手に入れたモノと失ったモノ
これは『べた恋』企画参加小説です。
快晴の空、涼しげな緑、それを写す湖。そんな数少ない自然豊かな土地で過ごす少年が一人。それが俺、盤土 戒。ただ、今はそんな景色をゆったりと眺めている時間はない。今は必死だ。
汗をだらだらと流して、人をひょいひょいと避けて、まるでスポ根マンガのように俺は全力で道を走っている。涼しげな春の気温では考えられない尋常ではない汗の量。なぜこれほどまでに必死に走っているか。その理由は簡単。遅刻寸前だからだ。ただ、中学生の俺には日常茶飯事なのでもう大丈夫。慣れっこだ。この時間帯なら多分余裕だ。
ふぅ、と一息つく。
家からの道のりをずっと走ってきたため、息は絶え絶えだった。ここらで一つ休憩を入れよう。
それにしても、まったく、春というのは困ってしまう。どうにも朝、布団から出れない。まぁ冬の名残なのだが。そんな名残惜しさに負けて、いつもギリギリに登校している俺は、典型的なダメダメ中学生だ。それでも遅刻はしたことがない。確信はないが。
ふと、時計を見てみる。そろそろ走らなきゃな。そう思って学校に向けてラストスパートをかけようとしたときだった。
いつもの角だ。大したことはない。ただ右に曲がるだけ。
しかし。
そこに人間が現れては予想しようがないだろう。
そこには人間らしき影があって――
「うわっ」
「きゃっ」
思いきりぶつかってしまった。思わず尻餅をつく。どうやら向こうも尻餅をついたらしい。
「いててて……」
そう言いながら起きあげた体は、すごく華奢に見えた。しかしそれは、女の子だったかららしい。同じくらいの年の女の子が、そこにはいた。だが、その横にいる人は明らかに普通じゃない。漆黒の服に、キッチリとしめられたネクタイ。さらにはスキンヘッドでグラサン。……マフィアですか?
「貴様、お嬢様に向かってぶつかるとは、なんたること!」
話し方と見た目、全然合ってなかったが、そこはあえてツッコまず、会話を相手に合わせることにした。
「いやあの……なんかごめんなさい」
俺がそう言うと、お嬢様と呼ばれた女の子は、スカートについた砂を手で軽く叩いて立ち上がった。綺麗な金色の髪が風に揺れる。その服は……制服、だろうか。どこかで見たことがあるような……ま、いいか。そんな感じでその女の子を観察していた俺だったが、そんな俺を見て、女の子は俺を睨んで一言。
「ふん」
鼻で笑われた!?
『ふん』って……口に出さなくても良くね!?
というツッコミをしては横の黒い人に怒られそうだったので、露骨に嫌そうな顔だけしておいた。
その態度に気づいたのか、気づかないのかわからないが、まだ女の子はこちらを睨み付けたままである。
………………
…………
……
気まずっ。
妙な雰囲気に呑まれそうな俺だったが、次に発せられた女の子の声ですぐに戻った。
「もう行くわよ」
黒い人は、こちらを一度だけ見たが、静かにまた歩き出した。
何が起こったのかよくわからない俺は、暫くぽけーっとしていたが、時計を確認し危険を察知して全速力で走り出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
暖かい春の陽気によって作り出された、まさに『ぽかぽか』という言葉が最適と言えるような空間で、俺は今、格闘していた。眠気という名の強敵と。
こいつは突然やってきた。いや、実際、昨晩3時まで起きていたという時点でこいつがやってくるのは決まっていたことなのだが。
しかしここまで暖かいと、寝ない方がおかしい、という考えも頭をよぎる。まぁ、今朝はいろいろあって疲れたし、学校に遅刻しなかっただけでもよしとしよう。
ただ、まだ朝の会前ということもあって、教室内はやかましい。この3年2組教室は特にうるさいと校長先生に太鼓判を押されたほどだ。そんなにうるさいと、さすがに眠れない。別に友達と話していてもいいのだが、今はそんな気分じゃない。というか眠い。
だから、ちょっと手を枕にして眠ってみる。机は冷たくて気持ち良い。窓側の席だけに、風も多少くる。
――最高だ。いや、最高、ではないか。
静かなら、最高なのだが。
それにしても、うるさい。いつも以上にうるさい。やたらと、うるさい。しつこいようだが、うるさい。
なぜ今日に限ってこんなにうるさい? 俺を困らせたいか?
