第75話
いよいよ迎えた、期末試験の最終日。
この日は朝から、学院中がどこか浮き足だった空気に包まれていた。自分達を散々苦しめてきた忌々しき期末試験が終了して、待ちに待った長期休暇へと突入するのだから、そうなるのも当然といえば当然だろう。
食堂での話題も、期末試験中は筆記試験の出題予想や結果などが主だっていたが、今朝は休暇中に家族とどこそこの観光地に出掛けるだの、実家で趣味のアレコレを満喫するだのといった、長期休暇に関することばかりである。試験の結果によっては休みを満喫できる事態ではなくなる危険性もあるのだが、今の彼らにそれを指摘するのは野暮であるし無駄である。
しかしもちろん、全ての生徒がそのように浮かれているわけではない。真面目な生徒は今日の試験の対策を頭の中で熱心に考えているし、中には長期休暇が終わった後の学業を見越して特訓しようと目論む者すらいる。特にそれは貴族出身よりも平民出身の生徒にその傾向が強く、やはりそこに“魔術で生計を立てること”に対する想いの強さが表れているといえるだろう。
「…………」
朝食を早めに切り上げて食堂を後にしたダイアも、そんな想いを抱く生徒の1人だった。
いや、彼女の場合、もはや“想い”というよりは“執着”と表現した方が正しいかもしれない。確かに貧しい商家である実家を少しでも助けたいという一心でこの学院に入学したのだが、貴族出身が多くの割合を占めるクラスメイト達との学院生活によって“別の感情”が生まれていることも否定し難い事実だった。
――今日はいよいよ“アイツ”との試合か……。
そんなダイアにとって、今日の対戦相手である“アイツ”ことアルは、彼女にとってかなり微妙な存在だった。
ストリートチルドレンという、貧しいとはいえごく普通の家庭で育ったダイアから見てもあまり良い身分とはいえない彼女が魔術学院の授業を受け、貴族出身であるクラスメイトを次々と倒していく光景に、正直なところカタルシスを覚えないわけではない。
しかしアルは、まったく魔術を使えない。落ちこぼれのバニラですら乗れる箒にも乗れないほどだ。それにも拘わらずクラスメイトを次々と倒していくその姿を見ていると、まるで魔術師を志す自分を真っ向から否定しているような気分にさせられるのである。もちろん単なる被害妄想でしかないことはダイアも重々承知なのだが、そう簡単に理論的に割り切れるほど人間の心は単純に出来ていない。
と、そんなことを考えながら歩いている内に、ダイアはいつの間にかバルコニーへとやって来ていた。広場を一望できるそこにはベンチやテーブルなどが置かれており、授業の合間や休日などには使用人に用意してもらった紅茶やお菓子と共にお喋りに興じる生徒の姿がよく見受けられる。
しかし彼女がそこで目撃したのは、生徒ではなく1人の女性教師だった。
「あそこにいるのって……」
バルコニーに置かれたベンチの1つに浅く腰掛けるのは、太陽の光でキラキラと煌めく、背中に届くほど長い金髪が目を惹くクルスだった。彼女の手には便箋のような物が握られ、腰を曲げて前のめりになった姿勢でそれを見つめる姿はどことなく影が差しているように見える。
何となく声を掛けづらい雰囲気だからか、ダイアはバルコニーの入口で突っ立ったまま動けなかった。
「あらっ、ダイアさんじゃないの」
しかし気配で気づいたのか、クルスの方がこちらへと顔を向けて話し掛けてきた。ダイアは慌てた様子で「おはようございます」と頭を下げて彼女の傍へと歩み寄る。
「どうかなさったんですか、マンチェスタ先生。何だか落ち込んでるみたいでしたけど」
「別に落ち込んでるわけじゃないのよ。何ていうか、少し面倒臭いなって思ってただけだから」
