ヴィルヘルム2世に転生したので世界大戦勃発を阻止しようとしたら、何で10年早く世界大戦が起きた?
これは言うまでもなく架空戦記です。
史実と違うというツッコミは平にご寛恕を。
ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世に自分が転生したのに気付いたのは、何時だったろうか。
今一つ、1905年現在の自分には明確に思い出せない。
それこそ幼い頃から朝から晩まで、将来の皇帝候補として勉強漬けの日々を自分は送っていた。
更には難産で産まれたことからくる軽い左半身障碍もあり、直立不動の姿勢が取れない等の問題克服の為の訓練までもあったのだ。
(尚、この障碍は完全には治らず、私は未だに付き合わざるを得ないという現実がある)
本当に幼いころから、私は多忙な日々を送り続けたので、前世の記憶を取り戻したのが、何時だったのか、今となっては、どうにもはっきりしない。
更に言えば、それは極めてぼやけて、おぼろげな夢のような記憶なので、私の幻想なのかもしれない。
(メタいことをいえば、中学、高校で体験したことを、何十年も経って、具体的には50歳を過ぎてから、どこまで正確に体験したことを思い出せるだろうか。
極めてぼやけた、おぼろげなモノになっている人が、殆どではないだろうか)
後、前世のぼやけた知識からすれば、私は愛着障害を微妙に抱えて成長することにもなったようだ。
私は出産の際の経緯や、その後の障碍克服問題等から、実母に愛されずに育つことになったのだ。
勿論、実母に愛されなかったからといって、それ以外の家族から疎んじて育つようなことまでは無かったので、そう歪んで私が育つようなことは無かったが、そうは言っても寂寥感を抱く等して、成長したのは間違いないことだった。
少なくとも自分が皇帝に即位する前には、史実(?)の2020年代前半頃までの世界の歴史の流れを、おぼろげな前世の記憶として思い起こしていた。
更に言えば、私の前世は日本人だったらしい(らしいになるのは、前世の記憶が極めて曖昧なため)。
ともかく、その前世の記憶に従う限り、このまま行けば自分は亡国の皇帝として指弾される運命だ。
更に言えば、ドイツは2度の世界大戦の惨禍を引き起こしてしまうことになる。
更に、それによって失われた多くのドイツの国内外の人命のことまでも考えるならば。
その果てに、どのような運命を世界が辿るのかを考えれば。
私は何としても世界大戦を阻止するために努力しようと決意して、皇帝に即位した。
とはいえ時代が時代である。
更に言えば、私が皇帝に即位したのは1888年であり、それこそ帝国主義が全盛期だった。
そうしたことから、それなりに軍事力を整備し、通商圏(更に露骨に言えば、植民地)拡大をどうしても図る必要があった。
何しろ関税によって、自国産業の保護を図るのが当然の時代なのだ。
(だからこそ、この頃の史実の日本では、関税自主権の放棄が大問題になった)
私としては、前世の記憶もあって自由貿易主義をできる限りは執りたかったが。
そんなことを単純に推進しては、自国の商工業や農業を潰すことになるとして、それこそ資本家や農民に至るまで、多くの国民から非難轟々という事態が起きてしまうので、保護貿易主義を基本とせざるを得なかった。
そして、我がドイツは君主主権国家でもあるのだ。
だから、英国の国王のように「君臨すれど統治せず」に、私は徹する訳には行かない。
その為に、ある程度は私は前に出て、国政を運営せざるを得なかった。
(更に言えば、ドイツ帝国が極めて若い国家という問題もある。
何しろドイツが、我が第二帝国として統一されたのは1871年で、それこそ明治維新以降なのだ。
これが英国や日本のように古い王室、皇室ならば、君主が前面に立たないで済むような政治体制が出来ているだろうが、我がドイツはそういう訳には行かないのだ)
そんなこんなを考えつつ、私は帝国の舵取りをすることになった。
私は前世のおぼろげな記憶を頼りにして、まずはビスマルク外交を否定することにした。
ビスマルク外交は理想と言えば理想だ。
対仏包囲網を緩やかに造り、欧州の大国の力の均衡によって、欧州の平和を維持する。
だが、このビスマルク外交は、その代償としてドイツが世界に通商圏を獲得するのを、事実上は諦めざるを得ない。
