霧雨と獣
「気持ち悪い」
気持ちの悪い…骸だ。
胎児のように蹲まって、横たわる獣の、これは骸だ。
彼の柔らかくうねる髪が、雨に濡れて顔にまとわりつく。骸の瞳に私が映る。生温く湿った視線。焦点が揺らぐ。虚像。激情。失望。
アルコールの缶。その一つが足元に転がると、あたしはそれを蹴る。
青年にそれがぶつかり、空しくまた転がる。
転がる缶がまたひとつ、缶を倒した。
私はまた缶を蹴る。
路上で吐瀉物に塗れて横たわる獣。アスファルトの濡れる匂い。獣にまたひとつ缶が当たる。
「やめろ」
痛いから、と骸は呟く。鍛え上げられた屈強な躯には、このくらい、何ともないだろうに。
希ったもの、恋願ったもの、乞い懇願ったもの。
それを唯一とした青年の、これは骸だ。
願いが…命題が解き明かされないのなら、彼に意味はないのだから。
「暁」
薄明かりを帯びた雲に覆われた空を見上げながら、獣の名を呟く。
無様な骸はゆっくりと身体を起こす。
「とんでもない寝癖」
「るせ…」
暁はシャッターに寄りかかって目を閉じる。全く…
「貴方、今日も仕事でしょう?早く家に帰って支度しなさい」
「あ?頭痛ぇんだよ」
宿酔?と訊くと青年はぶっきらぼうに頷いた。これだから酒クズは。
「仕事、何時から?」
「八時前には着かないと」
なら寝ている場合じゃないでしょうに。
「タクシー呼んどいてあげたから、あたしの家でシャワー浴びて着替えなさい。その服じゃ仕事行けないでしょう?」
「マジ?助かる…あ、煙草吸って良いか?」
「どうぞ」
油と排水の匂いのする路地裏のアーケード。長髪の青年は錆びたシャッターの落書きに半身を投げ出す。ボディバッグからごそごそと幾つかの袋を取り出し、中の煙草の葉…シャグを軽く揉みほぐした。
「手巻き?」
「ん?ああ…」
取り出したペーパーを手慣れた様子で指に乗せ、シャグを幾つかブレンドし、右に偏らせてその上に置く。…あれ?
「そういえば、フィルター…ないの?」
「ん…いらね」
「身体に悪そう…」
「いいだろ、そんなの…どうだって」
口答えなんかしちゃって、生意気な奴。
そっと、彼の横顔を盗み見る。凛々しく吊り上がった眉。きゅっと閉じられた薄い脣。伏し目がちな深緋の瞳が、凝とゆびさきをみつめていた。
骨ばった指が紙を使い器用にシャグの形を整える。手で口元を隠しながら糊面をすこし舐め、煙草の紙をくるくると巻いていく。綺麗な円錐形のシルエット。作り慣れてるのでしょう。でも、昔はずっと煙草なんか吸わないって…
青年の視線がふと私の姿を捉え、茶化すように眉が下がる。薄い脣が歪み、嘲笑うように不快感を誇示する。
「…何見てんの?」
「興味。コニカル巻きってやつでしょ?」
「そ」
暁は小さな銀の箱を取り出す。龍の刻印がされたオイルライター。専門店で一目惚れして買ったって言ってたっけ。確か、あの日もこんな雨が降っていたか。
ケースのフタを指で軽く弾いて開ける。フリントホイールを回すと、炎が揺らぎ、灯る。それを咥えた煙草に近づけると、ゆっくりと煙草がくゆる。青年が、口から軽く煙を吐き出す。紫煙がゆっくりと立ち昇り、アーケードを出た辺りで消えた。
じっとりとした、纏わりつくような湿り気。トタン屋根に打ちつける雨音を聴きながら、右隣の青年はただ虚ろな瞳を煙に向けていた。
「ところで、お前の家スーツあったっけ…今日プレゼンあんだけど…」
ふと、青年の視線がこちらにぶつかる。首を傾げ、瞳に映る叢雲越しの朝日が揺らぐ。
着替えは…そう
「愛人のスーツがあるわ、拝借しましょう」
「おいおい…いいのかよ、てかお前の恋人ちっこかったろ」
ああ…確か、暁に紹介したのは…誰?確か、ら行の、ら、ら…り、る…?
