2 不審生物
スティーアンがミュイと出会ったのは数か月前のことだった。
ちょうどエリンとの顔合わせの日取りが決まり、家中が大騒ぎしていた時期だった。
今回の婚約はスティーアンだけでなく家の人間すべてにとって重要な出来事。侯爵家へ婿入りすれば、スティーアンの家にとっても益が多い。
婚約が破談になることなど、如何なる理由をもってしても許されないことだった。
そのためにはスティーアンがエリンに気に入られる必要がある。
誰にも姿を現さない御令嬢に気分を害すようなことなど以ての外。
スティーアンは緊迫していく家の中で、両親に言われるがまま準備を進めた。
騎士のような逞しさを鍛錬で磨き、宝石に負けない麗しさを維持するために身なりの教育も受け直した。勇ましく、魅力的な男になる。それが両親からの課題だった。
両親に逆らうこともなく着々と己を磨いてきたスティーアン。しかし、ある日ミュイが目の前に現れたことで彼の日課は大きく変わる。
その日も鍛錬でへとへとになってベッドに倒れ込んだスティーアン。服に皺がついてしまう。行儀が悪いと母に怒られる前に身体を起こし、束の間の休憩に深い息を吐いた。
すると、突如として部屋の中央にミュイが現れた。
星の雫とともに光り輝いたミュイは、スティーアンを見るなり彼を睨みつけた。
彼も突然現れた得体の知れない生物に呆気にとられ、使用人を呼ぼうかと大声を出しかけた。けれど突進してきたミュイに口を封じられて結局のところ応援を呼ぶことはできなかった。
「き、君は誰だ!?」
焦ったスティーアンは疲労が溜まった身体を必死にミュイから離しながら尋ねた。
「私はミュイ。君のためにやってきた妖精だよ」
「よ、妖精!?」
スティーアンが絶叫したので、ミュイはまた彼の口をふさぐ。
呼吸すら止められそうになったスティーアンは慌ててミュイを引き剥がす。が、ミュイの力が強すぎて離れてくれない。
「絶対に大声を出さないで。誰にも見られちゃだめなんだから! 分かってくれる?」
うんうんうんうん、とスティーアンは何度も首を縦に振った。
「肯定は一回だけ!」
こくり。
スティーアンが頷くと、ようやくミュイは彼の顔から離れる。
呼吸が止まっていた彼が堰を切ったように息を吸い込むところを、ミュイは宙に浮かんだまま眺めていた。
「僕のためにやってきた妖精? どういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。君、困っているみたいだから気になっちゃって」
「え? それって……?」
「君、エリン様の婚約者でしょう? だから私があなたのこと審査してあげようと思って」
「……へ?」
丸い物体がフフンと鼻を鳴らすところを見て、スティーアンは力の抜けた声を出す。愛らしい丸みと偉そうな態度がどうにもしっくりこない。
「エリンは素晴らしい人なの。私は彼女のことをよく知っている。大好きな彼女に変な人間が寄り付かないように気をつけなくっちゃ。スティーアンも貴族の端くれなら分かるよね? ろくでもない連中も多いってこと」
「……ま、まぁ」
「じゃあ早速、君のことを観察させてもらうね!」
そのままミュイは有無を言わさずスティーアンにつきまとうようになった。
ミュイは音沙汰もなく現れては消える、まさに妖精と言える存在。
はじめは妖精というものを信じていなかったスティーアンも次第に信じざるを得なくなっていく。幻覚だと思い込みたかった彼は、気づけばミュイの存在自体を疑わなくなっていった。だが心の変化はミュイも同じだった。
最初の一か月は獄卒のように厳しい眼差しで彼のことを睨み続けていた。警戒心全開で、小さい身体に似合わず放つ威圧感を隠そうともしない。
けれど徐々にその眼差しは緩やかなものになる。
スティーアンがエリンに会うために身を粉にして己を磨き続けていく姿を眺め続け、ついにはミュイはこんなことを言い出した。
「スティーアン。本当にこんなことをしてエリンが喜ぶと思っている?」
読書をしていたスティーアンは一度考えてから首を横に振った。
「いいや。思わないよ。そりゃ、彼女のご両親には好印象を残せるかもしれないけど。でも、エリンは違うと思う。エリンはそんなことで人を見ていないから」
