表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

霧雨と獣

「気持ち悪い」

気持ちの悪い…骸だ。

胎児のように蹲まって、横たわる獣の、これは骸だ。

彼の柔らかくうねる髪が、雨に濡れて顔にまとわりつく。骸の瞳に私が映る。生温く湿った視線。焦点が揺らぐ。虚像。激情。失望。

アルコールの缶。その一つが足元に転がると、あたしはそれを蹴る。

青年にそれがぶつかり、空しくまた転がる。

転がる缶がまたひとつ、缶を倒した。

私はまた缶を蹴る。

路上で吐瀉物に塗れて横たわる獣。アスファルトの濡れる匂い。獣にまたひとつ缶が当たる。

「やめろ」

痛いから、と骸は呟く。鍛え上げられた屈強な躯には、このくらい、何ともないだろうに。

希ったもの、恋願ったもの、乞い懇願ったもの。

それを唯一とした青年の、これは骸だ。

願いが…命題が解き明かされないのなら、彼に意味はないのだから。

「暁」

 薄明かりを帯びた雲に覆われた空を見上げながら、獣の名を呟く。

無様な骸はゆっくりと身体を起こす。

「とんでもない寝癖」

「るせ…」

暁はシャッターに寄りかかって目を閉じる。全く…

「貴方、今日も仕事でしょう?早く家に帰って支度しなさい」

「あ?頭痛ぇんだよ」

 宿酔?と訊くと青年はぶっきらぼうに頷いた。これだから酒クズは。

「仕事、何時から?」

「八時前には着かないと」

なら寝ている場合じゃないでしょうに。

「タクシー呼んどいてあげたから、あたしの家でシャワー浴びて着替えなさい。その服じゃ仕事行けないでしょう?」

「マジ?助かる…あ、煙草吸って良いか?」

「どうぞ」

油と排水の匂いのする路地裏のアーケード。長髪の青年は錆びたシャッターの落書きに半身を投げ出す。ボディバッグからごそごそと幾つかの袋を取り出し、中の煙草の葉…シャグを軽く揉みほぐした。

「手巻き?」

「ん?ああ…」

取り出したペーパーを手慣れた様子で指に乗せ、シャグを幾つかブレンドし、右に偏らせてその上に置く。…あれ?

「そういえば、フィルター…ないの?」

「ん…いらね」

「身体に悪そう…」

「いいだろ、そんなの…どうだって」

 口答えなんかしちゃって、生意気な奴。

 そっと、彼の横顔を盗み見る。凛々しく吊り上がった眉。きゅっと閉じられた薄い脣。伏し目がちな深緋の瞳が、凝とゆびさきをみつめていた。

 骨ばった指が紙を使い器用にシャグの形を整える。手で口元を隠しながら糊面をすこし舐め、煙草の紙をくるくると巻いていく。綺麗な円錐形のシルエット。作り慣れてるのでしょう。でも、昔はずっと煙草なんか吸わないって…

 青年の視線がふと私の姿を捉え、茶化すように眉が下がる。薄い脣が歪み、嘲笑うように不快感を誇示する。

「…何見てんの?」

「興味。コニカル巻きってやつでしょ?」

「そ」

 暁は小さな銀の箱を取り出す。龍の刻印がされたオイルライター。専門店で一目惚れして買ったって言ってたっけ。確か、あの日もこんな雨が降っていたか。

 ケースのフタを指で軽く弾いて開ける。フリントホイールを回すと、炎が揺らぎ、灯る。それを咥えた煙草に近づけると、ゆっくりと煙草がくゆる。青年が、口から軽く煙を吐き出す。紫煙がゆっくりと立ち昇り、アーケードを出た辺りで消えた。

 じっとりとした、纏わりつくような湿り気。トタン屋根に打ちつける雨音を聴きながら、右隣の青年はただ虚ろな瞳を煙に向けていた。

「ところで、お前の家スーツあったっけ…今日プレゼンあんだけど…」

 ふと、青年の視線がこちらにぶつかる。首を傾げ、瞳に映る叢雲越しの朝日が揺らぐ。

 着替えは…そう

「愛人のスーツがあるわ、拝借しましょう」

「おいおい…いいのかよ、てかお前の恋人ちっこかったろ」

ああ…確か、暁に紹介したのは…誰?確か、ら行の、ら、ら…り、る…?

「あーっと…檸檬みたいな名前の…」

「来夢…じゃなくて、レ…烈李。そう、確か彼よ」

「そうそう、烈李さん。てか誰だよライム」

「あたしの愛人よ。小学生」

 182の大男に小学生の服を着せる訳ない。160そこそこの烈李の服も入る筈ないけれど。

「てかアウトだろ、小学生」

「あら、あたしの恋人にしては珍しく、ついてないのよ?前科」

 これから付きそうな雰囲気はあるけれど。

「お前に前科がつくんだよ…で?どこの回し者だ」

「さぁね」

「重要じゃないのか、それ」

「見当はついてるけど、貴方に言う義理はないでしょう?…勿論、スーツの持ち主は彼らじゃないわ。確か…名前は忘れたけど、30代前半、妻子持ちで三股中の奴。犯罪歴はテロだとか」

