-2 『前世の記憶』
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ナターリア=ラスケス。
ラスケス家の一人娘として生まれ、過保護なまでに両親から愛情を受けて育ってきた少女だ。遥か昔に公爵の位を与えられてからというもの、家も国で一二を争うくらいに裕福だった。
ラスケス家がそれほどに恵まれていたのは、かつてこの国が作られた時に一緒に王族と共に尽力したかららしい。それほどに由緒ある家系であり、故に同じ貴族の間でも序列は結構高い方だった。
しかしその功績に比べ、近年のラスケス家は目覚ましい功績を得てはいなかった。かつての栄光をいつまでも袈裟に着て、態度だけは一丁前だが、何もせずに贅沢の限りを尽くすだけの日々。
陰でラスケス家のことを『養豚場』と蔑む人もいるほどだ。
国のためになることは何一つ行わない。けれど無駄に財力と先祖の威光だけはあるせいで発言力があり、自分たちの得することばかり言ってくる。高慢ちきな目の上のたん瘤。
国政を運営する者たちの中でも、彼らを疎ましく思うものは少なくない。
そんな両親のもとで育ったナターリアも、例に漏れず権高な性格をしていた。小さい頃からわがまま放題。食べ物は自分の好きなものしか口にしなかったし、手を伸ばせば届くような距離でも使用人を顎で使うなんて日常茶飯事。イラつく使用人がいればお父様に言いつける鶴の一声で簡単に辞めさせていたし、そのせいもあってみんなナターリアには過剰なほど甘やかす態度をとっていた。
けれどそれも当然。
ナターリアはあのラスケス家の娘なのだから。
ラスケス家がいなければ国はできなかったと言われていたほど。そんな名家のご令嬢をぞんざいに扱っていいはずがない。
ナターリアは成長するにつれてどんどんと態度が大きくなっていった。それと同時に、体の横幅も大きくなっていった。
たくさん食べては、動くことも面倒くさがる体たらく。十歳を過ぎたころには、まるで酒樽と思うくらいに寸胴な体型をしていたほどだ。
けれど両親はかまわず溺愛もいいところで、他に職を失う危険性を負ってまでわがまま放題な彼女に口出しをできる人もおらず、ナターリアは順調にすくすく、ぶくぶくと育っていった。
醜悪な豚女を飼う『養豚場』という侮蔑はある意味間違ってはいないと言えるだろう。
まさに贅沢三昧。
同じ貴族の子たちよりもずっと豪奢に生きてきた彼女だが、ある日、それは一転する。
国家転覆の容疑による両親の逮捕。そして処刑。
その直前くらいから両親は何やら忙しそうにしていたことは知っていた。けれどそれはまさか国家転覆をはかっていただなんて、当時十四歳だったナターリアは知るはずもなかった。
結果、私財もすべて没収。
ラスケス家の栄光は地に落ちた。
謀反は重罪だ。
それに、これまでさんざん自由奔放に暴虐無尽な振る舞いをしてきたせいもあって、彼女たちラスケス家を庇おうとする人も誰もいなかった。
宝石や家具などはすべて差し押さえられ、ナターリアを世話していた使用人たちもすぐにいなくなった。まあ当然だろう。これまで高飛車な振る前に煮え湯を飲んで堪えてきた人も多かっただろうから。
そんな時にやって来たのがエルク=シュナイゼル。
彼はこの国の第四王子だった。そして、私と婚約関係にあった。
ナターリアの両親が、より国への影響力を強めるために政略的な婚約を娘ばせたのだ。まだ年端もいかない頃に決められたそれは、ナターリアとしてはまったく実感のないものだった。事実、エルクと会ったことも数えるくらいしかない。
けれど結局、両親も国家転覆の罪で処刑。縁談なんて間違いなく切れているに違いない。
「きっと私も捕まえに来たのよ。エルクだったら私も警戒して逃げないだろうって思ってるんだわ」と危機感を覚えた
周りは敵だらけ。
両親を失って信用も何もかもも失ったナターリアは、同い年の幼馴染だったエルクの来訪を機に一念発起。思い切って逃げ出すことにした。
結果として滑落事故によって命を失ったのだけれど。
谷底に真っ逆さまに落ちていって、次に覚めたのは見知らぬ川の上。小さな木の船に乗せられて、気味の悪い赤い花が咲く川岸から、妙に眩しい後光が差しているぼやけた対岸の方へと進んでいる最中だった。辺りは霧がかっていて良く見えない。
「な、なによここ!?」
動転したナターリアが叫ぶと、船を漕いでいた顔も見えない人影が端的に言った。「お嬢ちゃんは死んだのさ」と。
「ええっ!? なによそれ! そんなの嘘よ!」
ナターリアは到底それを認めなかった。認めたくなかった。
まだまだやりたいことがある。いろんなものが食べたい。集めていた宝石をもう一度眺めたい。ふかふかのベッドで何度も寝ころびたいし、他にだって。
「イヤよイヤ! こんなのって絶対にないわ!」
「やれやれ。死んでもなおわがまま放題。嬢ちゃんはそんなに死ぬのがイヤかい?」