更に言えば、ビスマルク外交は欧州のみを見ており、(前世記憶によるものだが)日米という新興国を度外視しており、又、ロシアの脅威を軽視しているようにしか、私には考えられなかったのだ。
(それにビスマルクという名政治家だから、ビスマルク外交が可能だったというのも一面の真理だった。
私のような凡人が、あんな精緻な外交をしては破綻が必至だ)
では、どのように自国、ドイツの外交を運営していくべきか。
私が参考にしたのは、七年戦争時のフリードリヒ大王の外交だった。
親英外交を進め、英国が「栄光ある孤立外交」政策を放棄した際には、我がドイツと同盟するように図らせるのだ。
更に英国をバックにして、中南米や中国本土を、我がドイツの通商圏に組み込むのだ。
それによって、ドイツの国力を高めるのだ。
又、日本とも友好関係を築き、米国を牽制させるのだ。
そう考えた私は、ティルピッツらを中心とする海軍首脳部の主張を拒絶して、対英三割五分の勢力の海軍整備に努めることにした。
我がドイツは大陸国家であり、海軍の任務は我が国の沿岸航路の維持、更にでき得るならば、バルト海や北海にある程度の影響を及ぼせればよい。
英海軍や三国同盟を既に結んでいる伊海軍と連携すれば、対英三割五分も独海軍はいれば十分だ、と私は考えた次第だった。
このことは英国の対独感情を和らげることになった。
その一方で、ビスマルク外交の終焉は、私が予期していたことだが、露仏同盟の締結という事態を引き起こした。
既に英仏及び英露は世界各地で植民地獲得等の為に紛争を引き起こしつつある現実があった。
そうした中で、露仏が対独戦に備えることを理由として同盟を締結したが、このことは英国外交に当然のことながら、影響を与えることになった。
表向きは対独戦のためだが、裏では対英戦も睨んで、露仏は同盟を締結したのでは、と英国政府上層部は勘繰ることになったのだ。
更には中国本土、清帝国内でも欧米諸国に加え、日本も加わった侵出競争が始まっていた。
史実同様に1894年に日清戦争で清帝国は大敗、これを見た我が独を始めとする欧州諸国や日本は中国本土を自国の勢力圏として分割して獲得しようとした。
こういった動きに対して、米国政府は門戸開放通牒を出したが、私にしてみれば、噴飯ものだった。
何しろ中南米諸国は自国の勢力圏下にあるとして、棍棒外交を米国政府は推進しており、又、欧州諸国が求める中南米市場の門戸開放を米国政府は断固拒否している、といっても過言では無いのだ。
そうしたことから、私は敢えて声明を発表した。
「米国政府が清帝国、中国本土の門戸開放通牒を行うのならば、当然に中南米諸国の門戸開放を米国政府は認めて然るべきだ。更に言えば、不当な世界へのダンピング輸出を、米国政府は取り締まるべきだ」
私の言ったのは、全くの正論だったが。
(実際に米国政府というか、当時の米国民の多くが、そういった行動を正しいと考え、行動していた)
正論なればこそ、米国政府、いや米国民の感情に突き刺さる代物になってしまった。
誰しも、自分のすねの傷を他人にいじられるのは、極めて嫌なことなのだ。
そうしたことから、米国民の間では急激に反独感情が高まる事態が起きた。
その一方で、英国政府にしてみれば、色々な意味で心労が絶えない状況になっていた。
露仏は連携して、英国政府の行動に対峙する状況になっていた。
こうした状況に対処するとなると、英国は同盟国を求めざるを得なかった。
更に言えば、史実と異なり、我が独は対英協調路線を執っていた。
(史実に准じて、私は独の通商圏確保の為に、いわゆる3B 政策を推進して、汎ゲルマン主義に基づくバルカン半島を経て、オスマン帝国領内への侵出を策してはいたが。
それは対英協調の範囲内でという大前提の下、随時に英国政府と連絡を取りながら推進していたので、更に史実以上に対仏露関係に英国政府が気を遣わざるを得なかったので、英国政府としても、我が独と連携することに前向きでいられたのだ)
こうしたことから、史実と異なり、完全に防衛同盟ではあったが、1902年初頭に英独日の三国同盟が成立することになった。
だが、このことは反独感情の高まりに加え、人種差別感情が入っていた反日主張を米国内に急激に高めることにもなった。
更に言えば、米西戦争を引き起こした米国内のイエロージャーナリズムは、それを煽った。