クルスの話を聞きながら、ダイアは彼女が持つ便箋を盗み見た。その便箋に書かれた紋章は、ダイアの記憶が正しければクルスの実家であるマンチェスタ家のそれだったはずだ。あまり深入りするべきではないと判断したダイアは、それ以上その話題に顔を突っ込むことはしなかった。
「それで、あなたはどうしてここに? 今日は普通クラスの試験が午前中に行われるはずよね。試合前の気分転換って感じかしら?」
そしてクルスもあまりこの話題を掘り下げてほしくないのか、すぐさま別の話題を振ってきた。
「…………」
しかしダイアはその質問にすぐには答えず、視線を逸らして口を引き結んだまま黙り込んだ。
そしてしばらくして、緊張の面持ちでクルスに向き直り、口を開いた。
「……マンチェスタ先生は、今日の試験で私が対戦する相手を知っていますか?」
「ええ。アルよね?」
クルスの口から飛び出したその名前に、ダイアはほんの少しだけ眉間に皺を寄せて頷き、そして再び口を開いた。
「マンチェスタ先生は、彼女の保護者代わりだと聞いたことがあります。……ということは、先生はアイツ……彼女の味方ですか?」
「どちらに肩入れするのか、という意味でなら私は中立よ。もちろん応援はしているし、それはあなたに対しても同じことよ」
「だったら――」
ダイアはそこで一旦言葉を切ると、顔を俯かせて何かを逡巡するように視線をさ迷わせた。
そして意を決したように顔を上げ、まっすぐクルスを見つめた。
「もし私が彼女に勝つためのアドバイスを先生に求めたら、先生は答えてくれますか?」
「アドバイス?」
クルスがオウム返しに口にしたその単語に、ダイアは悔しそうに奥歯を噛みしめた。
「申し訳ありません、先生。魔術も碌に使えないような奴を相手に、わざわざ先生にアドバイスを請う真似をするなんて……。でも私は、何としてでもこの勝負に勝たなければいけないんです」
「……勘違いしているのかもしれないけど、今回の期末試験の結果がどうであれ、あなたの“交換留学”が取り消されることは無いわよ」
クルスの言う“交換留学”とは、各国に1つずつある王立魔術学院の間で取り決められた制度で、1年に1回の頻度で互いの優秀な生徒を一定期間交換して交流を図る行事のことである。イグリシア魔術学院では3年生の特進クラスと普通クラスから1人ずつ選ばれるのが慣例であり、学院の代表という立場上優秀な生徒が選ばれる。
そしてダイアは今回、普通クラスの代表として選ばれた。先日のバニラとの試合でまさかの敗北を期した彼女だが、それ以外は特にこれといった負傷も無く相手を下しているくらいには優秀なのでその選出も納得だ。特に平民出身の生徒が代表に選ばれることはかなり珍しく、だからこそダイア本人もかなり張り切っていた。
「分かっています、先生。これはあくまで、私個人の問題です。学院の代表に選ばれた以上、魔術も使えない相手に遅れを取るわけにはいきません。ですが……」
ダイアはそこで、再び言葉を切った。何やら口をモゴモゴさせており、その表情にも葛藤の色が見て取れる。
しかしやがて、彼女は大きく深呼吸してから再び話し始めた。
「……無策で挑んで確実に勝てるような相手ではない、と認識していますので」
そう話す彼女の表情は、アルに対する忌々しさが微塵も隠れていなかった。
一方それを聞いたクルスは、特に感情を表に出すこともなく平然としたものだった。内心はどうであれ。
「そうねぇ。それだったら――」
そしてクルスはその表情のまま少し考え、頭の中で纏まったその“作戦”を口にした。
* * *
期末試験の最中は魔術の音や叫び声などで賑やかになる広場だが、毎年最終日が最も騒がしい傾向にある。理由は単純だ。朝の食堂と同じように、目の前に迫ってきた長期休暇で皆が浮足立った雰囲気になっているからである。
