第二節 小さな会社の現実
錆びた鉄の匂いが、学生気分を拭い去る。
怒鳴り声や一円を巡る押し問答が、嫌でも耳に入ってくる。
ここでは、僕が勉強してきたことは、何一つ役に立たない気がした。
教科書に答えがある問題集とは違う。
ここには、生活がかかった人たちの生きた問題があるだけ。
どこにも答えはない。
黙っていれば、不況の波に飲まれるだけ。
誰も助けてはくれない。
「生きるためには手段を選んではいられない。」
僕がいつも、社長から聞かされる台詞だ。
僕の席は社長の隣で、いつも小言をBGMにしていた。
客を見て値段を決める。
社長はそう言い切っていた。
だから、社長の口から出る嘘や方便を、僕は仕事をしながら黙って聞いていた。
僕が入社にあたって約束させられたのは、誓約書の提出でも就業規則の遵守でもない。
「俺の背中を見ろ。そして、余計なことは喋るな。」
それだけだった。
そんなに人と喋るのが好きではない僕は、会社の中でも静かにしていた。
僕の周りでは、入れ代わり立ち代り社員が来ては、愚痴をこぼしていく。
Tシャツ一枚で、現場と事務所を往復する社長の姿も、僕は横目で見ていた。
黙って仕事をしている僕に、声を掛ける社員は少数で、僕の存在は極めて透明だった。
最初は商談をする場所を選んでいた社長も、次第に僕の目の前で堂々とするようになった。
僕の口が堅いことを知って安心したのだろうか。
次第にシビアな話を、僕に聞こえるような声で話すようになった。
プレハブ小屋は、学校の教室と違って、本当に暑い。
4月の上旬はまだいいほうで、ゴールデンウィークの頃からは、一気に直射日光がきつくなる。
盆も正月も休みもほとんどない職場に、僕はようやく慣れ始めたけれど、暑さだけは我慢できない。
ネクタイにスーツで頑張ってきたけれど、周りを見れば繋ぎの男ばかり。
一応新入社員としては、スーツは欠かせないと思ったけれど、さすがに汗が止まらない。
「お前、いい加減ネクタイ外したらどうだ。」
見るに見かねた社長は、僕のネクタイを掴むと、そのまま首筋から引き抜いた。
やはり、スーツを着て仕事するような場所ではなかった。
社長にも怒られたけれど、社長は笑っていた。
ネクタイを取って、Yシャツの第一ボタンを外した。
首筋から体温で暖められた蒸気が拭き出した。
代わりに、生暖かい風が、体の中に吹き込んでいく。
服の中の温度に比べたら、まだ外の風のほうが涼しい。
冷房でもないのに、こんなに涼しい風を体験したのは初めてだった。
「ほら、使えよ。」
まっさらな白いタオルと団扇を、社長が手渡してくれた。
お礼を言って、早速使わせてもらうと、顔拭いたタオルは脂汗で茶色く変色していった。
次の日から、僕はTシャツにジーパンで通勤することにした。
何だか遊びに行くような格好だけれど、洗濯やアイロンの手間が省けて助かった。
プレハブ小屋の事務所に入ると、社長は驚いた表情をしていた。
「なんだ、急にこの場所に染まったな。」
そう言うと、また目の前の帳簿に目を落とした。
会社を動かすというのは、とても大変なことだった。
給料を払って、役所に手続きをして、収支を合わせる。
今までアルバイトはしたことあるけれど、給料は口座に振り込まれていた。
いつも数字を確認するだけだったけれど、それは誰かが振り込む仕事をしていたということ。
僕はようやく、社会の仕組みの一部を知った気がした。
お金は天から降ってくるわけではなく、誰かの努力で動いていることを。
給料とか、休みとかは別にして、ここで仕事をしてよかったと思えた。




