さいはてエレジー
その日、雄一はレンタカーで能取岬へ向かった。
流氷が来た、というニュースがテレビで流れたからだ。
(いつか流氷を見に行きましょうね)
新婚旅行で行った小樽の町で買ったガラスのイヤリングを着けながら、妻の律子は言っていた。出来れば能取岬がいいな、ネットで見たんだけど綺麗なのよとも。
耳元で揺れる、鈴蘭の花をモチーフにしたガラス細工のイヤリングは、雄一から見ると妻には少し幼すぎる気がしなくもなかった。が、屈託のない笑顔の彼女にその儚い少女趣味のガラス細工は決して似合っていなくもなかった。
(律子)
雄一は心の中で呼びかける。
(流氷だよ、律子)
連れてきてやれば良かった、そんなたいそうなことでもなかったのに。
連れてきてやれば良かった、ちょっと決心すれば来れたのに。
(俺は……)
後悔ばかりしている。
律子と出会ったきっかけは人の紹介だ。
年上既婚の同僚に、そろそろ身を固めたらどうだというニュアンスで紹介された。彼の旧友が勤める会社のOLで、今どき珍しい真面目で大人しい娘さんだという触れ込みだった。連れて歩くには華がないかもしれないけれど、いい奥さんになりそうな子だよ、とも。
確かにそんな女だった。よく見ると清楚な感じに整った顔立ちだったが、大人し過ぎるせいか特別印象に残らない。ただ、何かの拍子に笑うとはっとするほど可愛らしかった。
くせのなさそうな性格のようだし、必要最低限のあれこれも問題なく出来そうな雰囲気だ。家庭に置いておくのにいい人材……つまりいい嫁さんになりそうな女だった、やや退屈かもしれないが。
雄一はその頃、三十六の手前。律子は三十だった。
こんな『いい奥さんになりそうな子』が、どうして三十まで縁が遠かったのか雄一は少し不思議だったが、わからなくもない、気もした。
律子は確かに悪くない。が、それ以上でもない。家庭を任せるのにはいい人材だが、三日一緒にいればあくびが出てきそうな女だ。是が非でもこの女をものにしたい、と、男に思わせるような女では決してない。
だが雄一自身も決して贅沢を言っていられる身分ではなかった。
大した学歴や職能もない、中堅メーカーの社員というだけの男だ。
付き合った女もいなくはなかったが、結婚したいと思うほどの女には出会わなかった。そうこうしているうちに彼女いない歴を更新するようになり始め、気付けば三十路も半ば、このままひとりで老いてゆくのも寂しいなと思い始めた。ならばこの辺で手を打つかと思ったのが、たまたま律子だった。
結婚しようと雄一が言うと、律子は恥ずかしそうにはいと答えた。お定まりのあれこれを済ませ、簡素な結婚式を挙げて一緒になった。
喜びというよりも、これで安心してジジイになれるとでもいう安堵が大きい。それが雄一にとっての結婚だった。
律子は不思議な女だった。
実は雄一は、律子が何が楽しくて生きているのか、結婚して一緒に暮らすようになってもよくわからなかった。
律子はいつも優し気なほほ笑みを絶やさず、そつなく家事をこなす。
大抵の料理はファミレス程度には作るし、さすがにプロのハウスクリーニングにはかなわないだろうが、きちんと掃除も整頓もするし洗濯も上手だ。
金の管理も問題なかった。決して多いとは言えない雄一の給料の範囲内で、律子は上手にやりくりしているようだった。無駄遣いをしない女で、律子自身もパートに出たりしながら、少ないながら毎月貯金もしているようだった。
実に……当たりの嫁さんだ。人からもそう言われるし、雄一自身もそう思わなくない。
が、正直な話、雄一は律子を愛してるとは思えなかった。
有り難いとは思っている。感謝もしている。……それだけ。故障もトラブルもなくガンガン動く、優秀な家電製品に当たったような幸せは感じる。『家庭』というものを維持管理するのに非常に都合のいい道具に当たった。でも、それが律子である必要は全くない。
我ながら冷たいなと、さすがに雄一も思わなくはなかった。