「当然じゃない! 死んだらもう美味しいものも食べられなくなるんでしょ。そんなのイヤよ、耐えられないわ」
「なるほど。そんな性格だから死んじまったって訳かい。人間の根っこってのは死ぬまで治らないっていうしねえ。難儀なもんだ」
船頭は呆れた調子でそんなことを言っていたが、ナターリアはかまわずに騒ぎ続けた。
「まだまだやりたいことがいっぱいあったのに。世界中のおいしいものを食べつくしたり、世界一綺麗な宝石を部屋に飾ってみたりして。みんなが羨むような生活を送りたかったのに。こんなところで死ぬなんて。せっかく貴族っていう最高の家に生まれて贅沢三昧できてたのに、終わりがこんなグロッキーな顔をしたよくわからないオジサンと黄泉の国への逃避行だなんて!」
こんな終わり方はイヤだ。絶対に認めない。
泣きわめくように手足をじたばたさせて暴れる私は、あの世への道中でも構わずわがまま放題好き放題。そしてついには、
「おいおい、そんな暴れるんじゃあないって……って、嬢ちゃん!?」
ついに船の縁を掴んで揺らしたりと暴れだした直後、ナターリアは手を滑らせ、「きゃあっ」と川の中へと落ちてしまった。ハムのように大きな巨体で暴れたせいだろうか。
泳げない彼女は船へと戻ることもできず、ただもがくように池の底へと沈んでいった。
――ああ、私本当に死ぬんだ。
その時ようやくそう実感したナターリアがふと気づくと、しかし自分はいつの間にか水から出て、呆然と地面に立ち尽くしていた。
気づけばそこには川もない。
どこかの木造りのちいさな部屋の中だ。
目の前には水が流されたままの蛇口が音を立てていて、その真上についた鏡には、まん丸に太っていたナターリアとは似ても似つかない細身の女性が映っていた。
状況がわからない。
どうして自分がこんなところに立っているのか。目の前の少女は誰なのか。
ふとナターリアは自分の顔を指で触れてみる。むにむにとした頬の脂肪が感じられない。それに目の前の少女も同じように頬を触っている。もう一方の頬も触ってみると、やっぱり目の前の少女も同じように触る。
鏡なのだから当たり前か。
イヤ、でもどうなってるのだろう。映っているのはナターリアではない。髪の色や年頃は同じだけど、明らかに別人みたいな顔をしている女の子だ。それに――ちょっと可愛い。
「お姉ちゃん、顔を洗い終えたんだったらさっさとどいてよ」
「え?」
鏡の隅っこからひょこりと顔を覗かせてきた幼い女の子がそう言ってきた。他に誰もいない。明らかにナターリアにだ。
――お姉ちゃん?
妹なんていなかったはず。ずっとラスケス家の一人娘として可愛がられてきたのだから。
けれどその女の子は何食わぬ顔で蛇口の傍に置いてあったタオルを手に取ると、はい、と手渡してきた。
「あ、ありがと……」
「顔も拭かずにぼうっとして。お姉ちゃんが寝ぼけてるなんて珍しー」
「えっと……貴女、誰?」
「へ?」
女の子が眉を顰めつつも目を見開いた様子で見てきた。
「何言ってるのよお姉ちゃん。そこまで寝ぼけちゃってるの? あたしは妹のマリーじゃない」
「まりー? じゃあ、私は?」
「お姉ちゃんの、リーズ。リーズ=バスケットでしょ」
大丈夫なの? とその女の子――マリーは心配そうに顔を覗き込んできた。
…………。
ああ、そうだ。
この子は『私』の妹のマリーだ。もうすぐ十歳になる、元気で活発な子。毎朝私に髪を結ってほしいとせがみに来る、懐っこい妹だ。私はいつも彼女の髪を、片側に尻尾を生やすように結んであげていたっけ。
そして私はそんな彼女の姉、リーズ=バスケット。
ずっと昔から仲が良くて、姉妹喧嘩もたまにあるけれど、仲良く暮らしてきた大事な家族だ。
それなのにどうして私には妹がいないなんて思ってしまったんだろう。なんか、頭の中がぐちゃぐちゃしてる。変な夢でも見てしまったのかな。
「お姉ちゃん。今日はパパの畑仕事手伝うんでしょ。もう外で待ってるから早くいないと」
「ああ、そうだったわね。ごめん、忘れてた」
「今日のお姉ちゃん、なんか変なの」
「うん、そうだね。なんか変みたい」
何かすごく大変なことがあったような気がするけど、きっと気のせいだ。悪夢か何かにうなされていたに違いない。
私が貴族だなんてあるはずがないもの。
憧れのせいで勝手に夢見てしまったのかも。
「――それにしても物騒な最期だったなあ」
「なにが?」
「えっ、いや。なんでも。それよりも、私もすぐに用意するからお父さんに『今行く』って言ってきて」
「はーい」
そうだ。
私は農家の両親を持つ二人姉妹の長女。リーズ=バスケット。
――じゃあ、ナターリアって誰?
私はその疑問を深く考えず、ただの夢の中に出てきたものだと思い込んだのだった。
そう。
もう一度記憶が戻るまでは。
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