-4 『情報収集、そしてこれから』
お皿を洗ったのなんて初めてだ。
いや、正確には『私』が記憶を取り戻す前まではこのような生活を送っていたのだろうけれど。それにしても、水は冷たいし、油汚れはべとべとするし、なんとも不愉快すぎる。
――屋敷だったら執事たちがみんな下げてくれるのに。
かつての郷愁のようなものにふけりながら、もう戻らない日々に一抹の寂しさと虚しさを覚えた。
――ううん、駄目だ。私はこれから『リーズ』として強く生きていくんだから。
せっかく手に入れた第二の人生。謳歌しなくてはもったいないというものだ。
「そのためにもやっぱりいろいろと知らないと……ふぁあ……」
妹のマリーと同じ部屋で、二つ並んだ背の低いベッド。ごつごつと固くて、布団も安物で薄っぺらい。そんな寝心地の悪さの中で横になりながら、私は静かに眠りに落ちた。
翌朝。
起きて一番に私は家を飛び出した。
「お姉ちゃん。ママが、パパの畑仕事を手伝うか、今晩の晩御飯の買い物に行ってきてほしいって。あれ、聞いてる? ねえ、どこに行くの? 買い物? ママがメモしてくれたやつがあるけど、持っていかないの? あれ、お財布は?」
マリーが不思議そうにずっと私にそんなことを言っていたけれど、全部スルーした。私にとってはそんなことよりも、前世の情報の方がずっと大事だからだ。
私こと『ナターリア』は崖から落ちて死んだ。
けれどそれは私が当事者だから明確に知りえていることだ。
もしあの滑落事故が誰にも気づかれずにいたとしたら、私は逃亡犯として指名手配されている最中かもしれない。そして見つけ次第お縄に駆けられ、即処刑――なんてこともあり得るかも。
そんな最悪の結末を迎えないためにも、今、私がどんな状況なのかを知っておかなければ。
私はさっそく公営の図書館へと向かった。
誰でも利用ができるそこは日中から多くの人が集まっていた。老人の交流場として。若者が知識を集める場として。そして暇を持て余す子供の遊び場として。
賑やかさが溢れる中、私はその図書館の一角で大量の新聞を借り、机にばさっと広げてみせた。私が死んだ日時から換算しておおよその日付は目星をつけてある。
どうやらあれから半おおよそ一年ほどは経っているらしい。
――でもおかしいわね。生まれ変わったのだとしたらもっと時間が経っていないとおかしいし。そういえばエルクもあまり歳をとっていなかったわ。
少なくとも今の『リーズ』の年齢は十四歳。むしろ『ナターリア』が生きていたとしたらほぼ同じ、いや、同年齢くらいだろう。
新しく生まれ変わったというよりも、人格はそのままに別の人物と入れ替わった、というほうが自然なのかもしれない。けれど私がそもそも『リーズ』という誰かに乗り移ってしまったのか、はたまた『リーズ』という存在がその瞬間に生まれたのかはわからない。
ただひとつわかるのは、私には「リーズとして育ってきた記憶もある」という事実だけ。
考えれば考えるほどわからない。
ならばもう考えるのも止めだ。理由はわからないがせっかく手に入れた生き延びるチャンス。絶対に無駄にはしたくない!
「あった、これだわ」
私が死んだ翌日の新聞に、さっそくラスケス家についての速報が記されていた。
『ラスケス家の当主であるクランク=ラスケスとその妻アミーナが謀反の疑いで処刑され。相当前からクーデターを企てか』
見出しとしても大きく、すぐに目に入った。
ざっと目を通す。
所詮はゴシップ記事程度のものなので真実かどうかはわからないが、そこには私すら知らないことも多く書かれていた。
ラスケス家は何か月も前からそれを企てていたこと。近年、ろくに実績も持たず態度と口だけが大きくなっていることに対して危機感を抱いての犯行だということ。クランク=ラスケスは何年も前から玉座に座ってみたいなどと冗談めかして言っていたこと。他にもいろいろだ。
その根拠が明確に記されていたわけではないが、詰まるところラスケス家が絶対的な悪として喧伝されていた。まあ国家転覆を企てた犯人となれば当然だが。
この国は今、現在の王政の元で比較的に平和が続いている。
誰も戦争なんて望んでいないだろう。最後に国の軍隊が動いた事例も、十年以上前に遠く小さな村で内乱があってそれを治めたくらいだと教わったことがある。
今の国王は平民に対しても温情的で、貴族と平民の貧富の差はあるものの、平民であっても努力さえすれば商業などで富裕層になることができる世の中だ。そのため巨万の富を得て影響力を手にした豪商も中にはいる。
そんな治世の保たれた国を乱そうとすれば、それは疎まれて当然だろう。
「あらお嬢ちゃん。ラスケス家のことを調べているの?」
ふと机の横を通りすがった見知らぬおばあさんに声をかけられた。
「え、ええ。こんなことがあったなんて知らなくて」
「あら珍しい。この町じゃ床下のネズミにまで聞こえるほど号外が飛び回って知れ渡っていたのだけれど。その時は町にいなかったのかしらね」
「まあ確かに出かけてと言えば出かけてたかも」
ちょっと死後の世界に。
「もう町中大騒ぎだったわよ。なにしろあのラスケス家だもの。みんな何かやらかすんじゃないかとは思ってたけど、よりにもよって国王様の首を狙ってただなんてねえ」
「思われてたんだ」
なんとも市民からの評判も悪かったらしい。
「まあ死人に悪く言うのは申し訳ないけど、この国の癌だって言われてるほどだったからね。いずれ国を蝕む前に除去されたならよかったというべきなのかねえ」
「あはは……」
ものすごい言われようである。
けれどラスケス家の人間は誰にだって無駄に尊大な態度をとることで有名だし。今でこそラスケス家から離れてわがまま放題できない私には、まあ気持ちはわかってしまうかもしれない。
あの頃は何をやっても許された。何を言っても叶えてもらえた。
あれだけ横柄な態度をとっていれば誰からも恨まれて当然か。昔はそれが当然だったけれど、今はこうして農民の娘として貧しい暮らしをしてみて実感している。簡単にお腹いっぱいにはなれないし、毎日綺麗に洗われたふかふかの布団で眠ることもできないのだ。
――ともあれば、やっぱり私の素性をバラせないじゃない!