しかし律子の態度を見ていると、それで十分な気もした。こいつは本当に人間なのかとすら、時々雄一は思った。
律子は実に要領よく、するべきことをこなす。しかしそこにそれ以上の喜びはない。ない、ようにしか見えない。私だからここまで出来るのよと誇ることももちろんない。まるでプログラムされた通りに動いているだけ、という感触なのだ。
身体を重ねていてもそんな感じがする。別に鈍いとは思わなかったが、反応が通り一遍のような気がしなくもなかった。こちらも『こういうときはこうします』というプログラムで動いているような印象で、行為の途中で萎えそうになったこともある。
不満はない。が、喜びもない。
灰色の平坦な道がひたすら、延々と伸びている。
道の先に目的はない。果ては断崖絶壁で、そこへ落ちる時が死ぬ時。
それが雄一の、律子との結婚生活の心象風景だった。
だから。
雄一はマリッジリングをなくしてしまったのかもしれない。
もちろんわざとではない。プラチナ製のそこそこ高価なものだ。
うざったくないかと聞かれると返答に詰まるが、捨てたいほど切実に重くも煩わしくもない、まるで雄一の結婚生活のような指輪だった。
結婚して一年ほど経った頃だった。
その日、仕事で大きな機械を操作する必要があり、手を保護する皮手袋をした。脱ぎ剥ぎする度に手袋が指に引っかかるような感触があり、うっすらと、まずいな指輪が引っかかって外れそうだなとは思った。が、ついついそのままにしてしまった。
終業時間になり、ロッカールームへ着替えに行って初めて雄一は、左手の薬指から指輪が消えているのに気が付いた。
さすがに青ざめた。
工場へ戻り、機械の周りや床、壁際、脱いだ皮手袋の中はもちろんゴミ箱の中まで、かなり時間をかけて探した。
しかし見つからなかった。
小さいとはいえそれなりに存在感も重みもあった雄一のマリッジリングは、跡形もなく何処かへ消えた。
さすがの律子でも怒るだろうと、雄一はおそるおそる家へ帰り、事の顛末を話して律子へ謝った。
律子の顔から表情が消えた。息を詰めるような気分で、雄一は妻の顔色が変わるのを待った。泣かれても罵倒されても仕方がないと思っていた。
しかし律子は笑った。少し寂しげではあったが優しい笑みだった。
「残念だったけど……」
律子は考えつつ、言う。
「ほら、昔から、指輪とかの装身具はお守りだ、みたいなこと言うじゃない。指輪はきっと、雄一さんが大怪我をする身代わりになってくれたのよ」
雄一さんが無事だったんだから良かったわ、律子はそうも言って笑った。
雄一はほっとして……同時に鼻白んだ。
なんなんだ、この優等生的な答えは。
ひどい、結婚指輪なくすなんて最低。結局私のこと、愛してないんでしょ。
過去に付き合った女ならそんな理屈にもならない理屈を言って、雄一を責めただろう。そういう飛躍した理屈に付き合うのが嫌で、今までの女たちと別れてきたようなところはある。が、そういう理不尽さを含めて雄一は、彼女たちを愛しく思っていたのだ、今思えば。
雄一は出来過ぎた妻の優し気なほほ笑みを、茫然と見た。
薄気味が悪かった。
その後しばらくして、律子が妊娠していることがわかった。
子供は、いないよりいた方がいいと雄一も思っていたから、妻の妊娠は想定外では決してなかった。
が、これでいよいよ、この薄気味の悪い優等生の妻と断崖絶壁から落ちる日まで一緒に生きてゆくことになるのか、と、目の前が暗くなるような気分でもあった。
律子はいそいそとベビー用品を見に行くようになった。男の子かしら女の子かしらと笑う妻の笑顔は可愛らしかった。雄一の心もふと、その笑顔にほだされかけた。
が、次の瞬間、やはりこれも『子供を身ごもった母』のプログラム通りの反応ではないかと思うと、背筋がぞっとした。
しかし律子の笑顔は長く続かなかった。
稽留流産、と診断されたのだ。おなかの胎児は育たない子だと。
