第45話
突如空から箒に乗ってやって来たルークの姿に、オルファはニヤリと口角を上げた。その表情は、学院の使用人をしていた頃にはけっして見ることのできなかった、彼女の感情が表面に浮かんだものだった。
そんな中、ルークは突如乗っていた箒を放り投げた。そのまま落下するかと思われたが、次の瞬間、彼の体を荒れ狂う風が纏い、自然落下以上の早さでゴーレムに突っ込んでいった。
「うらぁっ!」
風系統の魔術・《ジェット・ストリーム》で攻撃力を底上げされたルークの蹴りが、ゴーレムに炸裂した。先程のヒビで脆くなっていたゴーレムに無数の亀裂が走り、それを発端としてゴーレムはガラガラと崩れ落ちていった。
「…………」
椅子に座ってその様子を眺めていたオルファは、口を開くこともせず、その場を動こうともしなかった。
身に纏う風で勢いを殺し、ふわりと地面に降り立ったルークは、足元を爆発させるような勢いで急加速をすると、そのまま今度はオルファの方へと突っ込んでいった。それでもなお、彼女が動く気配は無い。
ルークは一切止まることなく、彼女の鳩尾目掛けて蹴りを繰り出した。それは見事に決まり、彼女の体に無数の亀裂が走り、それを発端としてガラガラと崩れ落ちていった。
それは明らかに人間の体とは思えず、ばらばらになった彼女の断面図はどう見ても岩の質感だった。
「――偽物か!」
「ええ、その通りですよ、リヴァー様」
オルファの声に、ルークはとっさにそちらへと顔を向けた。
彼女は岩の瓦礫と化したゴーレムの向こう側に転がっている、呻き声をあげて地面に転がるリーゼンドのさらに向こう側に立っていた。彼女の足元の地面は、周りが芝生にも拘わらず、掘り返されたように地面が露出していた。
「いつの間に、そこまで移動を――」
「リヴァー様、何をそんなに不思議がっておられるのですか? 緑魔術を使うんですから、地面に潜って移動するくらい普通でしょう? ――それにしても、さすがリヴァー様ですね。先程の攻撃、まったく躊躇いがありませんでしたよ」
「それはどうも。そっちこそ、あんな精巧な偽物をとっさに作り上げるなんて、かなりの腕前だね。確かにそれなら、宝物庫の合い鍵を作るくらい簡単だろう」
「ふふふ、貴族様にお褒め頂くなんて、光栄の極みです」
口元を手で隠して笑うその仕草は、この学院に仕えていた使用人に相応しい気品に満ちたものだった。もっとも、浮かべている笑顔はまったくそれに似つかわしくない、人を小馬鹿にしていることが丸わかりのものであったが。
ルークは杖をオルファに向けたまま、ゆっくりと彼女に近づいていく。ちらちらとリーゼンドの様子を伺うが、彼女が彼を襲う素振りは見せない。
「どうやって“トンビ”を持ったまま、ここを出るつもりだったんだ? 入口では、衛兵が手荷物検査をやっているはずだけど」
「ふふっ、ただ機会を伺うためだけに潜入してたわけではないんですよ? そんなのを免除させてもらうようにさりげなく誘導できるくらいには、衛兵との信頼関係は築いています」
「成程……。次に潜入されたときのために、その辺りはもっと徹底しなきゃいけないね。――でもその前に――、まずは――君の――捕縛からだ」
ルークはそう言うと、リーゼンドの隣にまで移動したところで歩みを止めた。台詞の合間に呪文を唱え、いつでも魔術を放てる状態にしておく。それの影響か彼自身の威圧感からか、彼の雰囲気が冷たいものとなった。
しかしそんな状況に置かれてなお、オルファは右手に握る杖をこちらに向ける様子は無かった。先程からルークが注意深く観察しているが、呪文を唱える様子も見られない。
――彼女はいったい、どういうつもりなんだ……?
