1 みゅい
ヘーゼルの瞳がきょろきょろと広い部屋の中を見回す。
ベッドの周りをたゆたう天蓋に身を隠し、息を潜めたスティーアンの表情には落ち着きがなかった。
彼以外には誰もいない広間。この場所は彼が寝室として使っている部屋でもあり、彼にとっては唯一一人になれる空間だった。
自分の息遣いだけが聞こえてくる部屋の中、スティーアンはぐっと息をのみ込む。
時が止まったような沈黙がしばらく続く。
彼の眉間に力が入った瞬間、突如として静寂は破られる。
「みゅいー!」
桜色の丸々した小さな物体がどこからともなく現れ奇声をあげたからだ。
星の砂に似た光を纏い部屋の中心に出現した奇妙な生物。短い手足を伸ばし、三角の耳を震わせた。
伸びをしてリラックスしたのか、丸い物体は愛嬌のある瞳を瞑った。スティーアンはその姿を見るなり歓喜の声を出す。
「ミュイ! こっちこっち! わっ! 今日も元気だなぁ」
スティーアンが天蓋から身を乗り出せば、丸い物体は転がるようにして彼の胸元へと飛び込んできた。
「みゅいみゅい!」
「ははっ。よしよし。よく来てくれたな」
わしわしと三角の耳の間を撫でつけ、スティーアンは自然と笑顔になる。
ミュイと呼ばれた生命体は、ベッドに座り込んだ彼の膝に乗って得意げな顔をした。
「スティーアン、調子はどう?」
きりっと眉をあげ、ミュイは流暢な言葉を喋る。
先ほどまでの愛らしい声とは違い、人間の言葉を話すミュイはどこか凛々しい。
「変わりないよ。あ、でも父様と母様はてんやわんやだけど。僕にも緊張が移っちゃいそうでそわそわしちゃうな」
「まぁ。余裕な顔しちゃって生意気! スティーアンは緊張していないの?」
「そんなわけないだろう。あと十日経てば初めてエリンに会える。だけど十日間ずっと緊張しっぱなしだと身がもたないよ」
「あれ? 私が知る限りだと、スティーアンはもうずっとエリンに会う日を想って緊張していたと思うんだけど。記憶違いかな?」
「ははは。うん。そうです。白状すれば彼女と婚約が決まった時からずっと気は張り続けているよ」
「ふっふっふっ。強がっちゃだめでしょスティーアン」
「ごめん。もっと逞しくならないとエリンに嫌われちゃうかなって思って」
もちもちとした頬を綻ばせたミュイのしたり顔にスティーアンは恥ずかしそうに頭を掻く。
エリンはドウェイン侯爵の娘で、数年前に約束されたスティーアンの婚約者だった。スティーアンの家は伯爵家。侯爵令嬢であるエリンと比べたら立場が弱い。
しかし仲人の計らいもあってスティーアンの婿入りが決まったのだ。
齢にしてスティーアン十五、エリン十七の時に決まった婚約だった。エリンは上流階級社会では一位二位を争う美女として有名で、当然婚約の申し入れも多かったという。だが当の本人と娘を溺愛する両親の厳しい審査によって数多の男たちが玉砕していった。
けれど玉砕していった男たちや彼らの両親もまた、誰もエリンの姿を見たことはなかった。
両親の端正な顔立ちを見ればエリンの容貌も想像がつく。お抱えの画家が発表した彼女の肖像画の麗しさがまたその認識を確固たるものとさせた。
スティーアンも例外なくエリンと直接会ったことがない。
何度か文を交わしただけで声を聞いたことすらなかった。
婚約成立後にエリンから送られてきた手紙。スティーアンは彼女との唯一の窓口を心待ちにしていた。
一度も会うことなく婚約となったスティーアンだったが、彼はそのことに特段違和感や不満を思うことはなかった。貴族同士の婚姻は基本的に家の事情で決まる。個人ではなく家同士の互恵関係を築き上げるものなのだと教えられてきたからだ。
その観点で言うと、エリンのもとへ婿入りできる将来はスティーアンにとっても素晴らしいものだった。何故、これまで縁談に乗り気ではなかったエリンが許可してくれたのかは定かではない。派手な交友が当たり前な貴族社会で一切浮いた話を聞かないスティーアンの誠実さと、当時通っていた寄宿学校での勤勉さが評価されたのではないかとの噂だった。
現在のスティーアンは十八となり学校を卒業したばかり。社会へ本格的に足を踏み入れる段階で、ようやくエリンとの対面が実現することとなった。