医師の勧めで手術を受け、律子の顔から笑顔が消えた。
寒い時期だった。ちょうど決算前の時期でもあり、雄一も忙しくて遅くなる日が続いていた。
律子が落ち込んでいることはさすがにわかっていたが、医師から『稽留流産』は健康な女性でも5回に1回くらいは有り得ることで、次からの妊娠には影響ないことは聞かされていた。律子のことだからそのうち気持ちを切り替えるだろうと、雄一は簡単に考えていた。
そして……律子には言えなかったが。
子供が駄目になって、雄一はちょっとホッとしてもいた。
この薄気味の悪い女の産む子を愛する自信が、正直な話、雄一にはあると言い切れなかった。
ある日雄一が帰宅すると、珍しく律子が寝込んでいた。
米を研いで炊飯器に仕掛け、具沢山の味噌汁は作ったがそれ以上は何も出来なかった、と、だるそうに大きく息を吐きながら律子は言った。熱が結構高そうだ。
「風邪だと思うんだけど」
「いいよ、寝てろよ」
雄一は言い、炊飯器のスイッチを入れて飯を炊いた。温め直した味噌汁と冷蔵庫にあった常備菜などで、その日の夕食を済ませた。
そしてそれから間もなく、律子は死んだ。
その夜のうちに容体が急変した。
慌てて救急車を呼んだ時には、すでに意識がなかった。
多臓器不全だと言われた。
稽留流産を処置する為の手術を受けたがその影響ではないか、と、雄一は救急病院の医師へ詰め寄るように問うたが、直接の影響はまず考えられないと素っ気なく言われた。
「風邪は万病のもと、と昔からよく言われますよね?」
医者は他人事だからか、淡々と言う。
「お気の毒ですが、奥さんは運が悪かったのですよ」
運が悪かった。
そのあまりにも取り付く島もない言葉に、雄一はただ茫然とした。
ぞんざいに脱ぎ捨てた皮手袋から、銀色のマリッジリングが音もなくこぼれ落ち、何処へともなく転がって……消える。
そんな映像が見えた気がした。
茫然としたまま葬式をする。
右も左もわからないまま雄一は喪主を務め、右も左もわからないまま律子を荼毘に付した。
茫然と骨上げに向かう。
顔があった場所に、黒くすすけた小さな塊がこびりついていた。
律子がよく使っていた、あの鈴蘭の花をモチーフにしたガラスのイヤリングのなれの果てだった。気に入っていたようだから着けてやったのだった。
それを見た途端、雄一の目から涙が噴き出した。
思えば、優しい言葉ひとつ満足にかけてやらなかった。
花ひとつアクセサリーひとつ、ろくに買ってやらなかった。
あのガラスのイヤリングも新婚旅行のどさくさに、ふっと魔が差したみたいに気まぐれで買ってやっただけだ。ちょっと可愛らしすぎないかな、と言いながらも、嬉しそうに律子は笑った。
(律子、律子……)
すまない。すまない。
優しくて大人しいお前に、結局俺は甘えていた。
文句も言わずついてきてくれる、放っておいても尽くしてくれると、頭から思い込んでいた。
(お前のことを人間じゃないみたいに思っていたけど)
人間じゃなかったのは俺の方だった。
律子ときちんと向き合わなかった。
律子が何を望んでいたのか、流産がどれほどつらく寂しかったのか、まったく知ろうとしなかった。知ろうとしないまま、俺はお前を死なせてしまった。
(いつか流氷を見に行きましょうね)
そういえばちょいちょい、律子はそう言っていた。新婚旅行で行った北海道が気に入ったからだろうと簡単に考えていたけれど、もしかするとそれだけじゃなかったのかもしれない。流氷に、律子は律子なりの思い入れや夢があったのかもしれない。あったのかもしれないけれど……もう永遠にわからない。
「雄一」
「雄一さん……」
両親と義親が声をかけてくる。雄一は涙をぬぐい、震える手で骨を拾った。
やけにがらんと広くなった部屋で、雄一は気の抜けたように暮らす。
時々、小さな革袋から律子のマリッジリングを取り出してぼんやり眺めた。
今更ながら、その小ささに胸が詰まる。