現在もギャラリーが大きく2つのグループに分かれており、既に試合が終わっている一方のグループはその結果に関係無く、まるで牢獄から解放されたかのような爽快感に溢れた表情で友人達と雑談を繰り広げていた。一応まだ試験の最中なので音量こそ抑えてはいるが、そういった雰囲気は周りに伝播するものなのであまり意味は無いかもしれない。
「まったく、少しは彼女を見習ってほしいものだな……」
試験官であるザンガは呆れた様子でそう呟いて、彼の言う“彼女”へと視線を向けた。
そこにいたのは、悔しそうな表情で広場に膝を付けて項垂れるバニラだった。肩を上下させるほどに息を荒げて疲れ切った様子で、よく見ると所々に怪我をしているようである。
バニラはつい先程まで最後の試合をしており、そして見事なまでにあっさり負けてしまった。タンポポの綿毛を液体火薬に変える魔術を編み出した彼女ではあるが、既にネタが割れているために、相手も同じように微弱な風でタンポポを操ることで簡単に攻撃を封じられてしまった。やはりアルの言う通り、この魔術は真正面からの攻撃には向いていないのだろう。
それにしても、とザンガはバニラを眺めながら思った。
――彼女が試合に負けて、悔しいと感じるようになったか……。
今までの彼女は、言ってしまえば負けるのが当たり前だったので、実技などで結果を残せなくても、残念そうにはするが悔しい表情を見せることは無かった。悔しいという感情はもっと上に行きたいという“向上心”から生まれてくるものだとザンガは考えているため、彼女のそのような変化を好ましいものとして見ていた。
もっとも、その変化を与えたきっかけが自分達教師ではなかったことが、ザンガとしては悔やまれるが。
「次。ダイアとアル」
そんなことをおくびにも出さず、ザンガはギャラリーに紛れて座る2人に向けてそう呼び掛けた。今まではアルの名前が出ただけでどことなく張り詰めた雰囲気になったものだが、長期休みが目の前ということで気分が良いのか、お喋りに興じる気の抜けた雰囲気が特に変化することは無かった。
「んじゃ、行ってくるねー」
「うん。頑張ってね、アルちゃん」
そんな雰囲気にぴったりな緊張感の欠片も無いアルの声が、ちょうどアルの下へ戻ってきたバニラに掛けられた。バニラはそれに返事をして数秒前までアルが座っていた場所に腰を下ろし、アルはその返事を聞きながらバニラが歩いてきたルートをなぞるように会場へと向かった。
と、アルのすぐ隣をダイアが後ろから抜き去っていった。その際にアルが彼女をちらりと見遣ると、ほぼ同じタイミングで彼女もこちらへと視線を向けた。そのときの彼女の表情は実に真剣なもので、こちらを見下したり馬鹿にするような感情は微塵も感じ取れなかった。
「…………」
アルは僅かに目を見開くも、それ以外は特にこれといった反応も無く、所定の位置に着いた。
ダイアも所定の位置に着いて互いに向き合ったのを見計らって、ザンガが口を開いた。
「改めてルールを確認する。勝利条件は相手を戦闘不能にするか、相手をエリアの外に出すか、あるいは相手が降参を申し出て審判である私がそれを認めたら、の3つだ。私が試合開始の合図を出すまでその場から動かず、呪文の詠唱もするな。合図の前に何かしているのを見つけ次第、即座に失格とするから注意しろ。もし試合中にそれ以上の続行が危険だと私が判断した場合、即座に試合を中止する。――何か質問はあるか?」
あまりに何十回も聞きすぎて、逆に試合前にこれを聞かなきゃ物足りないくらいになってきたルール説明を聞きながら、アルとダイアは揃って返事をして頷いた。この流れも今日で終わりかと考えると、何だか感慨深いものがある、ような気がする。
そんなことを考えながら、アルはほんの少しだけ腰を落とした。
そして、
「それでは、試合開始!」
ザンガが宣言した、その瞬間だった。
ごおおおおおおおおおおおおお――!
