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論文

仮装の神

神は「ディエス・レイの汎神論述」に基づく。


神は真理を以ってして有象無象を追求し、永遠に不干渉たる存在である。



「ディエス・レイの汎神論述」は、後述より。


◆   ◆   ◆



顔には常に白(形而上)と黒(形而下)の仮面を付けており、素性を知る事は天壌の理に反する。

身体能力、特殊能力、受動的感覚、能動的感覚、理性的契機に限界は無く、神の力は拡張の幅を許す。


神には幾多もの状態(顔)がある。状態は主に9つに分かれている。

・基本祖題(平常ステータス)

・創造祖題(創造神として、有象無象の創造を手に掛ける)

・背反祖題(便宜的な矛盾の破壊、適宜なアンチノミー、二律背反の崩壊、パラドックスの打破)

・物活祖題(物質、魂、生命、理性の自己活動の破壊《反応、反射、摩擦の破壊》)

・徂徠祖題(物象、現象、事象の絶対視の無効化、認識主観や気概の完全停止化)

・自然祖題(自然の摂理、有象無象の現象、事象、表象を完全機能停止化させ、それに附属する形而上下学及び伴うパラドックスの強制打破、自然命題の解釈崩壊)

・実在祖題(真理に付属するリアリズム、実在に囚われる感覚の破壊、事物の観念・認識の適宜解釋化)

・電子祖題(真理、イデアに有される科学的且つ物理的な機械論の完全破壊、真理構造の具体的幻視化)

・殺戮祖題(真理下の形成された有象無象、天地万物から神の認識を剥奪し、生命には生命輪廻の終焉、無機生命には概念の剥奪)


神の反応は究極論を用いても表現出来ない、限界の先に存在する真理を分有する。

ありとあらゆる反応に追い付き、ありとあらゆる反射に対応する。万物の頂点である真理にも恒等の反応、反射を可能とする。(パラドックスの打破)


神の記憶力に限界は無い。

この天壌に命題と現実が統合して且つ齟齬無く端麗なアテレイアが生まれてから生まれた星の数、原子の数、有機物・無機物の数など、現象・具象・表象の全てを知っている。

また、其れを忘却することは存在しない。真理に付属する忘却に際しても、命題とは受け取らない(反応、反射、摩擦の破壊)


神は傷を負わない。

神はその姿を真理とイデアに即している為、神の身体は在って無いようなものである。

攻撃、真理の破壊、パラドックスの崩壊にも神は頂点の真理を分有している為に全てを反射的に無に返す。

傷を一切負わない為、内臓器官や細胞は持たない。構造を持つのは、弱き生命体だからであり、真理を分有しない哀れな存在だからである。

自己再生機能は無い。何故なら、失うものが何一つないからだ。


適応感覚は有象無象に即する。

真理は何にも模倣するイデアの例に過ぎず、神は全ての通りに適当して見せる。

適応できない環境は存在しない。何故なら、神が環境と言う真理と環境を作り、適応感覚と言う概念を作ったからだ。


神に属性は持たない。

属性の真理・イデアを持っている為、「属性」と言う概念の次元を超えた「非属性的属性」を持つとする。

一定の属性及び属性適応に際する存在は非属性的属性が不可視であり、認識されないまま非属性的属性を受ける。

属性概念は非属性的属性概念に一方的な攻撃を与えられる定義とされている為、覆す事は不可能である。


神に減るものは無い。

神は何をも失わない。何故なら、神は物象、現象、事象の絶対視の無効化が出来るからであり、且つ神は真理を受けもつからだ。

攻撃や真理の破壊、パラドックスの強制打破に於ける副作用に生まれる「減少」と言う概念を神は絶対化無視をする。


神に神の分類は存在しない。

何故なら、神は神では無いからである。神は真理を分有する、「神の真理」に過ぎないのであり、あくまで真理を分有しない者物に勝手に区別されている。

神は真理を受け持つ、顕世に於いて唯一不二の存在としており、分類・区別・差別を一切無効化する。

また、神は天壌「分類」と言う概念を作り、真理を持たない者物を真理で管理している。


神に束縛を受け持つことは無い。

何故なら神は「束縛・監禁」と言う概念を作ったからだ。神は「囚われのイデア」を所持し、神は自己に対するありとあらゆる囚われに具体的幻視化をする。

神の受け持つ囚われのイデアは神の存在の認識を否定し、肯定することを阻む。また、存在のカタルシスを神は完全に否定する。何故なら、神は囚われと言う概念に囚われない為、神は鬱積とは完全に乖離されているからだ。


