第30話
数々の波乱を呼んだあの演習から1週間余りが経過した、第2月第2週の赤曜日。
本日の授業がすべて終わった後、普段ならばようやく訪れた休息の時間にほっと一息つくはずの教師達が、何やら慌ただしい様子で或る部屋に集まっていた。
そこは“職員会議室”と呼ばれている部屋であり、読んで字のごとく、教師や職員が話し合いを行うための部屋である。30人近くに上る教師が一度に入れる部屋だけあって、なかなかの広さを誇っている。
部屋の中には長い机と椅子が長方形に置かれ、教師達がそこにずらりと並んで腰掛けていた。彼らの表情は目に見えて険しく、ぴりぴりとした空気が部屋中に漂っている。
そんな険悪な雰囲気の中、本日の司会進行役を務める1人の教師が、かなり緊張した様子で口を開いた。
「それでは、会議を始めます」
その言葉によって、会議は幕を開けた。正面の壁に取りつけられた大きな黒板に、書記係の教師がかつかつと音をたてて文章を書き連ねていく。
その内容は、次の通りだった。
『アルを学院の生徒と同様に扱うか否か』
事の発端は今から1週間前。例の演習において生徒に混じって参加していたアルが、碌に魔術を使えないにも拘わらず、特進クラスの生徒をも圧倒する成績を叩き出してみせた。あまりにも意外な結末に、当初は何か不正を行ったのではないか、という意見が教師達から湧き上がった。しかし残念ながら、調べれば調べるほどそれは否定されていった。
しかしその後、それ以上に意外な出来事が起きた。
なんとこの結果を受けて、学院長直々に、アルをイグリシア学院の生徒と同様に扱うとの決定を下したのである。
あくまで“生徒と同様”であり、正式に生徒として登録される訳ではない。しかしこの決定によって、学院の教師による授業を受け、食堂への出入りなどが可能になるなど、普通の生徒が持っている権利を享受できるようになった。
だがこれに対して、教師のほとんどがこぞって反発した。今まで学院長には絶対服従だった彼らにしては、かなり異例な事態であった。しかしわざわざこうして話し合いの機会を設ける辺り、彼らも本気ということだろう。
いや、“話し合い”というよりは“説得”と表現した方が正しいだろう。彼らは最初から賛成派であるクルスの話など聞く気は無く、自分達の考えを認めてもらうことに腐心しているばかりだからである。
「随分とまぁ、熱心なことで……」
唯1人中立の立場を貫いているシンが、部屋の隅っこの席でぽつりと呟いた。しかしその声は、反対派である教師の熱弁で掻き消された。
「この学院はイグリシアの建国以来数百年続く、由緒正しき教育機関です! 生徒のほとんどは貴族であり、中には侯爵家の御子息もいらっしゃるのです! そんな中に乞食の少女を紛れ込ませるなど、この学院の歴史に泥を塗るつもりですか!」
「この学院には貴族だけでなく、平民の子供も多数在籍しています。身分の貴賤無く平等に教育を施すのが、この学院の歴史であるはずです。そうであるならば、たとえ平民であろうと、可能性のある人物を生徒として扱うことは至極当然なことです」
クルスの返答に、今度は別の教師が噛みついた。
「可能性のある人物だと? はっ! 何を言っているんだ! 話を聞くと、そいつは箒にすらまともに乗れないそうじゃないか! あのヴァルシローネの落ちこぼれですら、箒に乗れるというのに!」
「確かに彼女には、魔術の才能はありません。むしろ欠落しているといっても良い。――しかし、それを補って余りある身体能力と頭脳があります。彼女の存在は、必ずや他の生徒にとって良い刺激となるでしょう」
クルスの発言が終わるや否や、さらに別の教師が食ってかかる。
「身体能力だぁ? ここは魔術を教えるための学院だぞ? そんなもん鍛えたって、魔術には何の役にも立たないじゃないか。それでどうやって、生徒にとって良い刺激になるつもりなんだ?」
「……それについては、あちらのお二人から説明してもらいましょうか」
クルスは含みのある笑みを浮かべると、すっと或る方向を指差した。それに釣られて、他の教師達もそちらへと顔を向ける。
「……ああ、成程」
そしてそこにいる2人の人物の姿を認めるや否や、彼らは明らかに侮蔑の意味が込められた笑みを浮かべた。
その人物とは、議会が始まってから一度も口を開かずに沈黙していた、リーゼンドとシルバだった。
「お2人はアルと戦ったことがありますよね? そのとき、リーゼンド先生とは普通クラスのバニラが、シルバ先生とは特進クラスのルークが、それぞれ彼女と共闘していたはずです。――お2人は彼女達と戦って、どのような印象を抱きましたか?」
「…………」
「…………」