“試合開始”を言い切ったかどうか微妙なタイミングで杖を取り出したダイアが、魔術によってアルに向けて発生させたのは、はっきり言ってしまえば“単なる風”だった。熱気や冷気などが含まれているわけでもなく、触れたら切り裂かれてしまうようなこともない、どれだけ人体に浴びてもまったく問題の無い普通の風だ。
「うおっ!」
しかし、その強さが尋常ではなかった。まるで爆発でも起きたかのような激しい音が広場中に鳴り響き、大量の土や砂が風に舞い上げられてアルへと襲い掛かった。あまりの風の勢いに、アルの体は目に見えない巨大生物に押し退けられるように体を仰け反らせ、足元がほんの一瞬だけフワリと浮き上がった。慌てた様子で地面に両手を付けるほどに体勢を低くする彼女だったが、ジリジリと体が後ろへと流されていく。
「うおっ! 何だこの風っ!」
「ぺっぺっ! 土埃が口に入った!」
「ちょっとー! 砂が目に入ったんだけどー!」
そして風によって舞い上がった土や砂の一部が観戦している生徒達の方へと流れ込み、それをモロに被ってしまった彼らから苦情の声があがった。しかし爆発のような激しい風の音が彼らの声すら掻き消しているため、風を発生させているダイアにはまったく届いていなかった。
「くっ……! この……!」
もっとも、声が聞こえたところでダイアにそれを聞く余裕は無いし、彼らを想って風を止めるなんて真似はしないのだが。
* * *
時間は、先程のバルコニーにまで遡る。
「そうね……。基本的に接近戦に持ち込まれたら、その時点でアウトだと考えた方が良いわ。あの子のパワーとスピードで接近戦を仕掛けられたら、接近戦用の武器や魔術を持たない魔術師が太刀打ちできるものではないわ」
ダイアはクルスの話を、じっと彼女を見つめながら聞き入っている。頷くような素振りを見せないのは、彼女の言うことを簡単に認めたくないというダイアの意地の表れだろうか。
「だからこそ最優先すべきことは、あの子を絶対に自分に近づかせないことね。魔術師の長所は何といっても射程距離だから、そのアドバンテージは絶対に崩すべきじゃない」
その言葉に対しては、ダイアも素直に頷いてみせた。むしろ見せつけているかのような力強ささえあった。
「だけど並の魔術をただ闇雲に放つだけでは、アルを捕まえることはかなり厳しいわ。そしてあなたには言い難いことだけど……、今のあなたの実力であの子を止められるだけの威力を持つ魔術って考えると、その選択肢はかなり限定されてくるわ」
「…………」
ぎりっ、とダイアの奥歯が鳴った。
いくらダイアがクラスでもトップを争うほどに成績優秀とはいえ、それはあくまで“普通クラス”の中での話だ。当然ながら特進クラスの生徒と比べると使用できる魔術も少ないし、同じ魔術でもその威力には明確な差が生まれてくる。ダイアもそれは分かっているのだが、こうして言葉にされるとその実感もかなりのものである。
しかしそれと同時に、ダイアは期待もしていた。
クルスが『選択肢はかなり限定されてくる』と表現したということは、少なくとも選択肢が皆無ではないということなのだと。
「だからダイアさんは、下手な小細工を使わずにシンプルな戦法で行った方が良いわ。下手に策を練ると、それだけあの子に付け入る隙を与えることになるだろうし」
「シンプルな戦法、ですか……」
「そう。できないことはしない。その場で考えたことを、ぶっつけ本番でやらない。場合によっては、後先考えずに1つの魔術だけでゴリ押しするって作戦も充分に考えられるわ」
「で、でも、そんなこと……」
「確かに本当の戦いだったらそんなことできないけど、これはあくまで期末試験よ? 向かい合った状態から始めるタイマン勝負で勝つための方法を考えるべきだわ。大丈夫よ、もっと実戦的なことは、これから身につけていけば良いんだから。――これが試験をテキトーに乗り越えてきた、先輩からのアドバイスね」
クルスはそう言って、おどけたようにウィンクしてみせた。普段は如何にも大人の女性といった美人な彼女だが、まるで十代の少女のような可愛らしさがあった。
そんな彼女に、ダイアは思わずプッと吹き出してしまった。体全体を包み込んでいる重苦しい緊張感が、ほんの少しだけ和らいだように感じた。