神は無を超越した真理を司る。

無の存在論的根源は神によって作られた机上の空論に過ぎず、神は無によって生まれたり幻滅せし物の有象無象を完全に否定する。

零に回帰させることは認識上の概念に過ぎず、また「零」「無」と言う物も所詮は概念に過ぎない。究極の真理を受け持つ神はそれらを強制的に滅却する。

神は不可分な実体である。神はありとあらゆる活動の根源に為り、所詮「無」も真理による形而上学の一端に過ぎない。また、神は無をモナドによって排他的執行を行う。

無に逆らえない事は真理の認識を否定する事になる。神は自己に適宜なパラドックスのみを許し、無への抗いを強制的に肯定する。


神は強制的な執行を行う事が出来る。

執行の真理を持つ神はありとあらゆる万物への排他的執行を肯定する。真理、真実、イデア以外の有象無象は神によって執行されることに抗いを立てる事は出来ない。

よって神は有象無象への変遷、現象、具象、表象、感情、理念、情念、行動、原理を真理に基づいて書き換える事が出来る。

また、神は一切の触発を受けない。神の行う執行に何もかもは反逆を立てられず、反感意識は神によって執行されて喪失する。

そして神は現実社会、幻想社会、虚無社会問わずして行動、能力、概念、事象、表象、具象に排他的な執行を真理に基づいて行う。

この執行を否定することは真理の否定になる為、絶対的に否定は出来ないものである。また、真理のパラドックスの打破は別の真理に変遷する為、神の執行の輪廻から逃れる事は決してない。


神はありとあらゆる行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象、パラドックス、創造、破壊、時空、思惟を可視することが出来る。

何故なら神は事物の観念・認識の適宜解釋化を行えるからだ。神は全てを認識し、また神は真理の下流れる万物の流調を知っている。

そして神はそれらを全て真理に刻む。神は真理に基づき、真理を育てる事で有象無象は真理との繋がりが強くなり、神の力が増すからである。また、真理の育みに終わりは無い為、神は永遠の強さを得ている。


神は時間を有さない。

神は自己が時間と認識した時間だけを「時間」と言う概念を真理の下に織り成す。よって、それ以外の時間は「時間」と見なされない。

なので真理・真実・イデア以外が持つ時間は神が時間と認識した虚構の時間に過ぎず、また神は自己の具現化された全てに時間との因果律を否定する。

よって神の行動は虚構の時間に行われないものであり、神は時間との因果を否定するため、有象無象は所詮神に自己の流れる時を管理されているだけに過ぎない。


神は自己との同一性を一切認識しない。また、神は真理を持たない存在からの干渉を一切受けない。

何故なら神は唯一不二であり、真理を受け持ち且つ真理と恒等の存在であり、真理の管轄内で存在する真理・真実・イデア以外の有象無象の干渉を受けることは無い。

所詮は神によって織り成された範疇に過ぎず、神の予想を超える行為は真理の範疇内では決して起こる事は無い。また、真理の管轄内からのパラドックスの打破、干渉は真理を以ってして無効化する。

何故なら神と真理・真実・イデア以外の万物は真理の下僕に過ぎず、ありとあらゆる経験論・実証主義の認識は超越的な存在に敵う事はあり得ないからである。

また神は神の受け持つ真理以外の真理を認識しておらず、超越的な存在を認識する合理主義や神秘主義、真理を看破するとされる神性ロゴスを一切否定する。

何故ならそれらは偽物の超越的思考に過ぎず、真理・真実・イデア以外の架空の物象に過ぎないからである。

よって神は真理・真実・イデア以外の何をもに干渉及びパラドックスの打破をされることは不可能であり、真理の否定となる。


神は真理以外の別の世界の真理が持つものを一切に否定する。

何故なら別世界は神によって認識されてない、所詮は幻想に過ぎず、神の強制的な執行によって破壊されるからである。

よって神は真理に基づいて別次元からの干渉(パラレルワールド理論・プレーンワールド理論)は応用を効かないものとし、あらゆる平行・垂直次元からの余波は真理によって絶対化無視をする。