私がラスケス家の生き残りだと知れば、みんなこぞって「生きてやがったのか」と押し寄せてくるかもしれない。そんなの最悪だ。身の毛がよだつ。
「処刑だなんておそろしいけれど、まあ私たち一般市民には無縁の話ね」
おばあさんはそう笑いながら立ち去っていった。
私は思いっきり関係があるんですけど、なんて言えるはずもなく、にこやかに笑顔を作って見送った。
両親についてはわかった。
処刑されたのは正直、悲しい。もちろんどういった感情もある。けれど悲嘆にくれるほどでもなかった。それほどサバサバしているのは、もともとお父様もお母様も、あまり私には関心がなかったせいもあるだろう。
二人が興味あったのは、最期までお金と地位だった。
面倒ごとはすべて使用人に押し付け、私の世話なんてしたことがない。最後にお母様に抱かれたのはいつ以来だろうか。それすらもわからなくなるほどだ。
図書館を走り回って騒いでいた子供が、一緒に来ていたお母さんに怒られていた。それで泣き出すと、今度は優しく頭を撫でて抱っこをしてあげていた。
そんな優しい光景を私はぼうっと横目に映しながら、自分自身の境遇のむなしさを改めて実感した。
あの生活に戻りたいか。
そう問われれば、なんとも頷きがたい。
結局、没落したとたんに誰からも見放され、人脈も財産もすべてを失ったあの『ナターリア』。そんなのただ私腹を肥やしてブヒブヒいっているだけの豚も同然。
贅沢もしたいし美味しいものもたくさん食べたい。けれど哀愁に暮れることはなかった。
「私のことは……あ、あった。うわあ……すごく隅っこにちょこっとだけだわ」
ラスケス家の没落について書かれた記事の最後の方に、付け足されるように『ナターリア』の名前があった。
『なお一人娘であるナターリアは逃走を図り、町の外の断崖にて滑落事故を起こした。その後、第四王子のルクス様の支持の下で捜索が行われたが、まもなく激しい豪雨に見舞われて難航。遺体は見つけられていない。ルクス様は「それらしき遺品もあり状況から見て厳しそうだ。けれどもしかしたらまだどこかで生きているかもしれない」と述べ、逆賊の一味が逃亡犯として生き延びている可能性も示唆した』
――ひどい書かれ方ね。
この表現の仕方からして、私の死は明確には判明していないらしい。けれど大方は死亡扱いなのだろう。しかし、まだどこかでくたばっていないかもしれないから注意しろよ、ということか。
「……うーん、あながち間違いとは言えないところがなんとも」
しょせんゴシップばかりの新聞記事、と鼻で笑うに笑いきれない。
つまり私の死が確定されていないということは、私の生存を疑われることもあり得るということだ。
――ってことは、迂闊なことをしたら私も捕まりかねないってこと!?
もしかするとまだ捜索されているかもしれない。
いまは『リーズ』だけど、『ナターリア』を知っている人には気づかれる可能性がある。見た目こそ昔ほど太ってはいないが、少し面影は残っているのだ。あと性格や口調はそのままだし。
私を知っている人――屋敷の使用人は正直顔もあまり覚えていないし、となればひとまずは……。
「ルクスね」
この前は偶然にもばったり出会ってしまったけれど、もう会わないようにしなければ。うっかり見破られ、せっかくの私の第二の人生が潰されてしまっては大問題だ。最悪、もうなんとなく気づかれてしまっている可能性もある。
「要注意人物として警戒しておかないと。もし見かけたら、近づかれる前にとっとと立ち去る。うん、よし!」
ぐっと握りこぶしを作って顔を持ち上げた途端、図書室の机の向かいに誰かが腰かけた。
ふと目が合って、その相手がにっこりと微笑む。
「やっと見つけた」
ルクスだった。
あまりに突然すぎるせいで、私は間抜けにぽっかりと口を開けたまま、ただ固まることしかできなかったのだった。