「私はあの子の保護者代わりだけど、それと同時にこの学院の教師よ。だから私は常に、あなたの味方よ。頑張ってきなさい」
「――――はいっ!」
まっすぐクルスの目を見据えて力強く返事をしたダイアに、クルスは我が子を見守る親のような優しい笑みを浮かべた。
* * *
「よしっ! このまま押し切れれば……!」
そのような遣り取りの後、試合開始の時間までたっぷり使って考えたダイアの結論は、風でアルを会場の外まで吹き飛ばす、という単純極まるものだった。熱風や冷風、さらには鎌鼬といった小細工は一切無くし、より大きな規模と風速を目指して全力で魔力を杖に注ぎ込んでいる。
「おっととと……!」
そしてそんな単純な戦法が、意外とアルを苦しめていた。遮蔽物の無い広場で掴める物といったらせいぜい草くらいであり、爪先を地面に突き刺して凌いではいるものの、彼女の体全体を支えるにはあまりにも心細く、ちょっとでも体を起こしたらその瞬間に飛ばされてしまいそうだ。
さらにアルにとって不利なのが、彼女の体重が軽いことだった。常人とは比べ物にならない身体能力を持つ彼女だが、その筋肉量は見た目には普通の女子と何ら変わりなく、他の女子生徒と比べても細身なので脂肪量も少ない。1回の食事で数十人前は食べているであろう料理は、いったいどこに消えているのだろうか。
もちろんアルも、ただ黙って耐えているだけではない。もしもダイアがとどめを刺そうと別の魔術に切り替えるか、ほんの少しでも風が弱まれば、その隙を狙ってすぐにでも飛び出せるようにしている。一旦動き回れるようになれば、彼女の魔術の照準を避けながら距離を詰めてそのまま殴りつけることができるだろう。
しかし、その瞬間がなかなか訪れない。しばらく耐えていれば向こうが痺れを切らすかと思っていたが、ダイアはイライラを表情に出しながらも愚直に風を送り続けているのみだった。
こうなったら向こうの魔力切れを狙うか、とアルが内心思ったそのとき、
「あっ、やば――」
地面に突き刺していた足が滑るようにして地面から離れたその瞬間、アルは自身の体が空中に投げ出されたのを肌で実感した。
「乞食が飛ばされたぞ!」
ギャラリーの1人による実況紛いの叫びすら風で掻き消される中で、アルは何かを掴もうとするような動作で懸命にもがいていた。しかし魔術を一切使えない彼女に、宙に浮く自身の体の軌道を変えるなんて真似ができるはずもなく、見えない存在に押されるように彼女は風に乗って後ろへと吹っ飛んでいく。
アルはちらりと後ろを見遣った。会場の境界を示す赤い線が、みるみる迫ってくるのが見える。
「くっ――!」
この線を越えたら負けが確定することから、彼女の顔に明らかな焦りが見え始める。そしてそれは、今までの試合を通して初めて彼女が見せた表情だった。
「よっしゃあ! このまま押し切っちまえ!」
誰かの力強い声援を糧にして、アルを押しやる風がますます勢いづいていく――と思われた。
「――ん?」
急激に風の勢いが弱まり、アルの体も徐々にそのスピードを落としていった。それに合わせて、アルの体も重力を受けてその高度を下げていき、やがて彼女の両脚が地面に接触した。
とはいえ、十代後半の少年が全力疾走したときくらいのスピードは残っている。アルは両脚から地面に向かって懸命に力を加えるが、夏の日差しを受けてビッシリと生え揃った芝生はよく滑り、なかなかブレーキが掛からない。
それでも、広場に2本の茶色い線を引きながら滑っていく彼女の体は、その摩擦力によって次第にスピードを落としていき、最後には芝生の根にでも引っ掛かったのかガクンと揺さぶられてその場に停止した。
その瞬間、アルはバッと音がつきそうな勢いで足元に顔を向けた。
半歩下がっていた彼女の右足が、赤い線を踏みつけていた。線の幅は彼女の足よりも短く、かかとの辺りが後ろにはみ出しているようにも見える。
それを確認すると、再びバッと勢いよく顔を上げて審判であるザンガに顔を向けた。