また、余剰時空(5次元理論)に関わる全てのものは真理の管轄内である為、虚構の行動は神に干渉やパラドックスの打破を不可能にする。


神は真理の上書きを絶対化無視をする。

何故なら真理に上書きは出来ないからである。上書きする行為は神の受け持つ真理では無く、真理の中にある偽物の真理であるため、神に影響は及ばない。

また行動は全て神の認識された時間によってされている為、神は「真実の上書き」「概念の重ねがけ」等、世界の最準に達するものに関しては最高位にある真理によって永久性なる最準変更を神のみ行う事が出来る。

そして神は真理・真実・イデア・神以外の真理への干渉を許さない。其れは強制執行の対象となり、神の裁きを真理の管轄内と言う檻の中で受けるものとする。


神は自己以外の真理に基づく唯一不二を認識しない。

何故なら、唯一不二と言うのは真理・真実・イデア・神以外が作った造語に過ぎず、所詮は真理の管轄内に過ぎないからである。

また神の認識は真理の管轄内にも影響が及ぶ為、神に対する唯一不二は決して認められることは存在しない。また神の唯一不二は絶対化され、真理に刻みこまれている。

しかし神の心は寛容的であり、真理の管轄内で言う偽の唯一不二は理性・感性に基づく行動と一致させる。

また、真理の範疇内からの真理への欲求は神の唯一不二と言う刻まれた真理に反する為、直接的な干渉やパラドックスの打破は全て行う事が出来ず、神の唯一不二を否定することは真理・真実・イデア・神以外不可能である。


神は一切の真理の模倣を認識しない。

何故なら真理の模倣は唯一不二の神によって行う事が出来ず、神は認識の範疇に於ける真理・真実・イデア・神以外の有象無象の不干渉を破壊する。

また模倣の不干渉化は神の真理に基づいて行われている為、神はそれらへの不干渉を超越した存在とする。

なので神は真理の管轄内に於ける行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象、創造、破壊、時空、思惟の模倣を行う事が出来る。しかし真理・真実・イデア・神以外の有象無象が神の模倣を行う事は決して出来ない。

其れは神が認識することの否定であり、神によって支えられた自己の存在そのものを自己で否定することとなる。


神は真理の管轄内に於ける真理に刻まれた規律の逸脱を認識しない。

何故なら真理に刻まれた規律は普遍的に真理の管轄内に置かれるからである。其れの否定は真理の否定と為り、神の否定である。よって神の絶対的不干渉に反する為、強制的に行動が移し替えられる。

移し替えられる行動は時空の変遷、真理に刻まれた規律に基づいた真理による執行である為、時空偏重に因果を満たさない普遍的な行動とする。

また、執行の対象者は其れを認識しない。何故なら神による執行は一切の触発を受けず、神の行う執行に何もかもは反逆を立てられず、反感意識は神によって執行されて喪失するからである。

