殿下に泣かれました
「ガブリエル!」
クレメント王太子殿下がドタドタと部屋に入ってらっしゃいました。
何か怒っておられるようです。
わたくしは、サッと椅子から降りて、膝を曲げて僅かに頭を下げる臣下の礼をとりました。
室内の女官たちもそれに続きます。
「あぁぁ! 君はなんてことを!!」
殿下はわたくしの短くなった襟足に断りなく触れました。
馴れ馴れしいですわね。
わたくし、男性にこんな場所に触れられたことはなくてよ。
え?
涙が……
泣いているのですか?
なぜ?
「どうして、髪を切ったんだ!?」
泣き怒り、ですか?
殿下の剣幕に周りの人たちは、片膝をついて一段深い臣下の礼に切り替えました。
ちょっと文化的背景が分かりませんが……
わたくしも膝をついたほうがいいわよね?
殿下は膝をつこうとするわたくしの両肩をガシッと掴んで、先程まで座っていた散髪用の椅子まで誘導し、座らせました。
短くなった髪に何度も何度も指を通して、涙を流しています。
え?
リーズ国では、髪を切ることに特別な意味があるの?
「ここまでする必要があったのか?」
やだ、いけません。
殿下、涙だけじゃなくて、鼻水まで出てきていますわよ。
誰かティッシュか、タオルを……
わたくしがメイドに目を向けると、ササっとタオルを持ってきてくれました。
気が利くし、良くしつけられていますね。
すばらしい!
「殿下、髪のことなら、泣くほどのことではありませんよ。髪を切っても痛くないって、ご存じでしょ?」
わたくしは殿下の涙と鼻水をタオルで拭って差し上げます。
わたくしに無断で触れたことについての苦言は後にしましょう。
ところで、殿下はいつまでわたくしの髪を触り続けるのでしょうか?
まだ半分しか切っていないので、残り半分は長いままなのです。
理髪技師をお待たせしているので、気になっております。
「そういうことを言っているんじゃない! 君はダジマットの姫で、魔族の守護者で、魔王の娘で、聖女の天敵『悪役令嬢』なんだぞ! 何故髪を切ってしまったんだ!!」
ええっと?
わたくしの立場と髪の長さの関係が全くわかりませんわ。
「男装をすることになったので、切った方がそれっぽいかなっと?」
あら、やだ。
涙がぶわっと溢れました。
今のどこがまずかったのか、分かりませんわ。
「残りの髪を切る間、私がついているから」
殿下はようやく髪から手を放して、今度はわたくしの手を両手で包み込んでおられます。
なぜ付き添い?
出家すると勘違いされたとか?
違うわよね?
気が利く女官が殿下用の椅子を持ってきました。
対応が機敏で素晴らしいわね!
わたくしは、理髪技師の方を向いて、頷きます。
「ちゃっちゃとやっちゃってください」っという気持ちが伝わったようです。
こちらも理解力が高くてすごく助かるわ!
殿下が邪魔でごめんなさいね。
あぁ~。
殿下ったら。
ザクッ、ザクッっと音がするたびに、涙がポロポロ零れて、明日は目が腫れてしまいますわよ?
困りました。
第一話は、わたくしが髪を切ったら殿下が泣いたというだけで終わってしまいそうですわ。
ざっくりと状況説明だけでもさせてくださいませ。
ここは魔族の国、リーズです。
魔法国連盟の加盟国で、国力は中堅どころですわね。
15年前、リーズに「聖女」が生まれました。
聖女と言うのは、「神」と呼ばれる存在が定期的に送り込んでくる、異世界の存在です。
いにしえの昔、人族が「聖女」と呼んだので、魔族領に現れるようになってからもその呼称を使っていますが、魔族の国を滅亡の危機に陥れるので、魔族の天敵です。
聖女は神からこの世界の記憶、自動発動の魅了魔法、混乱魔法を授かり、有力貴族の令息たちを誑かして「国盗り」に興じます。聖女が出現した魔族の国は、ホスト国として国防にいそしみます。
もうすぐ聖女が16才~18才の活動期に入るので、聖女から天敵として「悪役令嬢」と呼ばれる魔王の娘のわたくしがリーズ国に呼ばれました。
聖女は、女性を敵視する傾向にあります。
攻略する令息たちの婚約者を陥れることもあるそうです。
しかし、男性には優しいと言われています。
では、聖女の天敵「悪役令嬢」が男装したらどうなるのでしょうか?
そういうふわっとした疑問を元に、当代悪役令嬢は男装して聖女の「この世界の案内役」として立ち振舞うことになりました。
その準備として、髪を切りましたの。
軽い気持ちで。
殿下にこんなに泣かれるとは思っておりませんでしたわ。
泣き怒りのクレメント殿下は、当代聖女のホスト国の王太子殿下です。
ホスト国の王子は、聖女の「攻略対象」になることが多いため、「悪役令嬢」と婚約しておくのが慣例なのですが……
ここリーズ国は「恋愛結婚」主義の国で、王族の「政略結婚」は民に好まれません。
だから、わたくしは殿下の婚約者ではありません。
ただの賓客です。
お会いするのも2回目で、泣き上戸だとは存じ上げませんでした。
今後、何かする時には、殿下の泣きツボを刺激しないかどうか周りの女官達にしっかり確認してから行動いたしますわね。