第39話
こんこん、とバニラは遠慮がちに厨房の扉を叩くと、「すみません、失礼します……」とこれまた遠慮がちに頭を下げながら中に入っていった。その様子は、他国とはいえ彼女が貴族の人間だとはとても思えない。
厨房では皿洗いといった朝食の片づけと、料理の下拵えといった昼食の準備が同時に行われていた。何人もの料理人が忙しなく動き回り、あちこちで怒号が飛び交っている。
そんなときに入口から聞こえてきた少女の声に、彼らは最初迷惑そうな表情を浮かべてそちらに目を遣った。しかしそれがバニラだと分かると、途端にその表情を強張らせて一瞬動きを止めた。
「これはこれは、ヴァルシローネ様じゃありませんか! こんな所まで、いったいどのようなご用件で!」
その中の1人・ボルノーが、慌てた様子でバニラの所まで駆け寄ってきた。いくら彼の方が年上だろうと、学院の人間であるバニラに歩み寄らせてはいけないのである。
それが使用人にとっての常識なのだが、バニラは実に申し訳なさそうに彼にお辞儀をしてから、
「え、えっと……、お弁当を2人分用意してほしかったんですけど……。何だかとても忙しいみたいで――」
「いえいえ、ヴァルシローネ様がお気になさることではありませんよ! お弁当2人分ですね、任せてください! 腕に寄りを掛けて、最高の一品を作ってご覧にいれましょう!」
「は、はい……。えっと、ありがとうございます」
「いえいえ、我々を気遣ってくれる、そのお気持ちだけで充分ですんで!」
ボルノーの言葉に、バニラはほっと胸を撫で下ろして笑みを浮かべた。しかしすぐに表情を引き締めると、これまた申し訳なさそうに問い掛ける。
「あの、皆さんに幾つか聞きたいことがあるんですが……、いつ頃だったら手が空いてますか?」
「聞きたいこと、でございますか? 厨房の者でしたら、昼食の時間が過ぎれば多少は手が空きますが……」
「分かりました。その時間になったら、こちらからお伺いします」
バニラはそう言ってお辞儀をすると、そのまま振り返って立ち去ろうとした。しかしボルノーに呼び止められ、彼女の動きは途中で止まった。
「もしかしてヴァルシローネ様がお聞きになりたいことというのは、昨日の盗難事件のことでございましょうか?」
「はい、そうですけど……」
「あの……、本当にあの子が、盗難事件の犯人なんでしょうか……?」
恐る恐るといった感じで、ボルノーがそう尋ねた。その後ろでは料理人達が自分の仕事をこなしながらも、時折心配そうにちらちらとこちらに目を遣っている。
バニラは改めて彼らに向き直ると、
「いえ、私はそうは思いません。それを証明するためにも、皆さんの協力が必要なんです」
「そ、そうですか! 良かった……!」
ボルノーは本当に嬉しそうにそう言った。他の料理人達も、それぞれ顔を見合わせて破顔している。
「これでオルファの奴も、少しは気ぃ紛れると良いんだが……」
ボルノーの呟きに、ぴくり、とバニラが反応する。
「オルファというのは、ずっとアルちゃんのお世話をしていた給仕の方ですか?」
「おや、ご存知でしたか?」
「はい、私もアルちゃんから紹介されたことがありますから」
「ええ。嬢ちゃ――アル様ともすっかり仲良くなってたんですが、昨日のことが堪えたみたいで、今朝からずっと調子が悪かったんですよ……。とりあえず今のところは、自分の部屋で休ませてはいるんですが……」
「……あの、その子から話を聞くことってできますか?」
「オルファに、ですか? ……一応案内はしますけど、無理そうだったらやめてあげてくださいね」
ボルノーの提案に、バニラは真剣な表情で頷いた。
「それでは行きましょうか。――おい、おまえら! 俺はちょっと出てるから、その間ちゃんと仕事しとけよ!」
「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」
ボルノーの呼び掛けに、料理人達は一斉に声を揃えて返事をした。まるでよく訓練された軍隊のような光景に、びくっ! とバニラの肩が跳ねる。
「こちらへどうぞ、ヴァルシローネ様」
「は、はい……。よろしくお願いします」
未だにばくばくと脈打つ心臓を押さえつけながら、バニラは頭を下げた。
* * *
使用人のための宿舎は、学院を取り囲む塀に寄り添うようにひっそりと建てられている。ひっそりといってもけっして小さいわけではなく、3階建てのそれは上等な集合住宅のようにしっかりしている。
ボルノーに連れられて玄関に足を踏み入れたバニラは、そのまま1階の廊下を歩いていき、一番奥の部屋の前に差し掛かった所で足を止めた。
「オルファの部屋はここです。それで大変申し訳ないのですが、私は仕事がありますので、ここで失礼させて頂きたく……」
「はい、大丈夫です。ここまで送ってくださり、ありがとうございました」