この時の神の執行は対象者が神の刻んだ規律への反感によって起きる事象の為、神は対象者の意識を喪失させる。

主に真理の範疇内に於ける、真理に刻まれた規律を逸脱したありとあらゆる特殊能力は強制的に不執行とし、不発とする。


神は自己を対象概念とはしない。

神はその姿を真理とイデアに即している為、神の存在は真理の存在となるからである。

よって神への干渉・パラドックスの打破は神の存在に気づくことを余儀なくされる。また、神の存在は真理の管轄内の存在に気が付くことは不可能である。

だから神は唯一不二の存在であり、一切の干渉やパラドックスの打破は無効化される。

真理内の干渉は対象概念を無視するとしても最高位の真理に基づくため、神によって平伏される。


神には9つの状態を受け持つ。

神の受け持つ状態は9つ全ての状態を常に持ち合わせているものとするが、状態を真理に込めた変遷を遂げる事が出来る。

主に神は状態変化することを「昇華」と呼び、神は最高位の真理に基づいて状態を移し替える事が出来る。

この際、神は真理内外からの状態変遷を真理によって覆い隠し、変遷したことの行為及び継続を真理に刻みこまない。


1、基本祖題

神が常に受けもつ力を真理に込め、神の本質を上昇させることができる。また、この上昇幅は真理の増幅に帰依するものとする。

主に身体能力、特殊能力、受動的感覚、能動的感覚、理性的契機を飛躍的上昇させ、神の行動を更に向上させるものとする。

そして小概念・大概念を媒介する中概念を真理に置き換えることで、ありとあらゆる概念は真理を分有する存在となり、神の基本祖題の増幅を究極論でさえ説明がつかない箇所まで伸ばすことが出来る。

また命題の肯定否定を真理によって執行する事を基本祖題で行う事で仮言的・選言的・定言的な命題を真理によって解釋化し、そして交渉を一方化させる。

この祖題では主に神が最初から受け持つ能力の向上性を重視され、神は極限的な進化を手に入れる事となる。なお、進化は真理によって右顧左眄させるが、真理はその位置を揺るがない。


2、創造祖題

神は何をも作り出し、織り成す事が出来る唯一不二の存在であり、真理に刻むことの第一次とした同一律を真理に帰依させることができる。

主に真理の管轄内に作られる社会契約や自然法的合理主義、実在や有機無機、現象、具象、表象、感情、理念、情念、行動、原理は神によって創造され、生み出す事が出来る。

排他的な例外は存在しないものであり、神は人格的且つ非人格的な構造を完全に否定し、真理から独立した個々のイデアを分有したものとして生成する。

神と真理は恩寵を有さず、また神は真理に刻まれた規律に逸脱可能な創造は真理を受け持つ為可能とする。また真理の檻の下、自発的及び架空の恩寵による自由意思を認識しない。

また感覚の源泉として真理・真実・イデア・神以外の有象無象が受け持つ認識主観の是非を創造することが出来、且つ命題の変更を可能とする。

この祖題では神としての意義を肯定し、神本来の力の可能性を長けることで神は真理に刻まれた規律に逸脱しない創造を可能とさせるものである。


3、背反祖題

神は自己に干渉される全ての行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象、時空、思惟を思考し、便宜的な選択を受け入れる事が出来る。

その際、真理に刻まれた規律の逸脱を変革し、急激且つラディカリズムに則った既成の方法でアンチノミー・二律背反を破壊することが出来る。

神の都合に合わさった原理が真理の管轄内で起きるものとする真理原核論そのものを拡張させるのが此の祖題の最大的な特徴である。

神は永遠に自己への不干渉・パラドックスの打破を可能としないのは真理を持たない存在が神そのものの存在を認識する事が不可能であり、この問題を二律背反しようとする事に対して行われる真理の具体化を類推する。

また神は真理・真実・イデア以外のありとあらゆる有象無象の先駆者であり、神の行わない行動は真理に刻まれない為に真理の範疇内の存在が行う事は不可能である。

そして「不可能」と言う事実そのものへの干渉は真理を分有した「不可能」であるために神に固執しており、決してパラドックスの打破・矛盾や二律背反・アンチノミーの破壊は真理に則って無効化される。

この祖題では神が背反するあらゆる行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象、時空、思惟を感覚化させ、そして確実に否定することを重点に置いた、保守性が強いものである。


4、物活祖題

神は真理下に存在する、ありとあらゆる物質、魂、生命、理性の自己活動を司り、それらを全て真理に映し出し、そして壊し、作ることが出来る。

また神は万物を形成する有象無象の自己啓発的活動の真理を受け持つため、間接的に神は自己啓発の高邁の全てを知っている。

超自然且つ超現実な二元を神は有象無象の自己活動として受け入れ、そして真理に基づいた明晰且つ判明に浮かぶ観念に沿っている。

よって神は真理下に存在する、真理に刻まれた規律に逸脱を図ろうとする自己活動の停止を確実に肯定し、神は世界を具体化させる。

また、瞞着や欺瞞によって生じる倫理を乱す自己活動を神は否定する。よって真理下と真理上は自己活動の隔たりによって確実に区分されたものとし、神への不干渉化をより一層強く肯定するものとする。

