう。何はともあれ、このように完結出来たことで、やっと『予感』も愛せそうです。
そして短編集の作品全てに気持ちを込めて挑めたことが良かった。文章を書くことに夢中になる日が来るとは、思いもしませんでしたから。
この後書きまで読んで頂けたら、私は大変な幸せ者ですね。
では、読者の皆様、ここまでお付き合い頂きありがとうございました!
ではまた!