先に教育を終えていたエリンだったが、子供ではなくなった彼女は忙しくなり、文通も途切れてしまっていた。今回の対面はそんな状況での朗報だった。
そろそろ本格的に婚姻関係を結ぶとき。スティーアンはまだ見ぬ婚約者を想って夜も眠れない日々が続いていた。
「うわ……改めて口にしてみたらすごく嫌だな。エリンに嫌われちゃうのって」
スティーアンはふと真顔になって青ざめる。
「スティーアンは本当にエリンに嫌われたくないんだね!」
ミュイはとんっとジャンプをして彼の顔に近づく。
「もちろん。前にも言っただろ? 折角婚姻を結ぶんだ。互いに好きになれた方が絶対に毎日が楽しいはずじゃないか。家のことなんて関係ない。僕は、彼女が笑っていられる未来をつくりたいんだ」
「そっか。スティーアンはエリンのことを好きになりたいんだったよね」
「うん。もうすでに僕は、彼女の文字に恋をしちゃってるんだけどね。恥ずかしいから内緒だよ?」
「任せて! 私口が堅いの! そうとなれば、早速エリンに好かれるための訓練を今日もはじめましょうか!」
ミュイは短い腕を伸ばして微かに見える親指を立てる。
「ありがとうミュイ。君がいてくれて心強いよ」
スティーアンは小さな親指に人差し指でハイタッチをしてベッドから立ち上がった。
「ふっふっふっ。私ほど相応しい教師はいないのです!」
ミュイはふわふわと空中に浮かび上がってぐるんっと一回転した。
「ではでは。今日はエリンが大好きなレース編みを特訓しよー!」
「ミュイ先生よろしくお願いします」
スティーアンは近くの椅子に腰を掛け、傍にある机の上に置いてあった木箱を開ける。中には針とレース糸、はさみ、編み図など、作業に使う道具がしまってあった。途中まで編んだレースを手に取る。ミュイは彼の傍に漂ったまま、彼に編み方の指導を始めた。
「スティーアン、そこはもうちょっと細かく編まないと後で崩れちゃうよ?」
「あ。そっか。ごめんごめん」
真剣な眼差しでレース糸と向き合うスティーアンは、時折ミュイと会話をしながら作業を進めていく。
ミュイは慣れない手つきのスティーアンをハラハラとした様子で見守りながらも的確なアドバイスを伝えていった。
部屋の中にはスティーアンと宙に浮いたミュイだけがいる。
そのせいかスティーアンはすっかり肩の力が抜けてしまっていた。
僅かに開いた扉の隙間から彼の様子を観察している使用人の気配などまったく気づかない。
「あー。またやっちゃった。これ、軌道修正できるかな?」
「できるできる!」
「そっか。良かった。ここの柄はちゃんと何をモチーフにしているのか分かるようにしないとだよね」
「うん。スティーアンなら出来るよ」
「ありがとう。よし。こんなんで挫けちゃだめだよね」
彼が部屋の真ん中で黙々とレースを編む様子を眺めていた二人の侍女は、示し合わせたかのように同時に眉をひそめる。
息を殺してスティーアンのことを見つめる二人の表情には懸念が滲む。
「……ねぇ。またスティーアン様独り言を喋っているわ」
「本当ね。ここのところ頻度が酷いわ。毎日のようにぶつぶつ何かを言っているじゃない。ほぼ一日中よ。正直異常だわ」
「見ていて心が痛いわ。それに随分と趣向も変わられて……。今日はレース編み。昨日は絵画。一昨日はお菓子を焼こうとして少し揉めていたわよね」
「ええ。ここ数か月の間は趣味だった狩猟なんかもあまり行っていないみたいだし、ずっと家に引きこもって何かしている様子よ。ずっと独り言を言っているし、何か病に侵されているのではないかしら?」
「いやだ。そんなこと言わないで頂戴。夫人になんてご報告すればいいのよ」
「いいえ。まだ報告はやめておきましょう。大事な顔合わせの前に心を乱してしまっては可哀想だわ」
「そうだけど……。こんな調子でスティーアン様本人は大丈夫なのかしら……」
二人は頬に手を添えて困ったように頭を斜めにする。
「とにかく、まだ確証が持てるまでは黙っていた方がいいわ」
「そうね。奥様を傷つけたくはないもの」
そっと扉を閉め、二人は目にした光景を胸にしまい込んで仕事へと戻る。
一方のスティーアンは、誰かに見られていることなど知りもせずレース編みに没頭していた。
顔を上げればミュイが元気づけてくれる。
スティーアンはミュイの励ましにはにかみながら手元へと視線を移した。