そっと指にはめてみる。当然雄一の薬指には入らない。小指にはどうにか入る。自分の小指に、もういない妻のマリッジリングをはめ、雄一はまたぼんやりする。
指がむくんで、と、熱を出した日の朝、これを外して革袋へ入れていた。おそらくその時から律子は具合が悪かったのだろうが、雄一は気付かなかった。
(言ってくれれば良かったのに)
ついそんな恨みがましい気持ちになるが、たとえ律子があの日、具合が悪いと言っていたとしても、親身になってやらなかっただろうこともわかっていた。せいぜい、寝ていろとか医者へ行けとか通り一遍のことをおざなりに言って、さっさと出勤していただろう。
(すまない……)
もう何十回も雄一は、その言葉を心で繰り返していた。
いくら繰り返しても、決して相手には届かない言葉だった。
その日、雄一はレンタカーで能取岬へ向かった。
流氷が来た、というニュースがテレビで流れたからだ。
車から降りる。ここから先は歩いてしか行けない。
岬の先端には灯台が見えた。そこへ至る灰色の平坦な道が伸びている。
息を吸い込むのもためらうような、キーンと音がしそうなほどのすさまじい寒さだ。刃のような冷気が鼻から入って肺を突き刺す。思い出したように吹きすさぶ、強烈な寒風に脚がよろめく。美しい景色は容赦のない世界にしかないのか、と、雄一はふと思った。
道なりにしばらく進み、足を止めた。
右手に広がるオホーツク海を眺める。鈍色の空と海の間に、白い氷の群れ。あたたかみ、というもののまったくない世界。今の雄一に相応しい。
コートのポケットを探り、小さな革袋を取り出す。分厚い手袋の指先を口でくわえて引っ張り、左手だけ脱ぐ。革袋からそっと律子の指輪を取り出し、かじかむ左のてのひらに乗せる。
そしていつもしているように、指輪を左手の小指にはめた。
「雄一さん」
聞く筈のない声が雄一の名を呼んだ。驚いて顔を上げる。
律子がいた。律子だった。
新婚旅行の時に着ていた桜色のワンピースに、あの鈴蘭のイヤリングをしていた。
「律子」
茫然と名を呼ぶ。
幽霊、だろうか?幽霊だろう。律子は死んだんだし……この凶悪なまでの寒さの中、普通の人間があんな薄着で平気な訳はない。
だが不思議と怖くはなかった。懐かしくて愛しい者と思いがけず出会えた喜びしか、雄一にはなかった。
「律子、律子……」
馬鹿のように妻の名を呼び、雄一は駆け寄って抱きしめた。桜色のワンピースに包まれた律子の身体は、生きていた頃と何も変わらないようにしか感じられなかった。
「すまない、すまなかった。俺が悪かった。死なれて初めて、お前がかけがえのない存在だったって気付いたよ。馬鹿だった。本当にどうしようもない馬鹿だよ俺は……」
「流氷、見に来てくれたんだ」
雄一の腕の中で、律子は少し恥ずかしそうにそんなことを言う。
「ああ。流氷を見に行きたいって言ってただろう?お前が生きてる時に行けばよかったのに、やっぱり俺は馬鹿だ」
「もういいのよ、雄一さん。あんまり自分を責めないで」
変わらぬ律子の優しい言葉に、雄一は思わず涙ぐむ。
「お前は……どうしてそんなに優しいんだ。お前があんまり優しいから、俺はつい甘えすぎてしまうんだよ。馬鹿とかひどいとか、言ったらいいのに」
律子は不意に雄一の腕をほどき、離れた。哀しい顔だった。
「そうかもしれないわね」
諦め切ったような目で律子はため息をついた。
「でも言えないんだから……仕方ないでしょ?たぶん私はすごく欲張りなのよ。欲張りだからかえって、そういうことが言えないんだと思うの」
「お前が欲張りな訳ないじゃないか」
雄一は言い募る。
「お前はいつもいつも、自分のことは後回しにして俺のことを考えていたじゃないか。自分の欲しいものを後回しにして俺のものを買ってたじゃないか」
そういうことじゃないんだけど、と律子はつぶやき、ゆっくりときびすを返す。
「待て!何処へ行くんだ」
焦って雄一が訊くと、律子は振り返ってあやふやに笑った。