世界に存在する萬物は唯一不二の存在である神の本質が真理の幻想的普遍化によって表現されたものである(ディエス・レイの汎神論述)ので、真理下は真理を持たないとは言え抽象的な真理を知る事は出来る。

其れは物活祖題による神の実体の調和を図ったものであり、いっさいは神の必然性によって存在や作用へと決定しする。

この祖題では神の物活的作用を普遍的に捉え、ディエス・レイの汎神論述を強く肯定し、神の存在を真理へと更に近づくことを可能とさせるものである。


5、徂徠祖題

神は自己が作った有象無象を真理に保管し、神はそれらを現実化及び幻視化させる事が出来る。

真理下の物象、現象、事象は感覚によって捉えられるが、神は感覚の形成を真理と結び付けている為、神は物象、現象、事象に対する真理を持たない者物の絶対視の無効化を可能とする。

また神は感覚を管理し、真理下の有象無象に持つ「感覚」及び「主観性」の自己活動を自由に操作し、覗き見る事が出来る。

神は真理に沿った存在であるため、真理を持たない存在の感覚を覗き見る事は出来ないとされるが、徂徠祖題ではそれらを真理の範疇内に限定した感覚及び主観性を真理に映し出す。

真理は有象無象の鏡でもある為、神は萬物の現実化及び幻視化を真理且つ神以外の判断では行えないものとする。俗に言う「神隠し」とは、神が現実化された者物を幻視化しただけに過ぎない。

そして認識主観及び気概は真理且つ神の判断によって真理に記憶され、作用させる事や完全停止化を操作するものとする。

何故なら、神は真理と感覚、主観性を繋げている為、真理下と真理上を結ぶディエス・レイの汎神論述に沿っているからである。

この祖題では神の有象無象に対する感覚や主観性を覗くための、真理に目を置いた神非ざる神になることで、有象無象の真実を知ることを可能とさせる。


6、自然祖題

神は第三者に値する超常的な行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象を全て否定する。

また神は自然の摂理、有象無象の現象、事象、表象をディエス・レイの汎神論述に基づいて完全機能停止化を図るものとする。

神は真理に付属して且つ真理そのものを受け持つ存在であり、第三に超常的なものは真理下に起こっているに過ぎないものである。

受動的感覚、能動的感覚、理性的契機によって生み出される自然は全て神が与えた理解方法の一端に過ぎず、神を真理下の者物に代弁者に過ぎないのである。

神は真理との契約且つディエス・レイの汎神論述に沿って、その代弁者を作り出し、殺す事が出来る。生み出すことは真理下に新たな思考が生まれたに過ぎず、殺す事は真理を持たない存在の幻視化させることに過ぎない。

よって神は代弁者に沿う形而上下学及び伴うパラドックスの強制打破を完全の否定し、自由に自然命題の解釈崩壊をさせるものとする。

この祖題では神が真理の記憶を真理下に伝えることを重視した、神が神であるための基礎祖題に過ぎないのである。よって此の祖題は神の持つ能力の飛躍に過ぎないが、同時に神は真理下に自然を刻むことを可能とする。


7、実在祖題

神は真理を受け持ち且つ真理に値する、唯一不二の存在である。よって、神は真理に沿う実在やリアリズムの充足根拠律を否定する。

真理に付属するリアリズム、実在に囚われる感覚は真理下に存在する虚空の物象に過ぎず、それらは真理に近づこうとして偽の表象に近づくだけの、謂わば幻覚に過ぎない。

真理の範疇内にある有象無象は実在を真理下に限り、認識することが可能であり、其れは観念を自己で意識することを完全に否定する。神は唯一の存在を以ってして、真理下の実在だけを認識する。