バニラのお辞儀に、ボルノーはそれより深いお辞儀で返すと、若干早歩きでその場を去っていった。バニラはその後ろ姿を見えなくなるまで見送ってから、部屋のドアを軽くノックした。
中で何やら物音がして、がちゃり、とドアが開いた。
「はい、どちら様で――ヴァルシローネ様!」
ドアから顔を出したオルファは、来客がバニラであることを知った途端、驚きで目を丸くした。
「な、なぜ、このような所へ!」
「えっと……、オルファさんから昨日の盗難事件について話を聞きたくて、ボルノーさんにここまで案内してもらい――」
そこまで言ったところで、バニラの言葉は遮られた。
カッと両目を見開いたオルファが、彼女の両肩を掴んで詰め寄ったからである。
「ひっ――」
「ヴァルシローネ様! アル様は無実なんです! きっと誰かに嵌められたんです! お願いです、信じてください!」
「だ、大丈夫です! 私もそう思って、ルークくんと一緒に調べてるところなんです!」
その言葉で我に返ったのか、オルファははっとなってバニラから手を離すと、そのまま土下座する勢いで頭を下げた。
「も、申し訳ありません、ヴァルシローネ様! わ、私、とても失礼なことを!」
「だ、大丈夫ですよ、私は気にしていませんから。――話を聞きたいんですけど、中に入っても良いですか?」
「えっと……、貴族の方がいらっしゃるような所ではありませんが……、宜しかったらどうぞ」
部屋の中を見て一瞬迷った様子を見せたオルファだったが、すぐに頭を下げてドアを大きく開けた。バニラも軽く頭を下げると、部屋の中へと入っていった。
2段ベッドが2つ並び、それに挟まれるように共用の洋服箪笥が1つ、そして手前の壁に寄せるように共用の机と椅子が1つ置かれただけの、とても質素で単純な部屋だった。広さはバニラの部屋よりも小さく、さぞかし窮屈な想いをしているだろうことが伺える。
「えっと、狭い所ですけど、どうぞお掛けください」
オルファはそう言うと、この部屋に唯一ある椅子を差し出した。バニラは礼を言ってそれに腰掛け、オルファはその正面に立った。
「それで、私は何にお答えすれば宜しいのでしょうか?」
「えっと、それじゃ……、使用人の皆さんの中で、昨日宝物庫に近づいた人はいますか?」
それを聞いて、オルファの表情が若干曇った。
「……ひょっとして、使用人の中に犯人がいるのでしょうか?」
「いえいえ、そういうわけではないです! ただ今は、とにかく情報を集めたいと思って」
「そうですか、大変失礼致しました。――そうですね……、宝物庫の前の廊下を掃除した人ならいると思いますけど……」
「中に入ることはできますか?」
「まさか! 宝物庫の鍵は厳重に管理されていて、使用人がそれに触れることはまずありません」
オルファの証言を聞いて、バニラは何やら考え込むと、
「オルファさんは、宝物庫の鍵が普段どこに保管されているか、ご存知ですか?」
「はい、それくらいなら。学院長室です」
「……使用人の方が、学院長室に入ることはありますか?」
「はい。主に掃除したり、備品を交換するときに。ですがそういったことは、必ず学院長本人がいらっしゃるときに行います。今は学院長が外出なさっている最中ですので、学院長室に入ることはできません」
「学院長室の鍵は、誰が持っていますか?」
「今回のときには、学院長自身がお持ちになってお出掛けになります」
「……本物を盗み出すのは、不可能か」
学院長室のドアにも窓にも、宝物庫と同じように《セーブ》が掛けられている。つまり中に侵入するためには、合い鍵を作らなければいけないことになる。
結局合い鍵を作らなければいけない以上、真犯人は緑魔術に精通した人間と見て間違いないだろう。
「そういった掃除って、他の先生方の部屋でもやるんですか?」
「はい。当番制になっていまして、だいたい2週間に1回といったところでしょうか」
「……アルちゃんの部屋も?」
「いえ。あの部屋はマンチェスタ様自身が掃除をなさっているとのことで、我々使用人は立ち入りを許可されておりません」
「へぇ、そうなんだ……。――話を変えますね。使用人の皆さんの中で、緑魔術に精通している方はどれくらいいますか?」
「……壊れた備品を修理してくれる方は、何人かおりますけど……。どこまでできるのかは、申し訳ありませんが分からないですね……」
「それでも構いません。オルファさんが知ってる、緑魔術を使える使用人の方を教えてもらえますか?」
バニラの申し出に、オルファは快く応じた。彼女の口から淀みなく出てくる名前を、バニラは手持ちの手帳に書き連ねていく。
「ちなみにですけど、オルファさんは?」
「風系統なら割と得意な方ですが、緑魔術となるとからっきしです。他の人にも訊いてくだされば分かると思います」
「そうですか……」
バニラはそう呟くと、そのことも手帳に書き留めた。