そんなひねくれた考えは、一瞬のうちに消え去った。
なぜなら、そのうるさい連中の中心に見慣れない影を見つけたからだ。
苛立つほどにわんさかといる人の群れの中心に、明らかに浮いている人間が一人。しさっきは見慣れないと言ったが、よく見ると一度だけ見たことが……
朝の、あのコだ。
いやそんなはずは。そう自分の考えを無理矢理直させようとしたときだった。頭の中に、あのコが着ていた服を思い出したのだ。どこかで見たことがあると思ったら、ウチの制服だったのか。さっぱり忘れてた。
俺の脳内でそんな回想が繰り広げられている時、ふとチャイムが鳴った。ガタガタとみんなが席に着いていく。ただ一人、いや二人を除いて。
一人はもちろんあのコ、転校生だ。
そしてもう一人は……マフィア、かな。なんであの人いるんだろ。つか先生かなりびびってるし。
しかしその人は、あのコの『お下がりなさい』の一声で教室を出た。……なんか映画みたいだ。
先生はマフィアっぽい人が教室を出たのを確認すると、すっと立ち上がり、態度を一変して教師らしい口調になった。
「えっと、それでは朝の会を始めようと思うが……その前に、ここにいる、新しい仲間を紹介しよう」
そんなありきたりなセリフを言い終わると、あのコを教台にあげさせる。すると、あのコは静かに自己紹介を始めた。
「伊集院 春歌と申します。よろしくお願い申しあげます」
やけに丁寧な自己紹介を終えると、ぺこりとこれまたやけに綺麗なお辞儀をする。そしてにこり、と笑顔を見せた。多分、大抵の男子はこれでイチコロだろう。しかし、俺は何だか妙に引っかかった。その笑顔が、作ったもののように見えて仕方がなかったのだ……。まぁそれも、朝のあのコを見たからだと思う。
ほどなく自己紹介も終わり、座る席はどこにするか、という話になった。俺はその時、とてつもなく嫌な予感がした……。なぜなら、俺の隣の席はうまいぐあいに空いていたから。しかし、他にも空いている席があった。1、2、3……確率としては4分の1。そして先生が指差した席は違う席であった。
良かった!
心からそう思った。隣になるとどうなるかわからなかったし、あのマフィアっぽい人がとてつもなく恐かったからだ。
ところがそれは、ぬか喜びになってしまった。なんと、俺に気づいた彼女は、俺の隣の席を指差し、『あそこが良いです』と言ったからだ。
わけがわからないが、先生も先生である。そのわがままを『別にいいよ』の一言で通してしまったから。これだから最近の子供はわがままに……まぁ俺も最近の子供なんだが。
そして結局、俺の隣に座ることになったお嬢様転校生は、『よろしく』と一言だけ言うと、ずっと表情変えることなく前を見ていた。
ただ一つ気になったのは、その表情が悲しそうに見えたことだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次の日、あのコはいきなり休んだ。
転校二日目で休むなんてかなり珍しい。
……病気だろうか。いやいや。なんで俺があんなヤツの心配しなくちゃなんないんだ。うんうん。どーでもいーや。
別に忘れれるしむしろいない方がいいや。そう思って、一日を過ごそうとした。
……のだが。
「おい、盤土。これ、答えてみろ」
あいつ……どうしたんだろ。
「盤土ー?」
まさか、ホントに病気とか……?
「かーい君?」
風邪でもひいたのかな……?