「あーっと…檸檬みたいな名前の…」
「来夢…じゃなくて、レ…烈李。そう、確か彼よ」
「そうそう、烈李さん。てか誰だよライム」
「あたしの愛人よ。小学生」
182の大男に小学生の服を着せる訳ない。160そこそこの烈李の服も入る筈ないけれど。
「てかアウトだろ、小学生」
「あら、あたしの恋人にしては珍しく、ついてないのよ?前科」
これから付きそうな雰囲気はあるけれど。
「お前に前科がつくんだよ…で?どこの回し者だ」
「さぁね」
「重要じゃないのか、それ」
「見当はついてるけど、貴方に言う義理はないでしょう?…勿論、スーツの持ち主は彼らじゃないわ。確か…名前は忘れたけど、30代前半、妻子持ちで三股中の奴。犯罪歴はテロだとか」
「そんな職業みたいなテンションで前科言われてもな」
「まだ逃亡中だから前科ではないけれど…因みに彼の職業は警官よ」
「そいつの同僚に犯罪歴密告しようか?あるんだろ、証拠」
「あら、いいの?彼、貴方がこちらに寄越したのでしょう?」
「関わりはしたけど、寄越したのはもっと上の輩だ。お前人気者だな…て言うか、愛人何人いるんだよ」
「忘れた」
「考えろ、少しは」
そんなもの、わざわざ数えてない。それに、
「恋人の数なんて数える必要ある?」
「大概はその必要がない程少ないんだよ」
俺も9人しかいないし、と暁は付け加える。
「貴方も大概女癖悪過ぎじゃない?」
「そうかもな」
暁は虚ろにアーケードを見上げる。天蓋に開いた穴から垂れたかつてシーツだったろう布がはためき、髪を一陣の風がさらう。
「さぶ…」
見遣ると、暁がきゅっと蹲っていた。膝を抱えて、まるで子供のよう。雨でシャツが張り付き、筋肉の稜線が透けていた。このかつてアーケードだったものの下では、雨風も防げない。
弱くて小さな暁。凍えてかわいそうな暁。今まで気付かなかった。暖めてあげなくてはいけないわ。
「ねぇ…暖めてあげよっか?」
するりと腕を絡め、雨でじっとりと湿った暁の左腕をそっと抱き寄せる。口から漏れ出た吐息が、僅かに彼の耳飾りを揺らした。
「ん?…ああ…いらね。ライターあるだろ」
青年は彼に上体を預けた私を一瞥すると、龍が描かれた真鍮製の蓋を爪弾き、ホイールを回した。小さく火花が散り、焔が揺らめく。それをそっと、掌に翳す。私の、掌に。
「暖かい…だろ、これで」
青年は私に微笑みかける…彼は、誰?
戸惑い、瞬く。瞳を開くと、右隣に居たのは何時ものように煙草をふかす暁、だった。そう、この路地裏には私と彼の二人しか居ない筈、なのに。
「いらない。寒くないから…私は、君みたいに濡れてないし」
「そうか…」
青年は、ライターを自分の掌に翳した。橙色の淡い光に照らされた青年の顔を覗き、確認する。彼が、暁であることを。
「そうだ、話戻るけどさ…」
「なに?」
「いや、言うほど女癖は悪くはないかもな…って」
ふと暁は呟く。何時ものように生意気で、気怠げで、陰を孕んだ軽薄な声色。
「だって、男も怪異も居るから女の子は5人だけだし」
…それで十分過ぎるくらいよ。
「暁を嗅ぎ回るなんて、何処のわんちゃんかしら。貴方、そんなに要注意人物なの?」
「さぁな…でもまぁ、生殖の必要のない化物がハニートラップってのも、変な話だよなぁ…サキュバスとか、お前みたいな無性生殖も出来る有性の怪異なんかは別として…」
「さらっとあたしのこと魑魅魍魎扱いしたけど…」
「妖怪を妖怪扱いするのは妥当だろ?」
当たり前のことを質問されたかのように暁は首を傾げる。
「だって、妖怪変化と言うには充分に妖しいし、怪しいし、変わってるし、化物だろう?存在として不自然だ」
だからこそ、魍魎は魍魎足り得る、と暁は付け足した。化物も失礼だけど、
「あたしは存在として異ならないわ」
「んな訳ねえだろ?」
「そうであったとあたしが認識しているから」
「は?俺の尊敬する紫陽ねぇは、そう『であったような』ものとそう『である』ものの見分けがつかないのか?ざーこざーこ」
暁は見下すように嘲笑う。
集団認識、胎児の夢、エントロピーの増大により咄は譚として拡散していき、やがてもともとそうであったように『成る』。私達バンパイアのような感染性の疫病は、特にその傾向が強い…って、何度も教えてあげたのに。
それに…煽るの下手だなぁ暁。弱々しい反抗は、より強い支配の引き金となる…ってことも、忘れちゃったのかしら?
「暁くんのざぁ~っこ♡実在しないこの世界は認識により構築されるのに♡」
歳上のメスガキ構文キッツ…とでも言いたげに私に向けた白い目をふっと背ける彼。その視線を追うと、一台のタクシーがあった。
「紫陽、そろそろ離れろ」
「それもそうね」
青年に預けていた体重を戻すと、彼はおもむろに立ち上がった。煙草を乱雑に地面に捨て、靴で踏みつけて消火する。治安悪いなぁ…と眺めていると、車内では運転手へ好青年の様な応対をしていた…彼も、もう立派に仕事していたんだったか。
「俺は存在しないものは存在しないものと定義する」
暁は、流れ行くかつての繁華街を眺め、呟く。
「では、怪物でも物の怪でもないものは何?この世界は存在しないのに。暁は、存在を確実に証明できるとでも?なんて傲慢」
ちいさくて、やんちゃで、あたしに泣いて縋ることしか出来ないような奴の癖に。
「おいおい…俺はそこまでじゃあ無いぜ?俺が妖怪変化だと定義するのは、存在するべきでないものだ」
「存在するべきであるものの定義は何?」
「存在が必然かそうでないか、世界にとって必要か不要か、とも言えるが」
「必然性のない存在を存在しないと定義するのは…」
「何も、妙なことではないだろう?均衡は崩せる。例え些細な変数だとしてもな。ならば…」
「切り捨て、ね。そんなことならば、何れ貴方も…」
隣に座る青年がこちらを一瞥する。彼が肯定するようにゆらりと昏く微笑んだ…ように見えた。