「次の質問に移りますね。――オルファさんは昨日、怪しい人を見掛けませんでしたか?」
「見ていません」
やけにはっきりと、オルファは即答した。
「なんで言い切れるんですか?」
「私はこの学院に勤めていらっしゃる先生方はもちろん、生徒の皆さんの顔も全員憶えています。もし外部からの侵入者がいれば、私が気づかないはずがありません」
そう言い放つオルファの表情は、給仕という仕事に対する誇りに充ち満ちたものだった。嘘を言っている様子は微塵も感じられない。
「それじゃ……、オルファさんが知っている人の中で、宝物庫へと向かっていく、あるいはそこからやって来るのを見ましたか?」
バニラの質問に、オルファはしばらく考える素振りを見せて、
「……ひょっとしたら見ているのかもしれませんが、あまり意識してなかったので、正直憶えていません……。お役に立てず、大変申し訳ないのですが……」
「そんな、気にしないでください。別の人が犯人の姿を目撃しているかもしれませんし」
落ち込む彼女を励ますように、バニラは努めて明るい声でそう答えた。
しかしオルファから返ってきたのは、バニラにとって意外な言葉だった。
「……本当に、そうでしょうか……?」
「……それって、どういう意味ですか?」
バニラがそう尋ねると、先程のは無意識な発言だったのか、オルファははっと目を見開いて勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ありません! 私みたいな人間が、ヴァルシローネ様のお考えに口を挟むなんて差し出がましい真似を――」
「い、いや、別にそれは構わないんですけど……。オルファさん、何か思いついたことがあったのなら、私に教えてくれませんか?」
バニラのお願いに、オルファはしばらく言い淀むように視線を泳がせていたが、やがて決心したのか、バニラへとまっすぐ向き直る。
「これはあくまでも私個人としての考えなのですが……、今から犯罪をしようという人が、そう簡単に姿を見られるような真似をするかな、と思いまして……」
「成程……」
「例えば、誰もいない時間帯を見計らうとか……。もしかしたら、自分の姿を隠すような魔術を使って、こっそりと宝物庫に近づくぐらいはするのではないでしょうか……?」
「姿を隠す魔術……?」
「あ、あの、別に何か根拠があってそう言ったわけではなくて……! 私はあまり魔術に詳しくないので分かりませんが、そういった魔術もあるんじゃないかな、と――」
オルファはわたわたと慌てながら頻りに頭を下げていたが、残念ながらその言葉はバニラには届いていなかった。
なぜなら彼女は、それを聞いていられるような精神状態ではなかったからである。
――そうだよ、なんで今まで気づかなかったんだろう……! 誰にも見られずに盗み出す方法もあるはずなのに……!
そしてバニラは、オルファの話を聞いてから或る人物がずっと頭に浮かんでいた。
――リーゼンド先生なら、《トリック・アート》を使って、誰にも見られずに宝物庫まで辿り着ける……!
「あの……、ヴァルシローネ様?」
心配そうに声を掛けたオルファによって、バニラは我に返った。
「あっと……、ごめんなさい」
「いいえ、別に構いませんけど……。お聞きになりたいことは、以上で宜しいですか?」
「すみません、最後にもう1つ。――アルちゃんって、いつも何時頃にお風呂に入っていましたか?」
「お風呂、ですか……? いつもは我々使用人と同じ時間ですが……」
「……ひょっとして、皆さんがお風呂掃除をするのって、その直後だったりしますか?」
「はい、そうです。アル様にも、よくお手伝い頂いておりました。我々は構わないと言ったのですが、アル様は『お風呂に入れてくれたお礼だから』とおっしゃってくれて……」
オルファの話を聞いて、バニラは思わず顔をしかめた。
「……分かりました。――質問は以上です。ご協力、誠にありがとうございます」
そう言って立ち上がるバニラに、オルファがすっと近寄る。
「あの……、これからヴァルシローネ様は、他の使用人にも話をお聞きになるのでしょうか?」
「はい、そのつもりですけど……」
「でしたら、私が案内を致しましょうか?」
「えっ? でもオルファさんは、体の調子が悪くて休んでたんじゃ……」
「アル様の一大事に何もできないなんて、そっちの方が辛いです! たいしてお役には立てませんが、ぜひともヴァルシローネ様のお手伝いをさせてください!」
思わず圧倒されてしまいそうなオルファの力強い目つきに、バニラはふっと笑みを浮かべると、
「オルファさんに手伝ってもらえるなんて、こちらも心強いです。よろしくお願いします」
「――はい、ありがとうございます!」
そう言って頭を下げるオルファに、バニラはますます笑みを深くした。