彼は試合開始のときと同じ位置で、真剣な表情でこちらを見つめている。試合会場は1辺が大股で50歩ほどになる長さの正方形なので、アルとの距離は大股で25歩ほどとなる。そんな遠くからはたしてちゃんと見えるのか少々疑問だが、この試験自体が今まで何年も行われているものなので問題無いはずだ。
その証拠に、ザンガは何かを見守っているような素振りではあるが、見えにくそうにしている様子は無かった。
そして数秒ほど後、ザンガが大きく腕を上げて口を開いた。
「――勝者、ダイア」
その瞬間、ギャラリーから大きな歓声があがった。それは本日の普通科での試合の中で一番の盛り上がりであり、ギャラリー達はダイアの勝利を“まるで自分のことのように”喜び、そして敗者のアルに対して心無い言葉を投げつける。
「うーん、やっぱりああいう展開に持ってかれると限界あるよなぁ……」
もっとも、投げつけられたその言葉は距離があるせいかアルのいる場所まで届かなかったようで、彼女は平然とした表情でそれを無視し、地面の赤い線を見つめながらぽつりと独り言を零していた。若干愚痴っぽく聞こえるニュアンスであり、表情とは裏腹にどことなく悔しさを滲ませているようにも聞こえた。
とりあえず戻るか、とアルは未だに歓声をあげるギャラリー達に向かって歩き出した。彼らに近づくに従って挑発染みた声が聞き取れるようになってくるが、それでも彼女はその平然とした表情を崩すことはなく、彼らと違って騒ぐ様子も無くこちらを見据えて立つダイアを見つめていた。
と、ダイアまで半分ほど近づいた頃、アルは訝しそうに眉を寄せた。
試合に勝ったというのに、ダイアが特に反応を見せない。いや、アルのような魔術も使えないストリートチルドレンに勝ったくらいで喜ぶのはプライドが許さない、というのなら話は分かるが、それにしたって身じろぎ1つしないのはどうにも不自然な気がする。
ザンガもそう思ったのか、おもむろに彼女に近づいて名前を呼び掛けた。しかしそれでも返事は無く――
どさっ。
「――――!」
と、そのとき、ダイアが突然その場に崩れ落ちて地面に倒れ込んだ。アルとザンガが目を見開き、同じタイミングで彼女へと駆け寄っていく。散々騒いでいたギャラリー達も、さすがに様子がおかしいと感じたのかザワザワと動揺しているのが伝わってくる。
そして救護担当の教師も彼女へと駆け寄り、地面に倒れるダイアを仰向けにして簡単な診察を始めた。手首に指を当てて脈を計ったり、彼女の目を開いて瞳孔を確認する。
「大丈夫です、単なる気絶で大事はありません。おそらく魔力を使いすぎたことが原因でしょう」
「分かりました。それでは先生は、彼女を保健室まで連れて行ってください。――君も、戻って構わない」
ザンガの指示に従って、救護担当の教師はダイアを連れて本棟へ、アルは生徒の待機場所でもあるギャラリー達の集う人混みへと歩いていった。両脇の生徒達がこれ見よがしにしたり顔で見つめているが、アルはそれら全てを無視して、バニラのいる場所へとまっすぐ歩いていく。
残念そうな、それでいて困惑しているような表情のバニラが、彼女を出迎えた。
「いやぁ、負けちゃった。やっぱり魔術師相手に正面突破って、厳しいものがあるよね――」
「ね、ねぇ、アルちゃん」
明るく笑いながら言葉を並べるアルにバニラが遠慮がちに話し掛け、そして少し迷う素振りを見せてから再び口を開いた。
「今の試合さ……、アルちゃんが外に出る前に、ダイアちゃんが気絶したんじゃないかな……? だとしたら、アルちゃんが勝ちってことにならない?」
「仮にそうだったとしても、ザンガが試合終了の宣言をするまでは立ってたでしょ。ダイアが気絶してたって確実な証拠は無いんだから、あの試合はダイアの勝ちで間違いないよ」
「……そっか」
これ以上口を挟むべきではないと悟ったのか、バニラはそこで追及を止めて黙った。
ふとアルは、学院の本棟へと顔を向けた。先程この場を離れた教師の後ろ姿が、正面玄関のすぐ傍に小さく見えた。そして彼のすぐ傍で、身じろぎ1つ無く横になっているダイアが、ちょうど彼の胸辺りの高さでフワフワと浮いているのが見える。
「…………」
2人が正面玄関の扉を開けて中へと入っていくのを見送ってから、アルはそこから視線を外してその場に腰を下ろした。