「盤土戒ぃぃぃ!」
「はい!?」
「お前は廊下に立ってろ!」
「え!? なんで!?」
「なんでじゃないだろうが!」
「え、あ、はい」
なんかわかんないけど…………。
伊集院、どうしてんのかなぁ。
……あれ。また俺あいつのこと考えてる。バカか俺は。忘れろ忘れろ。
ほどなくして、チャイムが鳴った。俺はまた自分の席に着いた。
だが、次の時間も、そのまた次の時間も、俺の頭から伊集院の姿が消えることはなかった。
なんなんだよもう。頭ん中から消えろっつーの! 大体、1日会っただけでなんでそんな記憶が深く刻まれてんだよ。早く消えてくれよ……。
それでも、あいつの顔が俺の頭ん中から消えることはなかった。しかも、いつも浮かぶのが1度だけ見せたあの寂しそうな顔。ちくしょー……なんだってんだ。
そしてやっぱり、5時間目も6時間目も伊集院のことばかり考えてて、怒られて。ついには帰りのホームルームにもぼーっとしていた。
ハッと我に返ったのは『さようなら』の号令だった。手に持った見慣れない紙。そこに書かれた女子のかわいい文字。……明日の連絡か? なんで俺が……
その時、さっきのホームルームの光景が頭に浮かんできた。
「おい盤土、伊集院に連絡の紙を持ってってくれないか」
「…………」
「嫌なら嫌と言え。何も言わないなら持ってけ」
「…………」
「ラスト・チャンスだ。5秒以内に嫌なら嫌と言え。言わないなら持ってけ。5、4、3、2、1……0。ハイ、持ってけよ」
「…………」
先生め、俺がぼーっとしてるのを良いことに……。
仕方ない、持ってってやるか。べ、別に行きたかったわけじゃねぇぞ。先生が行けっつーから仕方なく……。そう、仕方なく、だ。うん、そうだ。
そうして俺は今、『仕方なく』伊集院家の前に立っている。
ていうかさ。
ていうかさ。
おっきすぎるよ。
予想をはるかに上回るその屋敷に一瞬うろたえたが、勇気を出してその呼び鈴を鳴らす。
ピンポーン。
…………。
ピンポーン。
…………。
お留守?
こんな広い屋敷に誰もいないなんておかしい。そう思った俺は、裏側に回り込み、塀によじ登って中を見ようとした。しかし、それは必要なかったようだ。
「お母様のわからずや!」
こんな声が聞こえてきたからだ。はっきりとわかる。伊集院の声だ。
それに続いて、次は母親らしき人の声。
「何を言うの、春歌さん」
「見合いなんて嫌だって言ってるの!」
「これは許嫁と言って、もう結婚は決まってるの。只の顔合わせよ」
「だからそれが嫌だって言ってんのよ! 私には他に結婚したい人がいるの! もうすぐ来るわ!」
……え?
大体の流れは今の話でわかった。
許嫁を拒む娘と許嫁と結婚させようとする母親。テレビでよくある展開だ。そして、『私には結婚したい人がいるの』ってのもお約束。そこでキリッとした美青年が現れる。多分、来るのもかっこよくて性格がいいヤツなんだろう。そうに決まってる。俺なんてその枠にさえ……いやいや、何を考えてる。俺にはどうでもいいことだ。
さ、今日は帰るか。渡しづらい雰囲気だし。
まぁ正直あいつんちのことなんてどうでもいいんだよ。勝手にかっこいいヤツと結婚して子供生んで幸せに暮らしやがれって感じだよ。
なのに……
なのに…………
「ハァ……」
なんで、ため息なんかが出るんだろう。
どうでもいいさ。
関係無いよ。
忘れればいい。
そう考える度に。
そう言い捨てる度に。
あいつのあの顔が浮かんで。
どうでもよくなくなる。
関係あるって思える。
忘れたくなんてないって、思えるんだ……。
ああ、やっぱり俺変だ。とっとと帰ろう。
そうやって俺がさっき来た道を戻ろうとしたとき。あの人が、俺を呼び止めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
眩しいほどにゴージャスな内装。特に目をひくのは巨大なシャンデリアだ。その上の天井には天使の絵が描かれている。こんなのがある家なんて、滅多にない。もちろん、ここは伊集院家だ。そして、俺の横にいるのは、マフィア、もとい佐藤さんだ。
さっき、俺が帰ろうとしたとき。
「お待ちください、盤土様」
そう言って俺を呼び止めたのは、マフィアさんだった。
「ああ、マフィアさん。ちょうど良いところに。これ、伊集院のヤツに渡しといて下さい」
そう言って俺がそれを渡そうとした。しかしマフィアさんはそれを断ったのだ。
「私はマフィアではありません。佐藤です。そして伊集院春歌様のボディガードです。あと、それは、あなたが直接お渡し下さい。さぁ、こちらへ」
そんな感じで、入ってきてしまったわけだが……確か今、あいつは母親とケンカ中に違いない。いや、もう正義の味方の美青年が現れてケンカは終わってるかな。でもそんなのは、どっちでもいいや。
「こちらです」
そう佐藤さんに促されて、思考をやめる。何も考えずただぼーっとついていくと、そこは小さめの部屋だった。
「ここでお待ちください」
『応接室』と書かれたその部屋で、俺は何も考えず、静かに待っていた。時計の音が、大きく聞こえる。鳥の鳴き声も、はっきり聞こえる。こんな静なのは久々だ。でも――
やっぱし俺の性に合わないな。
そう考えた刹那、部屋の外がやけに騒がしくなってきた。
「だから春歌さん……」
「いいから来て! お母様!」
……ん? 伊集院の声か?