「行くな。行かないでくれ。幽霊でも何でもいいから、俺のそばにいてくれよ。愛している、愛しているんだ、律子!」
律子は行く……逝く。永遠に。
涙が噴き出す。すさまじい喪失感に、雄一は気が狂いそうだった。
「生きている時にそれ、言ってほしかったな、雄一さん」
苦笑いをまじえるように律子は言った。
「ああ、まったくだな。でも生きている時は、たとえ思っていてもなかなか言えないものだよ、言おうと思ったらいつでも言えると思ってたし」
涙でぐしゃぐしゃな顔で言い訳を続ける雄一へ、律子はもう一度あやふやに笑い、きびすを返す。
「待ってくれ、行かないでくれ!」
叫び、雄一は律子を追って必死に抱きしめた。
「愛してるよ、百回でも千回でも言う。頼む、だから行かないでくれ!」
「私は死んだ人間なのよ、雄一さん」
腕の中で律子は、くぐもった声でそう言う。
「死んだ人間に愛を誓うって……どういうことなのかわかっているの?」
途端に、痛いほど冷たい水の中へ身体が落ち込んだ。息を止めたが間に合わず、口の中へ苦くて塩辛い水が飛び込んでくる。心臓が縮み上がるのを、雄一は生まれて初めて体感した。
揺らめきぼやけた視界の中、少し離れたところで律子は、やはりあやふやに笑っていた。
ぞわっとした。生前の律子に感じていた、薄気味の悪さを不意に思い出した。
(つまり。憑り殺されるということか?)
早まった、とでもいう後悔の念がかすめた。
その刹那だった。
律子は、ひどくひどく哀しい顔をした。
彼女はついと手を伸ばし、雄一の左手小指から指輪を抜き取った。揺らめきながら水底へと落ちてゆく小さな銀色を、必死でつかまえた……までは覚えている。後の記憶はない。
次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
雄一は助かった。
そして……律子に見限られた。
律子は逝った。永遠に。
その半年後。
雄一は初夏の能取岬へ向かった。
色々な意味で健康を回復し、ようやく落ち着いて暮らせるようになった昨今だった。
レンタカーをパーキングに停め、外へ出る。
流氷の頃のようでは無論ないが、空気は冷たいし風も強い。
北国の短い夏が始まるのだろう。儚いが美しい緑が、辺り一面に萌え出ている。
雄一はジャケットのポケットから、あの小さな革袋を取り出した。
海に落ちて凍死寸前になりながらも、右のてのひらに握りこんで守った、律子のマリッジリングが入っている。
てのひらにコロンと乗った指輪は、小さいが意外と重く、冷たかった。
たぶん私はすごく欲張りなのよ。
そういうことじゃないんだけど。
律子の哀しい顔と一緒に、時折、雄一はその言葉を思い出す。
北の果てから流れ来る氷の群れのように、それはきしみながら雄一の胸を覆い尽くしてゆく。
(なあ……律子。お前は一体、何が欲しかったんだ?)
わかるような気もするが、結局わからないだろう。
(俺を、なぜ殺さなかった?)
要するに殺す価値すらない。
そういうことなのだろう。
あるいは、雄一に生きてほしいという律子の優しさなのかもしれないが、そんなおめでたい期待だけで完結し、思考停止は出来ない。
律子の優しさの下には、冬のオホーツク海にも似たすさまじいものがある。
(あの流氷の海から逃げず、命がけで律子を抱きしめていたら……)
今の能取岬のような、明るい緑が律子の心に萌え出たのだろうか?
律子のマリッジリングを、雄一は左手の小指にはめてみた。かすかに期待してたのだが、当然ながら律子は現れなかった。
(もう取り返しはつかないけれど……)
「愛してるよ」
お前に実感させてやれなかったけれど。
俺は俺なりに、お前を愛しているし、これからも愛する。
一生をかけて。
この指輪は、もう外さない。
「愛している」
魂の奥に流氷の海を抱く、寂しいお前を。
雄一はきびすを返した。
灰色の平坦な道が、はるかな果てまで続いていた。
【おわり】