クルスの質問に、リーゼンドは答えたくないとばかりに視線を逸らし、シルバは不機嫌そうに彼女を睨みつけながら口を開いた。
「どうと言われてもな……、特にこれといった印象は無かったが」
シルバのその言葉は、誰の目から見ても苦し紛れのものであることは明らかだった。
クルスは教師達全員を見渡すように視線を配ると、まるで演説でもするかのように話し始めた。
「ルークは確かに特進クラスで一番の成績を修める優秀な生徒ですが、単独でシルバ先生を倒すほどの実力はありません。しかし先の演習の結果は、皆さんのご存知の通りです。アルによって、彼は本来の実力以上の結果を引き出せたのです」
「いいや、それは違う。あれはあいつがたまたまあの場に居合わせただけであって、あいつのおかげであんな結果になったわけではない。偶然に偶然が重なっただけのことだ。あいつはまったく関係していない」
きっぱりとクルスの言葉を否定したシルバに、彼女はむしろさらに笑みを深くした。
「成程。つまりシルバ先生は、生徒に嘗めて掛かったために足元を掬われてしまった、と言いたいのですね? ――“あのとき”みたいに」
「――貴様!」
がたん! と椅子をひっくり返して、シルバは思わず立ち上がった。しかし周りの視線にすぐ気がついたのか、すぐに大人しくなって静かに腰を下ろした。
「リーゼンド先生に関しては、さらにそれが顕著です。あのときアルの傍にいたのは、皆さんもご存知の通り、普通クラスで実技の成績が最下位のバニラ=ヴァルシローネでした。しかしリーゼンド先生の《トリック・アート》を破ったのは、他ならぬバニラの魔術なんですよ」
その言葉に、教師達がにわかにどよめいた。当のリーゼンドは相変わらず視線を逸らして口を噤んだままだが、体がぷるぷると震えるくらい拳をきつく握りしめている。
「彼女の“タンポポを咲かせる魔術”が、リーゼンド先生にとっての天敵になるなんて、誰もが思い至らなかった事実です。しかし後でバニラに尋ねたところ、最初にそれに気づいたのはアルだそうですよ」
「…………」
「確かに私達は、魔術に精通しています。だからこそ見えないこと、気づけないことがあるのではないですか? 魔術が使えないために他の技術を磨いてきた彼女だからこそ、そのようなことに気づけるのではないですか?」
「…………」
クルスの言葉に、誰も反論しなかった。彼女はゆっくりと部屋中を見渡してそれを確認すると、満足そうに笑みを浮かべながら席に着いた。
――まったく、嬉しそうな顔しちゃって。
表向きは頬杖をついてさも興味なさそうな態度のシンが、遠くからクルスを眺めてそんなことを思っていた。
と、そのとき、1人の人物が口を開いた。
「まぁ、確かに前例の無いことですから、皆さんが戸惑う気持ちも分かります。ですが、いつまでも凝り固まった既成概念に囚われているのは、あまり良いものではありませんよ」
その瞬間、クルスとシンを除くすべての教師達に緊張が走った。皆が一斉に姿勢を正し、その人物の言葉に耳を傾ける。
その人物こそ、この学院の最高権力者にして今回の議会を行う原因となった張本人である学院長だった。
「ちょうど良いことに、私は明日から2週間ほど私用でここを離れます。なのでそれまでの間、彼女には“体験入学”ということで授業に参加してもらいましょう」
「待ってください、学院長! それは――」
「実際にやってみた方が、皆さんも判断がしやすいでしょう? 彼女を正式に入学させるかどうかは、それからでも良いのではないでしょうか?」
「…………」
誰も口を開かなかった。反対意見が無いからか、それとも学院長に面と向かって反論するのが怖いからなのかは、さすがに判断がつかなかった。
皆が緊張で体をがちがちに強張らせる中、にこにこと笑みを携えるクルスがやたら印象的だった。
「――調子に乗りおって」
そしてそんな彼女を睨みつけながら、シルバがぽつりと吐き捨てた。
* * *
その日の夜、もうすぐ日付も変わろうかという頃。
「というわけで、わたし、明日からこの学院の生徒になるみたい」
「それは大変素晴らしいですね! おめでとうございます!」
そんな遅い時間に、アルはクルスの部屋にて、給仕のオルファに髪を梳かしてもらっていた。二人の髪はしっとりと湿り気を帯びており、その頬はほんのりと紅く染まっている。
それもそのはず、2人はつい先程まで風呂に入っていたのである。
この学院では、風呂に入る時間が明確に定められている。最初に教師、その次が生徒であり、生徒の就寝時間になってようやく使用人が入ることができる。
イグリシア国では、身分によって風呂の形式も変わってくる。基本的に貴族は湯船にたっぷりと湯を張ってゆったりと入るのだが、そんな金銭的余裕の無い大抵の平民は、3日くらいに一度の蒸し風呂で済ましてしまう。