不敵な笑みを浮かべる彼女に、追い詰めているはずのルークは息の詰まる思いがした。
と、そのとき、オルファが突然ベストの中に手を突っ込んだ。しかも杖を持っている右手でなく、何も持っていない左手である。
「――――!」
それに反応したルークは、呪文の残りを完成させた。人の頭くらいはある大きさの氷の礫が即座に生まれ、オルファに向かって発射される。
今から呪文を唱え始めたとしても間に合わず、逃げるにしても距離が近すぎる。よってオルファは何もできずに、氷の礫を頭に食らって気絶する、
はずだった。
ずどぉんっ!
何かが爆発したような音と共に、オルファの左手から人間大の炎の塊が現れ、氷の礫を呑み込みながらルークに襲い掛かってきた。
「――――!」
何が起こったのかを考える暇も無く、ルークは膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。その直後、炎の塊がルークの頭上すれすれを通り過ぎた。
ほっと胸を撫で下ろす彼の視界に、オルファの爪先が飛び込んでくる。
がすっ!
顔面に思いっきり蹴りを入れられたルークの体は、大きく後ろに飛んで地面を大きく滑っていった。
しかし彼は即座に立ち上がると、たいしてダメージを受けた様子も無くオルファに向き直った。どうやら蹴りが当たる直前、後ろに跳んでダメージを軽減したらしい。
びししししっ!
すると今度は、オルファの足元の地面に突然深い亀裂が生まれ、それがルークに向かってまっすぐ伸びていった。もちろん自然に発生したものではなく、《クラック・ランド》と呼ばれる緑魔術によって引き起こされた現象だ。
ルークはすぐさま横に跳んでそれを避けるが、その隙を突くように、直径が両腕を広げたくらいの岩が幾つも飛んできた。避けるのは不可能と判断した彼は、即座に《エア・シールド》で自分の体に空気の鎧を纏う。
「ぐ――!」
岩がルークにぶち当たり、彼は苦しそうに呻き声をあげた。怪我はかろうじて避けられたものの、衝撃までは抑えきれなかった。
そしてルークが顔を上げた次の瞬間、彼の視界が突然がくんと下がり、地面が胸元にまで迫ってきた。強烈な圧迫感が彼の体を縛りつけ、胸より下と肘より先をぴくりとも動かすことができない。
「くそっ――!」
「ふふふ、捕まえましたよ、リヴァー様」
胸より上のみを残して地面に埋まるルークを眺めながら、オルファは微笑みながらそう呼び掛けた。
ルークは小さく舌打ちをすると、その視線を彼女の左手へと移した。
そこに握られていたのは、L字型をした奇妙な金属の物体――“トンビ”だった。先端は細長い筒状になっており、そこから先程の炎の塊が飛び出したと思われる。
「まさか“トンビ”が、あんな効果のある道具だったとは……」
ルークの戸惑うような言葉に、オルファはにやりと笑みを浮かべた。
「あら、リヴァー様、ひょっとしてご存じなかったんですか? まぁ、それも仕方ないですね。宝物庫の中身については、生徒達には秘密にされていましたものね。外部の人間だった私は知ってましたけど」
オルファは“トンビ”を撫でるように触りながら、ゆっくりとルークに近づいていく。
「呪文の詠唱も無しに、赤魔術を使えない人間でも、引き金を引くだけで簡単に炎を飛ばすことができる。――どうです、なかなか便利でしょう?」
「……確かに、君が狙うのも頷ける」
「でもこれ、もの凄く効率が悪いんですよ。これを使うためには魔力が必要なんですけど、暇を見つけては魔力を注ぎ込んできたのに、今の一発で空になってしまったんですよ? ひょっとしたら、もっと別の方法があるのかもしれませんね」
「……良いのか? 僕にそんなことを教えてしまって」
「別に構いませんよ。それで私が不利になるとも思えないし。――まぁ、色々調べるのは帰ってからにするとして、まずはここから逃げ出さないといけませんね」
ルークのすぐ目の前までやって来たところで、オルファは歩みを止めた。そして“トンビ”をベストの内ポケットにしまうと、右手の杖を彼へと向けた。
「――くっ!」
ルークは苦悶の表情を浮かべ、リーゼンドの方へと視線を向けた。気絶してしまったのか、地面に転がったままぴくりとも動かない。
「それではご機嫌よう、リヴァー様。なかなか楽しかったですよ」
オルファはにっこりと笑みを浮かべると、小さく呪文を唱えて――
ぶわっ!