本棚を指差し、スティーアンは目尻を柔らかく垂らした。棚には本のほかにたくさんの手紙が整然と飾られている。
「彼女から送られてきた手紙。それを読めば彼女がどんな人なのか、なんとなくだけど分かる。彼女は人にはそれぞれの良さがあると言っていた。そのすべてが美しく、尊いのだと。個性を潰してしまうのはとても悲しいことだとも言っていたよ。それは己を殺していることと同じだから。彼女は相手が持つ性質そのものに寄り添いたいのだと、そう教えてくれたんだ」
本を閉じ、彼の頬は自然と綻んでいく。まるで彼女が目の前にいて、慈しむような眼差し。
「僕はそれを読んで、なんて心が豊かな人なのだろうと興味を持ったんだ。だから早く彼女に会ってみたい。……だけど、僕は彼女みたいな素晴らしい心を持っていないから。この恋は永遠に片思いで終わってしまうかもしれないね」
眉尻を下げて少し寂しそうな表情を浮かべる。
ミュイはふよふよと彼に近づき、ぽそっと肩に乗っかった。
「それにね。エリンは優しいだけじゃないんだ。ちょっと頑固なところもあって……。彼女、たくさん趣味があるんだって。それを理解して、見守ってくれる人がいたらとても嬉しいって言っていたんだ。両親は少し呆れ顔みたいなんだけど。でも彼女は好きなのに止めるなんて哀しいって言ってた。はは。なんだか子どもみたいで可愛いよね。そんな無邪気なところも僕はすごく惹かれちゃうんだ」
「そうなんだ」
「ああ。僕ばっかり彼女のことが好きになっていく。どうして彼女が婚約を認めてくれたのかも分からないのに。本当のところ、僕を見てがっかりさせないか不安で堪らないよ。父様に言われて鍛錬を続けているのも、ある意味では現実逃避なのかも。できることはやったって、万が一の時に自分を慰めるための」
「スティーアンはそれでいいの?」
「え?」
ミュイの声色が一段低くなった。スティーアンは不思議に思って首を傾げる。
「スティーアンは、エリンと恋をしたくないの?」
不意にスティーアンの呼吸が止まった。
ミュイが瞬きをすれば、彼の表情が凛としていく。
「僕はエリンが好き。もし、もし彼女が僕に興味を持ってくれるのなら……それ以上に嬉しいことは、きっともうないと思うよ」
彼女が自分を見て気分を鎮めてしまう未来を想像し、スティーアンは瞳に影を落とす。
「だけどこれは、僕のわがまま。僕は言われたことばかりこなしてきたから。自分の意思を両親に押し通したことだって一度もない。そんな魅力のない人間、エリンにはもったいないからさ」
「何言ってるのスティーアン!」
すっかり気落ちしたスティーアンの頬をミュイが優しく叩く。
「自覚があるんだったら、そこから変わっていけばいいの! まだエリンには一度も会っていないんでしょう? どうしてそれで負け戦だって決めちゃうの」
「ミュイ?」
「これまでお父様に言われた通りのやり方でエリンに会う準備をしてきたんだよね? ここからはスティーアンが思うように彼女と向き合えばいいんじゃない」
鼻息荒くまくしたてるミュイ。スティーアンは驚いた表情をミュイに向ける。
「スティーアン。自分に魅力がないって思っていたら、本当に魅力が逃げていっちゃうよ。魅力なんて誰でも持っているはず。磨くならそこを磨かないと勿体ないよ!」
「ミュイ……」
「わかった? ほら、返事は?」
ミュイはスティーアンの鼻先までずいっと近寄り耳を傾けた。
ミュイはまん丸の生命体。両手で挟んだら潰れてしまいそうなほどに脆い姿。にもかかわらず、ミュイから溢れ出るのは太陽にも勝る活力だった。
「うん! ミュイ、僕、最後までもがいてみるよ!」
「よろしい!」
この宣言からずっと、スティーアンはミュイのもとで修行を続けている。
警戒心剥き出しだったミュイは、最初に自己紹介した通りエリンのことをよく知っていた。だからこそ最高の教師となったのだ。
スティーアンは前々からエリンが好きなことを知りたがっていた。彼女が好むもの、夢中になってしまうこと。そのすべてに寄り添い分かち合いたいと思ったからだ。
彼はエリンの文字にすっかり惚れ込んでいた。
彼女が書き記した言葉は彼女そのものを映し出す。
スティーアンはエリンの個性をまるごと愛したいと誓ったのだ。