2-1 『入学』
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「ほら、襟が曲がってるわよ。ちょっと見せなさい」
「別に大丈夫よ、お母さん。それくらい気づかないって」
「ダメ。今日から貴族様たちと同じ学び舎に通うんだから、恥ずかしくないようにしないと」
朝方、お母さんは私を姿見の前に立たせていた。そこに映るのは、セントエルモス学院の女子制服をめかしこんだ私の姿。お母さんはその中の私と目が合うたびに、嬉しそうに口許を綻ばせていた。
今日はいよいよ入学の日だ。
学院は全寮制で、大きな荷物などはすべてもう部屋に送ってある。家から近いので休みの日になればすぐ帰ることはできるが、ひとまずは実家ともお別れだ。
娘を送り出す喜びからか、お母さんはいつになく優しく、それでいて名残惜しそうに私の支度を手伝ってくれていた。
「粗相のないようにするのよ」
「大丈夫だいじょうぶ」
「勉強もしっかりね」
「わかってるわ」
「あと、お友達とも仲良く――」
「しつこいわよ、お母さん」
私が苦笑を浮かべながら言うと、お母さんは頬に手を当てて眉を顰めた。
「だって心配なんだもの」
「そんなに頼りなく見えるかしら?」
「そうじゃなくて。たとえどんなでも、娘のことは心配なの。それが母親というものよ」
「母親……」
ふと、前世の母のことが頭をよぎった。けれどどうしてだろうか。あまりしっかりと顔を思い出せない。もう忘れてしまったのか。
――母親にこんな風に言われるのは初めてかも。
ちょっとした新鮮さがあった。
私は力強く顔を持ち上げる。
「もう大丈夫よ。それじゃあ、行ってくるから」
「ええ、行ってらっしゃい」
「お姉ちゃん、いってらー!」
マリーも見送りに出てくれて、私は温かい視線を背中に受けながら、これから新生活を送るセントエルモス学院へと出発したのだった。
学院は校舎の外見こそは歴史を感じさせる古びた印象だが、その細部には豪奢な燭台などが飾られていたりと、貴族が通う学校らしく派手さが目立っていた。
そこに行き交う生徒たちも、制服の上品さもあってとても優雅な上流階級という雰囲気を醸し出していた。やはり貴族と平民は違うものなのだ、と目でわからせてくるようだ。
私も『ナターリア』として暮らしていた頃は普通だったが、一度農民の娘として育ってみたら如実にわかる。彼らの言葉遣い、立ち振る舞い。そのちょっとした機微からも、どこか華やかさが伝わってくるのだ。
「まるで浮いてるわね、私」
貴族たちの中でぽつりと佇む私は、髪はぼさぼさ、手も農作業などで荒れていて田舎娘感が丸出しだ。ナターリアのままだったら自然に溶け込んではいたのだろうが。
――むしろ田舎娘として目立たないのは好都合かも。派手じゃなければ誰も私に声をかけようとも思わないでしょうし。
事実、すでに貴族の生徒たちは既存のコミュニティーができているようだ。セントエルモス学院は小等部から高等部まである。前世の私は家から出たくなかったから家庭教師で済ませていたが、貴族の半分ほどはこの学院に通うのが普通だ。
貴族というだけで小等部に入れ、そこからはエスカレーター式に進級していく。私たち庶民のような厳しい試験もない。そのため、昔なじみの仲良しグループが既に貴族間でできあがっていることがほとんどだった。
――変に慣れあうつもりもないし。、私としては好都合。さっさとこの三年間という就労を終えて、輝かしい未来へと飛び立つのよ。
無駄に態度だけ尊大そうな貴族の陰に隠れていれば、面倒ごとも少なくなるだろう。
そう思っていた私の後ろから、のそりと近づいてくる人影が一つ。
「おはよう、リーズ」
「エルクっ!?」
いつの間にか、同じ学院の男子制服に身を包んだエルクが手を振って近づいてきていた。
びっくりした私はつい素っ頓狂な声で振り返ってしまった。そのせいで周りの貴族生徒たちの視線がこちらに集まってしまう。
「誰、あの子。どうしてエルク様と親しくしてるの?」
「あれ、平民試験で来たやつだよな。第四王子とどんなつながりがあるんだ?」
ひそひそとそんな声が聞こえ始める。
さっきまで無関心だったはずの貴族生徒たちの注目を一瞬で集めてしまっていた。
「ち、ちょっと! 気安く話しかけないで」
「え? どうしてだい」
「私は目立ちたくないの」
「そんなつもりはないのだけど」
「貴方になくても、そうなっちゃうのよ」
あ、そうだ。と私はふとひらめいた。
エルクから遠ざかりたいのなら仲を悪くすればいい。
「そんなこともわからないなんて馬鹿じゃないの? 自分の立場わかってるのかしら」
「ははっ。これはこれは、随分な言われようだね」
試しに強く言ってみたけれど、思ったよりもへらへら笑って流されてしまった。
「い、いい? 私は、ちょっと身分が良いからって貴方を特別扱いしたりしないから。言いたいことは好き放題させてもらうわ」
「そっか。でもまあ、どのみちこの学院の中では僕の同じ生徒だから。同級生として、これからよろしくね」
――よろしくしたくないって言ってるのよ!