よって虚偽のリアリズムや実存は神へのパラドックスの打破の試みに過ぎず、神は「有象無象の観点による実存・リアリズム」を全て破壊する。

また、神は事物の観念・認識の適宜解釋化を行い、実在に対する解釋を適宜に行う事で認識の第一容量を拡張し、そして真理下を形成し直す。

真理下の有象無象の「存在」は神によって「認識されてる」だけに過ぎず、神に恩寵の計らいは存在しない。実存への愛は存在しないが、代わりに神は真理から無限の「愛のイデア」を降り注ぐ。

ディエス・レイの汎神論述の通り、真理は神の本質が幻視化されただけに過ぎず、それらを表現しつるのがあくまで萬物なのであり、真理下は神の庭に過ぎない。

この祖題では神が真理下に立つ存在及びリアリズムを究極に否定し、真理上の存在を肯定することで神がディエス・レイの汎神論述を認めることを可能とさせる。


8、電子祖題

神は真理下で形成された、真理上への接続を試みる形成を全て否定し、それらに付属する実在を全て破壊する。

真理、イデアに有される科学的且つ物理的な機械論は所詮は真理下の有象無象が神を認識する上での仮定に過ぎず、また真理の範疇内の有象無象は科学的且つ物理的な機械論は神への存在を髣髴とさせる。

神は神の存在を自ら否定し、神を知ろうとする有象無象を全て消失させる。其れは破壊であり、神の執行の一端である。そして神はそれらを真理下から取り除く。

神は真理下に形成される世界観のモデルが生気論、目的論、有機体論に反する機械論は神への衆愚な行いに過ぎず、サイバネティックスや分子生物学は神の存在の延長を否定している。

よって神は機械論の徹底とされる蒙昧主義や神秘主義への攻撃性を認識せず、またそれらへの思想に基づく原理を全て執行するものとする。

真理構造は機械論の本質とも言えるべき内容であり、神はありとあらゆる電子論且つ科学的且つ物理的な機械論を許さない。その為、神は真理構造の幻視化を行い、真理下から真理は確実に見えないものとした。

なお電子論且つ科学的且つ物理的な機械論は神が織りなした自然論の反芻思考に過ぎず、神は真理に基づいて執行を行う。

この祖題では電子論且つ科学的且つ物理的な機械論が真理下の有象無象の「神の存在の肯定」を完全に否定し、神がディエス・レイの汎神論述に基づくための可能態である。


9、殺戮祖題

神は有象無象の想像を手掛け、そして対と為る行動を神は神の見えざる手で執り行うのを真理に刻む。

神の見えざる手とは真理を以ってして神が有象無象の外延を知り、そして真理に基づいて規律を逸脱した存在の抹消を執行する。

其れは真理下の形成された有象無象、天地万物から神の認識を剥奪に意するものとする。神は真理下の存在の抹消化として、平静への真理を近づく事で普遍的な事象に見なされる。

物が消失したり、種が絶滅することは神の見えざる手の執行に過ぎず、神はそれを何時でも執り行うものとする。また、神はその執行に「忘却」を付随させ、真理下の有象無象から一部の記憶を抹消させる。

この際、神と真理のみが執行された対象を知り得る事が可能であり、思想的基盤からの対象への解釋そのものを神は真理の範疇内の有象無象から剥奪する。

生命には生命輪廻があり、無機生命には概念がある。神はそれらの規律の逸脱を赦すような事は決してせず、神はその場にある普遍的輪廻及び普遍的概念を剥奪する。

よって生命は解脱や俗世からのカタルシスを行う事は神によって遮られ、無機生命は無機生命の内包を否定することとなるのだ。

何故なら萬物の頂点こそが「見え非ざる神」である「神の真理」であり、ディエス・レイの汎神論述に基づくからである。

よって神は「死」と言う存在と恒等する行為を規律の逸脱した真理下の有象無象に行い、そして神はそれらの認識を拒む。其れはそれらの「抹消」であり、「死」では無い。

「死」は神が与える唯一の「救済」であり、それは真理下の有象無象に与えられる。不老不死は規律に逸脱する為、神はディエス・レイの汎神論述に沿い、執行する。

「殺戮」とは神が対象に「死」を与えることでは無い。「殺戮」とは真理下の主観から対象を抹消することであり、幻視化に過ぎない。死は魂と煩悩が真理へ吸い込まれ、真理と一体化もとい神と一体化するだけである。