そう考える間もなく、俺がいる部屋に、綺麗な着物を着た伊集院が入ってきた。……着物、スゲー似合ってるや。そしてその横にいるのは、母親だろうか。こちらもやはり綺麗だ。ただ、眉間に少々シワが寄っているので美しい顔が少し崩れている。
俺がそんな感想を抱いていると、伊集院はつかつかとこちらに歩いてきて、こう言った。
「こいつ――いや、この方よ!」
なんだかよくわからないが、伊集院、人を指さしちゃいかん。そしてお母さんもゴミを見るような目でみないで。泣きそう。
つかわけわかんないよ。俺がなんだってんだ?
「こんな、どこぞの馬の骨ともわからない奴となんて……」
「いいの!」
な、何の話だよ一体……?
そして俺は、次の伊集院の言葉に驚愕する。
「私が結婚したいのは、この人なの!」
――え?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そろそろ夕日が沈むなぁ。暗くなってきたし、もう帰りたい。
「ね、帰りたいって思ってるでしょ」
小さい公園のベンチの隣に座る伊集院に言われて、ドキッとする。ただ、隣と言っても端と端くらいの距離があるのだが。そんな事よりこいつ、読心術でも心得てんのか?
「いや、そんなわけないじゃん」
「顔に書いてるよ」
「え!?」
そう言って、わざとらしく顔を拭く仕草をしてみるが、伊集院の顔に笑顔はない。
ふいに、伊集院はこんなことを言い出した。
「……ごめんね」
その顔には、俺に見せた気の強い面も、学校でみんなに見せた作り笑顔もなかった。あったのは、あの、寂しそうな顔。しかしすぐにうつ向いた。
涙を流しているんだろうか。その表情は伺えない。
「……全然平気だって! あんなの慣れっこだよ」
そう、俺はあのあと、伊集院の母親に、罵倒の言葉を浴びせられまくった。そして終いには、家を放りだされた。それを追いかけた伊集院も、同じく。多分、それのことを言ってるんだろう。
「……私ね」
急に伊集院が話し出した。聞き取れないような小さな声だったので、耳をすます。
「小さいころからずっと親に言われたことばっかやってきてね。学校もそうだったし、習い事もそうだったし、遊ぶときも、友達だってお母様が認めた人しか友達になんなくて。最初はみんな仲良くしてるんだけど、だんだん離れてくようになって。前の学校でね、いじめられてたの。で、その時思ったの。お母様に縛られてちゃダメだ、って。だから転校した。けど、お母様は私が勝手に転校の手続きとかをしたから怒ってる。ホントは佐藤も手伝ってくれたの。親代わりにね。あ、これは内緒よ」
そして伊集院はしー、と人差し指を口の前で立てる仕草をした。
「あの人が親代わりなんて、恐ろしいね」
俺は、ハハハと笑いながら、そんなくだらない冗談しか言えなかった。でも彼女は、無理して笑ってるように見えた。
伊集院は続ける。
「でもね、でもね。私が登校中に、あなたがぶつかってきて、この作戦を思い付いたんだ。これでお母様の鼻をへし折ってやろうって」
凶暴な思想だ。恐ろしい。
なんてのは冗談で、ここまでが仕組まれてたなんて、なんか切ないと思った。誰でも良かったんじゃないのか。
「じゃあ、なんで俺を? 別に誰でも良かったんじゃ?」
俺がそう言うと、彼女は首を大きく横に降った。
「ううん。あんただったら、席の隣が空いてたし、お人好しだって他の女の子からの情報で知ってたし。だから連絡の紙を持ってきてくれるって信じてた」
お人好しってのは気にくわないが……信じてた、そう言ってくれるだけで、笑みがこぼれた。
「まぁもし、持ってきてくれなくとも、佐藤が『朝にぶつかってきた借り返さんかい!』て言って連れてくるつもりだったの」
「……そんなので借りって発生するのか?」
「慰謝料ってやつよ」
「慰謝料はそんなんじゃ取れねーよ。世界を知らねぇな」
言った後、俺はひどく後悔した。伊集院がなんだかすごく暗い顔をしたからだ。
「……そうなの。私、世界を知らないのよ。家と学校以外なんて滅多に行かないから」
切なそうな顔に耐えきれなくなって、俺はこんな提案をしてしまった。
「そんじゃ明日、遊園地でも行くか」
その言葉に、彼女はぽかーんとしてしまった。