「――――!」
「――――!」
オルファの足元、さらにはルークの胸元の地面に、突如タンポポが咲き誇った。それも1株や2株どころではなく、地面が真っ白に染まるほどにびっしりとした群れだった。
そして2人が目を丸くしているその間にも、タンポポの綿毛が風に乗って舞い上がっていった。あっという間に、オルファの視界が真っ白に塗り潰されていく。
「……ヴァルシローネ様か」
様々な能力を持った魔術師が大勢いる学院といえど、タンポポを使う人物は1人しかいない。オルファは小さく呟くと、本棟の角へと視線を飛ばした。
広場を突っ切るように帯状に咲いたタンポポの群れは、その質感と相まってまるでカーペットのようだった。そしてそのカーペットの行き着く先に、学院の陰に隠れてこちらを見遣るバニラの姿があった。
しかしそれが見えたのはほんの一瞬で、一瞬でタンポポの綿毛に塗り潰されて彼女の姿は見えなくなった。
――リヴァー様が今にもやられそうだから、とりあえずタンポポで目眩ましをしてみた、ってところかしら……?
オルファはそんなことを考えながら、小さく呪文を唱えた。杖の先端に小さな鎌鼬が生まれ、バニラに向かってまっすぐ放たれ――
「――――!」
そうになったところで、オルファは杖を持つ右手に鋭い痛みを感じ、思わず杖を落としてしまった。発動直前になっていた魔術も、魔力の供給が切れたことで自然に消滅する。
オルファがちらりと目を遣ると、右手の親指の付け根から人差し指にかけて赤い線が1本描かれ、そこから血が1筋垂れていた。
「……最後の最後で油断したね、オルファ」
そんな彼女の目の前で、ルークがそう言いながら地面から這い出てきた。胸元から下、肘から先はどろどろに汚れており、彼の足元もタンポポが真っ黒に染まるほどに泥塗れになっている。
「……地面に埋められても、杖から手をお離しにならなかったのですね。さすがです」
「魔術師が杖を離したらお終いだからね」
ルークはその杖をオルファに向けながら、ゆっくりと噛みしめるようにそう言った。オルファはそれを聞いて溜息をつくと、ゆっくりと両手を頭の上の位置まで挙げた。
彼は地面に埋められた後も、隙を突いてそこから脱出する機会を伺っていた。それ自体は水を地面に染み込ませて地面を柔らかくする方法で良かったのだが、問題はそれをすると地面がぬかるんで間違いなくオルファにばれることだった。
しかしここで喜ばしいことに、駆けつけたバニラがタンポポで地面を覆い隠してくれた。おかげで彼はオルファに悟られることなく腕を地面から出し、《ウィンディ・シザーズ》で彼女の杖を飛ばしたというわけである。
「はぁ……、はぁ……、だ、大丈夫、ルークくん?」
と、そのとき、バニラが息を切らしてルークの下へと駆け寄ってきた。
「うん、バニラさんのおかげで助かったよ。ありがとう」
「え……、そ、そうなの? 何だかよく分からないけど、ルークくんが無事ならそれで良いや……。――って、リーゼンド先生! ど、どうしよう、もしかして気絶してる? 早くシン先生の所に運ばないと――」
「バニラさん、待って! 骨折しているかもしれないから、下手に動かそうとすると内臓を傷つけるよ。リーゼンド先生を運ぶのは、こっちを片づけてからだ」
オルファから一切視線を逸らさないルークの言葉に、バニラはとっさにリーゼンドから手を引っ込めた。そして彼女は怖々とした様子で、彼に杖を向けられているオルファへと視線を移した。
自身の杖を失い、目の前で相手に杖を向けられ、自分の両手は頭より上に挙がっている。予備の杖や別の武器を取り出そうにも、すぐさま反撃を食らってしまう状況だ。
そんな絶望的な状況に置かれてなお、オルファは口元の笑みを消すことはなかった。
「どうした、オルファ? 何がそんなに可笑しい? もう魔術は使えないんだ、そんな余裕ではいられないことくらい分かるだろう?」