しかしながらこの学院では、特例として使用人も湯船を使う許可が与えられている。もちろん、その後の風呂掃除を行うことが交換条件だが。
ここで、アルがどの時間帯に入るのか、という問題が発生した。最初はクルスと一緒に入ろうとしたのだが、生徒でもない乞食の少女が生徒よりも早く入ることに対して反発があった。だからといって、生徒と一緒だと無用な問題を引き起こしかねない。
なのでアルは、オルファ達使用人と一緒に入ることになった。そして当然と言わんばかりの流れで、アルの入浴後の手入れをオルファが行うようになったのである。
「それにしても、大変失礼ですが、アル様は魔術が不得手だとお聞きしておりました。しかもアル様は平民でいらっしゃいます。そんなアル様が入学するとなると、かなり反発があったんじゃありませんか?」
「だからこその“体験入学”ってやつよ。逆に言えば、これからの2週間が正念場ね。この間に、反対してる奴らを黙らせるだけの結果を出さなきゃいけないわ」
オルファの質問に答えたのは、部屋の隅に置かれた机に向かい、昨日行われたテストの答え合わせをしているクルスだった。アル達の方に一切顔を向けず、淀みない動きで赤ペンで答案用紙に書き込んでいく。
「まぁ、アルなら結果なんてすぐに出せると思うけどね」
「……何やら、自信がおありのようですね」
首をかしげるオルファに、クルスは1枚の紙を差し出すように放り投げた。紙は空気抵抗を受けて緩やかに宙を滑り、オルファがわざわざ動くことなく彼女の両手に収まった。
「昨日、3年生の戦闘科でやったテストよ。試しにアルにもやらせてみたの」
それを見て、オルファは目を丸くした。
「き、91点ですか!」
「そう。100点を取ったのは、特進クラスのルークだけ。そしてアルは、全体で見ても2番目の成績よ。ちなみに平均点は特進クラスで62点、普通クラスで49点」
「ア、アル様は、ここに来る前に魔術の勉強をなさっていたんですね。確かにこの成績ならば、学院の生徒となることも充分可能です」
オルファの口から流れるように飛び出した賞賛の言葉は、
「ううん、わたしはここに来るまで、魔術の勉強なんてまともにやったことはないよ?」
「――――はい?」
他ならぬアルによって否定された。思わずオルファが給仕にはあるまじき素っ頓狂な声をあげてしまったが、幸いここにはそれを咎める者はいない。
「本当はさ、テストを受けるまでは楽勝で100点取れる自信があったんだよ? だけど実際にやってみたら、思ったよりも難しくて」
「当たり前でしょ。教科書や参考書を憶えただけじゃ絶対に解けない問題を、何問か仕込んでるんだから」
呑気に話すアルとクルスの会話は、まるで『教科書や参考書の内容を問うだけだったら、確実に100点が取れていた』と言わんばかりである。そして二人の口振りから、けっしてそれがはったりでないこともよく分かった。
唖然とした表情になるオルファに対し、アル本人は髪を梳かしてもらう感触が心地良いのか、ふにゃりと表情を和らげていた。
そしてクルスはというと、悔しそうに口を尖らせていた。
「でもそれだけの結果が出せるんだから、特進クラスでも充分やっていけると思うんだけどね……。やっぱり実技が全然駄目だから、普通クラスに入ることになったわ」
「わたしとしては、バニラと一緒に勉強できるから良いけどねぇ」
そう言ってけらけらと笑うアルを見て、オルファはなぜか寂しそうに眉を寄せた。
「そうですか、アル様がここの生徒に……。それはぜひとも、私からも何かお手伝いができれば良かったのですが……」
「なんで? 別にわたしが生徒になったからって、会えなくなるわけじゃないでしょ?」
「いえ、それがそうもいかないのです。――実は私、今度の黒曜日をもって、この学院を辞めることになりまして」
「ええっ! そうなの?」
「あら、随分と急な話ね」
オルファの言葉にアルは目を丸くして彼女に振り返り、クルスも驚いた表情で彼女へと顔を向けた。
「私の実家が農業を営んでおりまして、今までは両親と弟達が切り盛りしていました。しかし先日に父が倒れてしまって、急遽私も実家に帰らなければならなくなって……」
「そうだったんだ……。なんだ、もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「申し訳ありません、何分急だったもので……。残り一週間だけですが、それまでは精一杯アル様にご奉仕させて頂きますので、よろしくお願い致します」
「うん! こっちこそ、よろしくね!」
満面の笑みで向かい合うアルとオルファの姿に、クルスは自然と優しい笑みを零していた。