「そんな職業みたいなテンションで前科言われてもな」

「まだ逃亡中だから前科ではないけれど…因みに彼の職業は警官よ」

「そいつの同僚に犯罪歴密告しようか?あるんだろ、証拠」

「あら、いいの?彼、貴方がこちらに寄越したのでしょう?」

「関わりはしたけど、寄越したのはもっと上の輩だ。お前人気者だな…て言うか、愛人何人いるんだよ」

「忘れた」

「考えろ、少しは」

 そんなもの、わざわざ数えてない。それに、

「恋人の数なんて数える必要ある?」

「大概はその必要がない程少ないんだよ」

 俺も9人しかいないし、と暁は付け加える。

「貴方も大概女癖悪過ぎじゃない?」

「そうかもな」

 暁は虚ろにアーケードを見上げる。天蓋に開いた穴から垂れたかつてシーツだったろう布がはためき、髪を一陣の風がさらう。

「さぶ…」

 見遣ると、暁がきゅっと蹲っていた。膝を抱えて、まるで子供のよう。雨でシャツが張り付き、筋肉の稜線が透けていた。このかつてアーケードだったものの下では、雨風も防げない。

 弱くて小さな暁。凍えてかわいそうな暁。今まで気付かなかった。暖めてあげなくてはいけないわ。

「ねぇ…暖めてあげよっか?」

するりと腕を絡め、雨でじっとりと湿った暁の左腕をそっと抱き寄せる。口から漏れ出た吐息が、僅かに彼の耳飾りを揺らした。

「ん?…ああ…いらね。ライターあるだろ」

 青年は彼に上体を預けた私を一瞥すると、龍が描かれた真鍮製の蓋を爪弾き、ホイールを回した。小さく火花が散り、焔が揺らめく。それをそっと、掌に翳す。私の、掌に。

「暖かい…だろ、これで」

  青年は私に微笑みかける…彼は、誰?

 戸惑い、瞬く。瞳を開くと、右隣に居たのは何時ものように煙草をふかす暁、だった。そう、この路地裏には私と彼の二人しか居ない筈、なのに。

「いらない。寒くないから…私は、君みたいに濡れてないし」

「そうか…」

青年は、ライターを自分の掌に翳した。橙色の淡い光に照らされた青年の顔を覗き、確認する。彼が、暁であることを。

「そうだ、話戻るけどさ…」

「なに?」

「いや、言うほど女癖は悪くはないかもな…って」

 ふと暁は呟く。何時ものように生意気で、気怠げで、陰を孕んだ軽薄な声色。

「だって、男も怪異も居るから女の子は5人だけだし」

…それで十分過ぎるくらいよ。

「暁を嗅ぎ回るなんて、何処のわんちゃんかしら。貴方、そんなに要注意人物なの?」

「さぁな…でもまぁ、生殖の必要のない化物がハニートラップってのも、変な話だよなぁ…サキュバスとか、お前みたいな無性生殖も出来る有性の怪異なんかは別として…」

「さらっとあたしのこと魑魅魍魎扱いしたけど…」

「妖怪を妖怪扱いするのは妥当だろ?」

 当たり前のことを質問されたかのように暁は首を傾げる。

「だって、妖怪変化と言うには充分に妖しいし、怪しいし、変わってるし、化物だろう?存在として不自然だ」

だからこそ、魍魎は魍魎足り得る、と暁は付け足した。化物も失礼だけど、

「あたしは存在として異ならないわ」

「んな訳ねえだろ?」

「そうであったとあたしが認識しているから」

「は?俺の尊敬する紫陽ねぇは、そう『であったような』ものとそう『である』ものの見分けがつかないのか?ざーこざーこ」

 暁は見下すように嘲笑う。

 集団認識、胎児の夢、エントロピーの増大により咄は譚として拡散していき、やがてもともとそうであったように『成る』。私達バンパイアのような感染性の疫病は、特にその傾向が強い…って、何度も教えてあげたのに。

 それに…煽るの下手だなぁ暁。弱々しい反抗は、より強い支配の引き金となる…ってことも、忘れちゃったのかしら?

「暁くんのざぁ~っこ♡実在しないこの世界は認識により構築されるのに♡」

 歳上のメスガキ構文キッツ…とでも言いたげに私に向けた白い目をふっと背ける彼。その視線を追うと、一台のタクシーがあった。

「紫陽、そろそろ離れろ」

「それもそうね」

 青年に預けていた体重を戻すと、彼はおもむろに立ち上がった。煙草を乱雑に地面に捨て、靴で踏みつけて消火する。治安悪いなぁ…と眺めていると、車内では運転手へ好青年の様な応対をしていた…彼も、もう立派に仕事していたんだったか。

「俺は存在しないものは存在しないものと定義する」

 暁は、流れ行くかつての繁華街を眺め、呟く。

「では、怪物でも物の怪でもないものは何?この世界は存在しないのに。暁は、存在を確実に証明できるとでも?なんて傲慢」

 ちいさくて、やんちゃで、あたしに泣いて縋ることしか出来ないような奴の癖に。

「おいおい…俺はそこまでじゃあ無いぜ?俺が妖怪変化だと定義するのは、存在するべきでないものだ」

「存在するべきであるものの定義は何?」

「存在が必然かそうでないか、世界にとって必要か不要か、とも言えるが」

「必然性のない存在を存在しないと定義するのは…」

「何も、妙なことではないだろう?均衡は崩せる。例え些細な変数だとしてもな。ならば…」

「切り捨て、ね。そんなことならば、何れ貴方も…」

 隣に座る青年がこちらを一瞥する。彼が肯定するようにゆらりと昏く微笑んだ…ように見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