「明日は学校があるわよ?」
「そんなのどーでもいいよ」
「いやそんな――」
「いいから! 明日9時にお前んちに迎えに行くから!」
「え、でも――」
「お嬢様」
その声をかき消すように言ったのは、もちろん佐藤さんだ。車でやってきたらしい。黒くて見えにくい。
「帰りましょう」
静かに言ったその言葉に逆らうことは出来ずに、伊集院は車に乗った。佐藤さんは俺に、『お送りしましょうか?』と聞いてきたが、いいです、と答えると『わかりましたお気を付けて』とそれだけ言うと車に乗って帰っていった。
俺はしばらく闇夜の空を見上げていたが、やがて立ち上がり、家に帰り始めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次の朝、俺は6時に起きていつも以上に綺麗に髪をセットし、いつもよりマシな服を着て親には学校に行くと伝えて家を出た。しかしもちろん向かうのは伊集院家。まだ8時だがゆっくり行けば8時半にはなる。30分前行動が俺のポリシーだ。学校に遅刻ギリギリなのはどうかって? そんなもん知らん。
頭の中で自問自答を繰り返す俺は、多分緊張してたんだろう。伊集院家に着くとすぐにバカみたいにインターホンを押してしまった。やば……。しかし気づいた時すでに遅し。ピンポーンという音が虚しくこだまする。
…………?
またしても誰もいないのか?
そう思ったとき。ふいに嫌な声が聞こえた。
「お入りなさい」
それは紛れもなく、伊集院の母親の声だ。しかも今なんと? 入れと? わけがわからん。
しかし、自動門が開いているのは事実。入るしかない、か。
そうして俺はまたしてもこの伊集院家に足を踏み入れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
伊集院家はやはり豪華だが、前とは少し雰囲気が違った。前よりも明るい時に来たからか、窓から注ぐ光がシャンデリアに反射して眩しい。ただそれだけではない。なぜか妙にピリピリした空気が漂っているのだ。その空気は、廊下の奥の部屋に近づけば近づくほど濃くなる。俺は引き寄せられるように、その扉に向かって歩いていた。
気づけばもう、扉はすぐそこだ。手を伸ばせば届く場所にある。しかし手が出せない。この扉を開く勇気が、俺にはなかった。
しかし、その勇気は聞こえた声に後押しされた。
「お入りなさい」
もはや勇気とは言えないだろう。命令に従った、ただそれだけのこと。そんな惨めな自分が甚だ情けなかったが、この命令に背くことは許されなかった。
「失礼します」
やけに威圧感のある扉を開くと、鬼のような形相で椅子に座る女が一人。
もちろん、伊集院 春歌の母親である。
彼女は、俺を殺すかの勢いで睨み付ける。
俺は恐怖のあまり目をそらした。
「あなた……何てお名前でしたかしら」
あくまでも、口調は丁寧だ。しかしそこには、明らかに恨みがこもっている。
「盤土……戒です」
それだけ言うのも一苦労だ。これは緊張だろうか。いや違う。
「両親は何を?」
「父はサラリーマン……母は、主婦です」
これは、恐怖だろうか。いや違う。
「成績は、学年220人中何位かしら」
「……52位」
これは、敵意だろうか。いや違う。
「お帰りなさい」
「え?」
「帰れと言ってるの!」
「……!?」
「あなたなど春歌には相応ではありません。帰りなさい」
「…………」
「まだわからないのですか!? 帰りなさいと言っているでしょう!」
「……どこが」
「え?」
「どこが相応ではないのかと」
伊集院の母親は俺の質問に笑って答える。
「どこが、ですと!? 全てよ! 金も! 地位も! 能力も! 全てが足りない!」
この気持ちは……
「なぜそこまでこだわるのですか」
そう、この気持ちは……
「……春歌のためよ」
「え?」
「春歌のためよ!!」
尊敬、だ。
ここまで娘を思う母親は見たことがない。自分の体力を削りに削って仕事をして、娘に何不自由なく暮らさせようとしている。そこまで出来る母親がいるだろうか。だからこそ、俺はこの母親に尊敬する。