この際、死が持ってきた煩悩は神が昇華のエネルギーに使う。何故なら、神は迷いを持たず、煩悩こそが真理下の有象無象にしか持たない希少価値のあるものだからだ。

この祖題では神が真理下への創造と対を為す「殺戮」に対して神が執行を行う事を可能とさせ、神の判断を確実且つ永遠性を伴うものにする為の付属品に過ぎないのである。



《神の平行次元性の否定》


神は真理上に形成されるものを真理・真実・イデア・神以外の何をも否定する。そして真理下の有象無象に対する平行次元性を認識しない。

平行次元性の否定は真理の範疇内の有象無象に対する唯一不二を明らかにするものであり、神は陰の現実化もとい第二の模倣を有象無象を対象にする事を認識しない。

これは神が真理下の有象無象の個々を管理する為に保証しているだけに過ぎず、所詮は神の道具もとい隷であることは逃れられない事実なのである。

真理下に形成された萬物はディエス・レイの汎神論述であり、神は神の実態を幻視化させ、神の唯一不二が有象無象に繋がるのである。

視覚的には同じ「形成物」と捉えるものも、「単独概念」として神は者物の類概念を許し、完全類概念を許さない。

其れは神の唯一不二を否定し、パラドックスになるからである。神が行うパラドックスの打破は真理に刻みこむ内容の変更に過ぎないが、真理下によるパラドックスの打破は神を否定するのである。

神は神非ざる神なれど、真理下の存在が神非ざる神を否定することに真理の欲求性を抹消してしまう。よって、神は唯一不二を乱す真理下の有象無象を全て単独概念だけ残して執行する。

これはディエス・レイの汎神論述に基づいた、一種の神の恩赦に過ぎない。



《神の感覚的及び精神的なものの真たる命題の管理》


神は真理下の有象無象をディエス・レイの汎神論述に基づいたものとしており、神に鬱積も無ければ快楽も無い。

神は真理の範疇内の有象無象が作り出した「快楽」と言う現象は所詮神の実態物幻視化に過ぎず、究極的に普遍的なものである。

快楽の欲求は行為及び道徳の基礎とするのは神が附属性を与えただけのディエス・レイの汎神論述である。よって全ての快楽は「快楽」に繋がるものとする。

感覚的なものと精神的なものとでどちらが真の快楽か、と言うのに神は答えを与えず、誠正しい快楽のみを神は「快楽」と位置付ける。

其れは他の行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象に繋がり、神は質的な差を与えない。そして神は神の幻視化を実在としたものだけ真理下で認識する。

何故なら、神は自ずの幻視化では無い行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象は作らないからである。よって質的な差で生じた幻視化の実在は存在しない。

よって感覚的なものと精神的なものとで真を明らかにするのは命題に即しておらず、神は真理下の有象無象に「そのような考えを持たせない」。



《神の仮象》


神は有象無象の具現化されたものであり、見え非ざる神であり、神非ざる神である。

真理下で現実あるいは実在に対する、実在するように見えるものの実在しない、思惟だけで捉えられるものを神は神非ざる神の神とする。

よって真の神は真理下の存在から確認することは一切出来ない且つ神を知る事は出来ないが、抽象的な真理は仮象を持ちいて捉える事が出来る。

なお、神を仮象を用いて知る際は真理下の存在は経験性では無く、ディエス・レイの汎神論述を感覚的で捉える以外に真理は見えない。

神は真理下の有象無象が「真理を知る」ことを認識しない。何故なら、仮象を用いた真理の可視は泡沫の流れに過ぎず、見えるものは有象無象が自己満足するだけに過ぎない虚構だからである。