このために、反英感情までが米国内に高まり、そのことは米国の隣のカナダにおけるフランス系住民によるケベック独立運動を物心両面から、米国民の一部が支援する事態までも引き起こした。
こうなっては、英国政府としても、米国政府を警戒せざるを得なくなる。
米国政府はケベック独立運動の支援を行っていない、と否定した。
(実際、私が我が独の様々な諜報機関に調べさせた限り、事実ではあった)
だが、このような状況になっては、ケベック独立運動を米国政府が裏で支援していると、英国政府としては疑わざるを得ないのが、国際政治の基本といえるからだ。
そして、英国政府が警戒すれば、米国政府も警戒するのは当然だった。
そんなこんなから、お互いの疑心暗鬼から、米国政府は反英独日に奔らざるを得ず、必然的に露仏に接近することになった。
そういった状況の中、とうとう満州と朝鮮を巡る権益争いから、1904年に日露は戦争に突入することになったが、史実と大きく異なる出来事が起きて、私は慌てふためくことになった。
何と日露戦争勃発と同時に、露は総動員を発動したのだ。
我が独の政府、軍の最上層部は慌てふためいた。
露が総動員を発動しては、独も国防体制を充実させないといけない以上、総動員を発動せざるを得ない状況に陥ってしまう。
そして、独が総動員を発動しては、仏や墺も総動員の連鎖反応を起こすだろう。
更に言えば、総動員体制を維持したままの睨み合い、平時体制等、国内外に与える影響の大きさから、不可能と言って良い。
そうなっては、それこそ何処かで砲声どころか、銃声が響いただけで、世界大戦になるだろう。
私は露皇帝のニコライ2世に親書を大至急送付して、部分動員に止めることを懇請したが。
このことは完全に逆効果になってしまった。
敵国である独の皇帝からの親書で総動員を取りやめては、露帝国の面子が潰れるという愛国派の主張が結果的に強まることになり、更には不当な要求をする独を許すな、という主張が露国内では高まって、露軍が独に侵攻する事態が引き起こされたのだ。
こうなっては英仏も、ほぼ必然的に参戦することになり、ここに1904年に世界大戦が勃発するという悪夢が起きてしまった。
私としては、思い切り泣きたくなる事態だったが、亡国の皇帝として指弾されるのは御免だ。
大モルトケの遺訓に従い、西方では守勢、東方ではヴィスワ河方面を中心とする限定攻勢を、墺軍と連携して行うことで、この世界大戦を戦い抜くことにした。
幸いなことに、この世界では英国が同盟国である以上、我が独は海上封鎖に苦しめられることはない。
長期不敗体制を構築して、露仏に厭戦感情を高めて、戦略的引き分けに、この世界大戦を持ち込もうと私は考えることになり、我が優秀なる独陸海軍上層部も、私の国家戦略に賛同した。
そして、このまま行けば何とかなると私が考えていたら。
米国政府、国民の反独、反日感情の高まりは、思わぬ事態を引き起こした。
露に対する人道的支援を行うという口実から、ウラジオストックや旅順に対して、米国政府が雇用した商船が派遣される事態が起きたのだ。
これに対して、日本海軍が臨検を行おうとしたところ、米国政府は拒否するという暴挙をした。
米国政府に言わせれば、米国政府の行動はあくまでも食料や燃料といった民間人を救うためのものであり、中立国として当然の権利でもある以上、日本海軍の臨検行動は許されないということだったが。
私を始めとする独政府上層部や英政府上層部は、日本海軍の臨検行動を是とした。
(というか、それが当時の国際法の理屈からして当然の論理だった)
そして、英独の支持を受けた日本政府は海軍に命じて、米国政府の派遣する商船の臨検行動を行ったが、このことは米国民にとって国辱であり、日本が米国に宣戦を布告するようなものだ、という世論を引き起こした。
当時の米国内では、表向きは平等を謳っていても、実際には「分離すれども平等」という屁理屈から、白人優越主義からくる有色人種差別が横行していてからだ。
だから、黄色人種国家である日本が、米国商船を臨検するのは、米国の星条旗を公然と侮辱し、踏みにじるようなことで、断じて許されないという米国世論が沸騰することになったのだ。
更に国民の声に応じて、米政府は自国商船がウラジオストック等に向かうのに、公然と軍艦の護衛を付けるようなことをし始めて、自国商船に対する日本海軍の臨検は、米国に対する宣戦布告と見なす、という警告を行う事態にまで至った。