「私はね、春歌を一人で育ててきたの。父親は凡人だったわ。会社経営もろくに出来ない男。でも私は愛していたのよ。『愛』なんてくだらない感情で生きていたの! その時は幸せだった。苦しくても、苦しくても、楽しかった。娘が出来たときは最高に嬉しかったわ。でも、娘が生まれて、生活がもっと大変になったとき、あいつは暴力をふるい始めたわ。最初は私だけだった。ストレスが溜まってる、そう思って我慢したの。でもあいつは、春歌にまで手を出した! だからあいつは捨てたわ。それから私はずっと春歌のために生きてるわ。そんな春歌を、あんたみたいな男にはやれないのよ!」
伊集院の母親は話し終えると興奮して真っ赤になった顔を外に向けた。
俺は、この話を聞いて一つ思った。この人は強い、と。だからこそ、大切に育てた娘の伊集院も守ってやりたかった。
「あなたはすごく強い人だ」
「…………」
「そして素晴らしい母親だ」
「…………」
「でもそれを娘は気付いていない」
「…………ええ、そうね」
そう言ってわずかに見せた表情は、伊集院と同じ、寂しそうな顔だった。
その顔を見て、俺は決心した。
「俺は、あなたの娘にそれを気付かせます」
「……え?」
「気付かせてみせます。だから――今日一日でいい。娘さんと過ごさせてくれませんか?」
「…………本当に?」
多分、この人も、伊集院もそうだ。
互いのことを思いすぎて、互いに悪く思ってしまう。
だから第三者が気付かせてやんないと。
俺に出来るかはわかんないけど……。
「やります。やってみせます!」
伊集院家の母親がその時わずかに見せた笑顔は、きっと本当の笑顔だろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おーい、こっちだって」
俺がそう言うと、伊集院はおどおどしながらついてくる。今日は平日だからまだ人は少ない方だってのに、人に怯えてやがる。
結局、俺は母親に伊集院を遊園地に連れてくことを許可してもらい、頑張ってエスコート中なのだが……あいつが恐がってしまってどうしようもない。
どこに入るか、と尋ねたところ、なんとお化け屋敷がいいとのことでとりあえずお化け屋敷に入ることにした。
「いらっしゃいませー」
その元気な声を境に、異様な雰囲気が漂う。
ヒタ……ヒタ……
水滴みたいなのが聞こえる。外とは違って中は静ななので、小さな音でもよく聞こえてしまう。
「ね、ねぇ盤土」
ん、名前呼ばれたの初めてだな。
「なんだ伊集院?」
「あの……さ。ここ、暗くない?」
「だってお化け屋敷だもんよ」
「いやお化けやぁぁぁ!?」
妙な叫び声とともに出てきたのはお化け。いやミイラとでも言うべきか。こいつがこんなに恐がってくれて、お化け役の人はさぞ嬉しいだろう。
「ちょ、ちょ、だめだってこーゆーの! きゃああああ!」
と言いながらがしっと腕を捕まれる。あ、ちょ、待って走らないで。
「いやあ! いやあ!」
そんな奇声をあげながら叫ぶ伊集院は、なんかすごいかわいかった。……何言ってんの俺。何の感想だよ。
そんなこんなで、伊集院が全速力で走ったおかげか、ものの30秒でお化け屋敷を終了してしまった。
「ぜえ……ぜえ……」
肩をあげて息をする伊集院。必死に走りすぎだよ。
でも。
伊集院の『素』が見れて良かったな。作り笑いでもなくて、本当の顔。本当の表情。
なんだかそれがとても嬉しくて。
伊集院の髪をわしゃ、とつかんだ。
「ちょっ、何すんのよ!?」
「照れてんの?」
「違っ……もう」
ぷぅ、とほっぺたを膨らます伊集院。なんだか小学生みたいだな。
でもその姿はとても大人で。金の髪と白の服は綺麗にマッチしていた。
「なによ〜。見とれてんの?」
「そんなんじゃねぇよ。ってかお前も余裕できたな」
そんな他愛もない話をしながら回った1日は、最高の日となった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ねぇ」
夕暮れの公園。前と同じシチュエーションで、俺と伊集院はベンチに座っていた。ただ前と違うのは、2人の距離。隣あう2人はくっつきそうな程に近づいている。
「朝、お母様と話してたでしょ」
……バレてたのか。
「うん。ちょっとね」
「何のこと?」
「昔話を」