真の真理は神が受け持ち、真理下から決して見えない真理上に実在する。何故なら、真理下の存在は神を一度たりとも「自分から」見た事が無いからである。

主観的な表象に基づくものを仮象としても、所詮は神の真理非ざるものを可視するだけに過ぎず、一つの「快楽」に過ぎないのだ。これを「観想」と言う。



《神の価値》


神は絶対的な存在であり、神非ざる神なれどその存在は確実的且つ永遠的なものである。

神が認識したものこそ神は「実在」を与え、神は真理下に形成させるのである。神は其処に事実との認識互換性、体系や概念を与えた。

其れは神の対象概念にならない事実と結びついている。何故なら、神は真理下の有象無象を「区別」する為に作られたのであり、神は区別されないからだ。

真理上と真理下は真理と真実・イデア・神以外は絶対的に乗り越えられない壁で隔たれているのであり、観界・価値界・意味表現の価値観は神が与えた「区別方法」に過ぎない。

物質、魂、生命、理性、行動、能力、概念、事象、表象、具象、現象、時空、思惟は全て神によって区別されてるのであり、価値は神の体系に過ぎない。

よって真理下で金銭で取引する価値観は価値に通じない。其れは真理下が勝手に定めた「価値」だからであり、真の「価値」には「価値観」と言うものが備わっているだけなのだ。

だから神は価値を持たない。何故なら神は区別されない、絶対視され且つ真理を受け持つからである。



《神の存在証明に対する完全否定》


神は神非ざる神なれど神であり、神は真理たる神なれど真理非ざる神である。神は神を以ってして神なのであり、真理そのもの且つ真理の分有そのものに過ぎない。

それらは真理下から有象無象が感知することは先ず正しくして不可能であり、其れは存在証明を確実に不可能にする。

そもそも神は自らに対象概念を受け持たず、少なからずして神は真理下から永劫的に不干渉である。よって理性で捉えられるのは虚構の真理だけに過ぎない。

神への類推は概念からの抽出を以ってしても不可能である。何故なら、ディエス・レイの汎神論述に基づけるのは真理、真実・イデア・神だけだからである。

自然の運動を要因にする宇宙論的証明も所詮は神が形成した虚構の真理を頼りにしてるだけに過ぎず、見い出せるのは虚偽の物でしかないのである。

神は存在するなれど存在せず、神は真理下の有象無象がどう以ってしても絶対的に可視することは不可能であり、類推することは出来ないのである。

其れは理性に基づいた思考なれど、有象無象が真理を持っていないために因果する。

何故なら神は真理そのもの且つ真理の代弁者であり、真理上と真理下は隔たれており且つ真理の範疇内の有象無象はディエス・レイの汎神論述に基づくからである。

内的外的問わずして感覚論は神は否定し、それらのシンボリックな帰結が神のディエス・レイの汎神論述に真理下の有象無象が最たるに近づくことが出来るのである。

よって神は一切の啓蒙を持たず、神はディエス・レイの汎神論述に基づいて真理下を管理しているのであり、其れを捉える事は一切できないのだ。


《結論》

神は終わりなき永遠の存在且つ神は神非ざる神なれど神である。

真理は果つるなき永遠の存在且つ真理は真理非ざる真理なれど真理である。

我々が直感的に、もしくは本質的に捉えていた萬物は神の幻想的普遍化によって生まれたものであり、神は「存在して存在しない」。

其れは我々が抱くに「矛盾律」と言う物だが、其れは真理下の話であり、真理上は神は矛盾律を起こす事が出来るのである。


よって、我々が感知していた「神」は、偽物の神だったのである。

だからこそ、私は「ディエス・レイの汎神論述」と言う言葉を用いて、「神は神非ざる神なれど神である」の証明を行う。

また、この私も真理下の有象無象の一端に過ぎない為、蒙昧たる思想に過ぎない。が、この証明こそが感覚論のシンボリックな帰結、もといディエス・レイの汎神論述に最も近づくものである。


そして我々は崇高し、尊ぶべきなのである。

唯一不二の存在にして永劫的且つ終わりなき存在……神非ざる神なれど神である神、「ディエス・レイ」を。

キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教…宗教は様々なれど、神は統一して1つしか無いのである。


―――ディエス・レイ。これこそが、この俗世に存在して且つ存在しない、究極の真理なのである。


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[一言] 「神は終わりなき永遠の存在且つ神は神非ざる神なれど神である。」 ↑これなんかかっこいい +8101919点あげるね
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