口ではそんなことを言っているルークだったが、その視線は鋭く、杖を握る手には自然と力が籠もっていた。隣にいるバニラも、固唾を呑んで彼女を見つめている。
2人の視線を一身に浴びながら、オルファはゆっくりと口を開いた。
「本当にこれで――、私が魔術を使えないと――お思いですか? 本当に温いですね――、お2人は」
「――――!」
「きゃっ!」
その瞬間、ルークはいきなり隣のバニラを強く突き飛ばした。彼女の体は大きく吹っ飛び、尻を地面に強かに打ちつけた。
鈍く走る痛みに顔をしかめながらバニラが顔を上げた次の瞬間、彼女のすぐ目の前の地面から岩の壁が迫り出した。
「ルークくん!」
驚くバニラの目の前で、ルークの姿が岩の壁に阻まれて見えなくなった。岩の壁はオルファとルークの周りを囲むように現れ、2人をドーム状に包み込んで密閉した。
「ど、どうしよう! 早く壊さないと……」
バニラは慌てて杖をドーム状の岩に向けたが、ふと彼女の動きが止まった。まともな攻撃魔術すら繰り出せない彼女では、その岩を壊せるはずがないからである。
彼女がおろおろと眺めている内に、その岩のドームが独りでにがらがらと崩れ落ちた。当然ながら、ドームの中にいた2人の姿も明らかとなる。
「――ルークくん!」
頭から血を流して地面に倒れ伏すルークの姿に、バニラは口を手で押さえて悲痛な叫び声をあげた。そしてそんな彼のすぐ隣に、平然と立っているオルファの姿もあった。
「……まぁ、こんなものですか」
オルファはぽつりと呟くと、ふいとバニラに視線を向けた。たったそれだけで、彼女の肩がびくんっ! と跳ねる。
「さてと、これで残るはヴァルシローネ様お1人となりましたね。……ということは、ここにいる3人を始末してしまえば、私が犯人だと知っている人はいなくなりますね」
オルファはそう言って、ゆっくりとバニラに近づいていく。バニラは顔を真っ青にして、彼女から離れるように後ずさる。
「……わ、私達をこ、殺しても、意味は無いですよ……! ほ、他にも、知ってる人はいるから……、いずれ分かることで――」
「ああ、確かにシルバ様ならご存知でしょうね。でもあのお方は、本当にそれを公言なさるでしょうか? アル様がここからいなくなる、絶好の機会だというのに」
「そ、そんなこと……」
自分の命の瀬戸際なのだからきっぱり否定すれば良かったのだが、バニラは悲しいことにそれができなかった。
オルファはにやりと笑みを浮かべると、その杖を彼女へ向けて――
「あれ? あそこにいるのって、リーゼンド先生じゃない? なんであそこで寝てるんだろう?」
「ていうか、その近くにいるのって、ルークくんじゃ――って、ルークくん血流してるじゃない! だ、誰か先生呼んできて!」
「あそこにいる女の子、杖持ってるけど……。え、まさかあの女の子が、ルークくんを襲ったってこと……?」
突然聞こえてきた幾つもの声に、オルファとバニラがそちらを向いた。
彼女達がいるその広場は、本棟の廊下からその景色を臨むことができる。そこから生徒達がこちらを覗き込み、驚いたように次々と声をあげていた。
「……どうやら、時間を掛けすぎたみたいですね。仕方ない、ここは大人しく身を引くとしますか。どうせ目的の物は手に入れたことですし」
「ま、待って――」
オルファの声に気づいたバニラが駆け寄ろうとするも、そのときにはすでに彼女の体は半分地面に埋まり、1秒もしない内に彼女の姿は完全に見えなくなっていた。
帯状にタンポポが咲き誇り、あちこちに岩の瓦礫が山積みになり、一部が掘り返されたように土が露出し、何日間も雨が降ったようにぬかるんだ場所も存在するその広場で、
「そ、そんな……」
地面に倒れ伏して気絶するリーゼンドとルークを視界に捉えながら、バニラは呆然としたようにそう呟いた。