本音をかみしめつつ、しかし衆目が集まっている中でそんな喧嘩を売るようなことを言うのも悪目立ちしかねない。
これから三年間、私の前世を知るエルクと一緒に過ごさなくてはならないなんて。ナターリアの生死はまだはっきりとはしていないのだ。生まれ変わったとはいえ、もし私がそうだと気づかれたら大変だ。
処刑にならないためにここに来たのに、処刑に自分で近づいている気がする。
――ここに入学したのは失敗だったかしら。
いまさらな後悔が私に押し寄せてくる。
そんな傷心気味の私は、ふとエルクの後ろから顔をひょこりと覗かせた少女を見て目を見開かせた。
「あら、クルシュ!」
後悔に満たされていた私の心が一瞬にして洗い流されるように明るく輝く。
「こんにちは、リーズさん」
「貴女もここに?」
「はい……中等部に」
「あら~、そうだったのね!」
にへら、と私はついつい口許を緩めてしまう。
「女の子の制服を着てるのね」
「あの……変ですか?」
裾を握りながら不安げに訪ねてくるクルシュ。
「すっごく似合ってるわよ! ただ――」
クルシュの制服姿をなめるように上から下まで見回した私の中で、ぴかり、と何かが目を光らせた。
「もうちょっとスカートの裾は下にするべきね。クルシュの足は細くて白いから見せるのもいいけれど、私的には清楚、純心潔白な少女てイメージだわ。下手にはしたなさを見せる安直さより、硬派に視線をガードして、その先を見たいのに決してたどり着けない乙女の園のようであるべきなのよ」
私は饒舌なまでに興奮した様子でクルシュへと詰め寄ると、そう言って彼女のスカートの長さをややずり下ろすように弄っていった。ウエストベルトのところを折り曲げていたので、もっと長さが出るように無理やり戻す。
「ひゃっ。リーズさん、こんなところで……ダメですっ」
周りの視線を気にしたのか、気恥ずかしそうにクルシュが顔を赤らめる。
――そ、そういえばみんなが見てる場所だったわ。
すっかり自室でお人形遊びでもしているような気分だった。
なんだろう。
すごく悪いことをしているような気がしてきた。
謎のドキドキ感と申し訳なさが私を襲った。
「リーズと一緒でクルシュも喜んでいるよ。これから仲良くしてやってほしい」
「ま、まあ。エルクはともかく、クルシュはそうしてあげる」
「ははっ。僕には相変わらず厳しいね」
「そう言いながら楽しそうに笑うんじゃないわよ」
変態なの? と突っ込みたくなる。
入学初日からエルクと出会い、こんな親し気な会話までしてしまって。ひっそりと暮らすはずだった私の計画はさっそく台無しだ。しかも、私を処刑に導く最悪の青年と一緒の学園生活だなんて。
これからうまくやっていけるのかしら、と私は不安を募らせながら、目の前の可愛いクルシュを存分に愛でて撫でまわしたのだった。