「ふぅん」
言って、遠くを見つめるような目で付け加える。
「お母様って、いろんなものを失ったんでしょう」
「あぁ、らしいな」
夫も、金も、地位も。大したものじゃなくとも、失ったのだ。そして一番大きいものは、やはり愛、だろう。
「でも、手に入れたものも多いじゃない」
「そうか?」
「金も、地位も手に入れたわ」
「でもあれは労力と引き換えにだ」
「あなたもお母様の味方?」
「そういうわけじゃない。ただ……」
一息ついて、続ける。
「お前は少しあの人を誤解してる」
そう言ったときの彼女の目は、静な目だった。
「それはいろんな人に言われたわ」
「俺の場合は違う」
「……何がよ」
小さく言い捨てるように放った言葉の後に、俺は続ける。
「お前は、何かを失ったか?」
「え?」
予想外の言葉に、伊集院は呆気に取られたようだ。しかし、冷酷な目でこう言い放つ。
「人と人とが干渉するとき。必ずしも人は何かを失い、何かを手にする。お前は、何を失った?」
「……全てを、よ」
「それは違うよ」
そう言った俺に驚く伊集院。
「逆だよ。お前は全てを手にしてるんだ。でも、母親に反発するから全てを失うハメになる。お前が失ったのは、素直な心だ。もう少し、素直になれよ」
単純な言葉。
たったの一言だ。
その言葉をきっと、彼女は、伊集院春歌は求めていたんだと思う。
その証拠に、彼女の右の目から一粒の雫が流れ落ちた。
「……ありがと」
そう言った彼女の目には憎しみなど映っていないはず。
これで、俺の役目は終わりだな。そう思ったときだった。
「じゃあさ、盤土は――何を失ったの? 何を手に入れたの?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
もう空が闇に包まれる頃。俺と伊集院はまだベンチに座っていた。
俺が質問の答えを考えている。
伊集院はそれを待っている。
もうかれこれ10分になる。
こいつは困った。あんな言葉言わなきゃ良かったかな。
まぁ、俺の素直な気持ちを伝えよう。
「失ったものは、ないと言いたいが……」
「あるの!?」
「あぁ」
「何?」
絶対『クサイ』って言われるよ……。
「伊集院と、出逢うこと」
俺がそう言って2秒後。爆笑は始まった。
「あははははは! クサイってそれ! どこのセリフ?」
「別にそういうんじゃないよ」
恥ずかしながら頬が赤い。暑いよちくしょー。
「なーんか盤土ってキャラ変わったね」
「まだ3日しか見てねぇだろ」
「それでも変わったの!」
「ふぅん……」
よくわかんないけど、これで終わりっぽいムードだね。良かった良かった。
「んじゃあ、手に入れたものは?」
……やっぱ言わなきゃなんないのか。
はぁ……もういいよ。絶対クサイって言われるけど、もう一回言われたし……。言うか。
「伊集院春歌」
「へ?」
「俺が伊集院春歌と出逢って手に入れたのは、伊集院春歌だよ」
「はぁ?」
いや、はぁって言われても……
「だからさ、これまでは全く知らなかったわけだけど、出逢えたことで知り合えた。そして、伊集院の一瞬一瞬を見れたこと。これが俺の手に入れたもんだよ。まぁ過ぎ去ったもんが失ったもんなら、俺はこの間に、どれだけ伊集院春歌を失ったかわかんないけど、これから何千、何万、何億もの伊集院春歌を見ることが出来るなら、それで満足だ。ってこと」
「……わけわかんないよ。ズバリ! 一言で言うと?」
「好きだから側にいてくれ」
間髪入れず言ったその言葉に、やはり『クサイ』と言ってくると思ったが、リアクションは想像したものとは大きく違っていた。
細い腕が俺を抱いている。俺に掴まってる、みたいな感じだけど。
そのまま上を向いて、みんなに見せた、作った笑顔じゃなくて――
本当の笑顔を、見せてくれた。
作ったみたいに綺麗に整ってなくても。
その笑顔は、とてつもなく綺麗だった。
そして、こう言ってくれた。
「仕方ないなぁ」
夜空にきらめく星が、その夜はより一層綺麗に見えた気がした。
うあー……ぐだぐだになってしまいました。しかも長い……。『べた恋』企画参加者並びに読者の皆様方、大変申し訳ないです。。。こんな作品でよければ、感想・評価お待ちしてます。