こうなっては、もうどうにもならない、といっても過言では無い。
日本政府にしてみれば、米国政府の主張に従えば、戦時国際法に基づく臨検を全く行えない事態になり、自国の国益保全ができないことになるのだ。
更に言えば、同盟国の英独政府からの支持もある。
東郷平八郎提督率いる連合艦隊は、容赦なく米国商船に対する臨検行動を行い、それを阻止しようとした米国の軍艦に警告を発した上で攻撃を加える事態が起きた。
これは、東郷提督の主張によれば、戦時国際法上許された当然の行動だが、米国政府及び米国民の殆どにしてみれば、日本から米国に対して宣戦を布告したことに他ならなかった。
「リメンバー○○」
という叫び声を大統領から末端の国民までが叫んで、米国は日英独に対して宣戦を布告。
更には米国は仏露と同盟を締結するという事態が起きた。
私にしてみれば、呆然とするしか無かった。
何故に日露戦争が日英独墺対露仏米の世界大戦になってしまったのだ。
更に言えば、私は世界平和を保ちたかったのに、何で世界大戦に10年早く突入してしまったのか。
だが、最早、悔やんでもどうしようもないことだった。
私は近視眼的行動と言われても仕方が無いが、日英と協力して、露帝国内の民族、宗教対立を煽ることで、露帝国の崩壊を策することにした。
実際問題として、史実でも行われた明石工作が、日本政府によって行われている以上、独や英政府が加担するのは、当然としか言いようが無いのが現実だった。
又、仏本国や植民地における民族や宗教の対立も私は煽った。
更には、中南米諸国や米国植民地の反米活動や、米本国内の有色人種の活動を煽ることも決断した。
これによって、露仏米の国内の混乱を引き起こし、厭戦気分を増大させ、早期の世界大戦終結を目指そう、と私は考えたのだ。
(後から考える程、自分の考えは浅慮に過ぎなかった。
そんなことをしては、露仏米の国内の混乱は、当然に深刻化することになる。
更に言えば、その報復として、英日独に対する民族、宗教対立が深化するのは当然の事態だったのだ)
だが、こういった行動をすれば、相手もやり返すのは当然だった。
インドを始めとする英国の植民地内では、反英闘争が活発化した。
余り広くは無かったが、日独の植民地でも露仏米が煽ったことから、独立運動が起きた。
墺帝国内では、予てから燻っていた民族、宗教対立が激化した。
更には米国では日系人が強制収容され、強制収容所内で死に追いやられる事態が起きているとして、日本の世論は激昂している。
1905年現在、単なる世界大戦では済まず、世界中で民族、宗教紛争が起きつつあり、それが終わる目途は全く立たない。
どう見ても、史実の第一次世界大戦どころか、第二次世界大戦よりも酷い世界大戦が、この世界では起きつつある現実が生じてしまった。
どうして、こんなことが起きてしまったのだろうか。
私は世界平和を求めて、史実のように独が孤立しないように、英日と友好関係を深めて、同盟関係を締結したのに。
何故にその同盟が却って、史実より酷い世界大戦を引き起こしてしまったのだろうか。
凡人の私にはどうにも理解できない。
1905年現在、私は独皇帝として夜明けを信じつつ、暗闇の中を戦い続けるしかない、と絶望的な想いを抱くしかない現状になっていた。
それこそ世界大戦に参戦している国全てが、いつの間にか国家総動員体制を確立して、総力戦を展開して戦争を行っているのだ。
自国の国力が完全に尽きるか、敵国の国力が完全に尽きるか、まで、この世界大戦は終わらないのではないだろうか。
いや、何かで読んだことだが、それこそ石と木の棒しか無くなっても、この世界の戦争は終わらないのではないだろうか。
決して言ってはならない事態の気がしてならないが。
私のおぼろげな前世の記憶に従えば、民族や宗教に基づく対立は絶滅戦争を引き起こしかねない。
私は1904年段階で、絶滅戦争を意図せずして引き起こした気がしてならない。
私は頭を抱え込むしか無かった。
21世紀まで終わらない戦争を、私は引き起こすつもりは皆無だったのに。
私の考え、行動の為に世界最終戦争になるとは。
私の考え、行動の何処が悪かったのだろうか?
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