第25話
「どうした、もう終わりか?」
つまらなそうに尋ねるシルバに、ルークは悔しそうに歯噛みした。彼の体にはあちこちに切り傷ができており、そこから血が筋となって流れ落ちている。
「はぁ――はぁ――」
ルークは力強くシルバを睨みつけるも、その疲労は隠しきれていなかった。魔力を消費してきたことによる肉体的疲労と、ここまでずっと気を張り続けてきたことによる精神的疲労が、今になって表れたのである。
「まったく、学年で一番の君がこの調子では、他の生徒達など目も当てられないではないか。この学院に泥を塗るつもりか? この演習が終わったら、もっと実技の内容を厳しくしなくては」
優位な状況からの余裕か、はたまた目の前の生徒など眼中に無いという侮辱か、あるいは元来の性格からか、シルバはルークから目を逸らして大きな独り言を始めた。
シルバに悟られないように、ルークは小さく呪文を唱える。魔力が杖の先端に集まり、その性質を変えていく。
「さてと、まだやるかね? 今負けを認めるのなら、特例で見逃してやらないこともないぞ? せっかくここまで来て、脱落してしまったら勿体ないだろう?」
「はぁ――はぁ――」
痛みや疲れのせいでシルバの問いにも答えられないフリをしながら、ルークは荒い息継ぎの合間に呪文を紡いでいく。通常よりも長い時間を掛けて呪文を完成させ、指先だけを動かして杖を僅かに振る。
こぉ、と空気の動く音が微かに鳴り、それを聞き取ったシルバが眉をひそめる。
「――悪いですけど、負けを認めるわけにはいきませんね」
ルークが挑発的な笑みを浮かべてそう言ったそのとき、突然吹雪がシルバに襲い掛かってきた。その吹雪は視認できるほどに強力な冷気を纏い、氷の粒や雪の結晶、さらには凍りついた空気中の埃が風に乗って荒々しく暴れ回っている。
「な――」
シルバが目を見開いた次の瞬間には、彼の姿は吹雪の白に塗り潰されて見えなくなった。ルークの支配下にある吹雪は、彼のいた空間から動くことなく、ごうごうと凄まじい音をたてて蹂躙していく。
周りの木々や草花がそれの余波を受けて白く染まりきった頃、ルークは魔力の制御を断ち切った。途端に吹雪が弱まり、向こう側の景色が微かに姿を表す。
そのとき、強風程度となった吹雪が、ほんの僅かに揺らめいた。
ざしゅっ。
「ぐっ――!」
右腕に今までに無い強い痛みが走り、ルークは思わず顔をしかめた。左手でそこを押さえつけると、何やらヌメリとした感触が伝わってくる。
ルークが右腕へと視線を向ける。ちょうど痛みの走った箇所の袖が大きく切り裂かれ、そこから覗く肌に今までで一番深い切り傷ができていた。そしてそこから、他のそれよりも激しく血が流れていた。
鮮烈な痛みに脂汗を掻きながら、ルークは前を睨みつけた。吹雪はもうほとんどやみ、冷気を纏った空気が風に乗って流れていく最中だった。
先程まで吹雪が暴れ回っていたその場所で、シルバが平然と立っていた。周りの地面が真っ白に染まっているにも拘わらず、シルバの周辺だけは綺麗な円を描くようにそのままだった。
「な、なんで――」
「別に驚くようなことではない。ただの《ノイズ・キャンセル》だよ」
それを聞いて、ルークは信じられないと言いたげに目を見開いた。
《ノイズ・キャンセル》は青魔術風系統の中でも初歩的なものだ。自分の周辺の気流を操ることで、周囲に音を漏らさないようにする魔術である。
確かにそれによってルークの《アイス・ストーム》が阻まれたのは、理屈では理解できる。しかし普通、あれだけ強力な吹雪ならばこの程度の魔術など掻き消せるはずである。
つまりシルバの初歩的な魔術の方が、ルークの上級魔術よりも強力だったということである。
「まぁ、これが“本当の実力者”の力だということだ。これを機に、君も今以上に勉学に励みたまえ。――この私を目指してな」
シルバがルークに杖を向けて、呪文を唱え始める。反撃したいルークだったが、先程のダメージが引き金となったのか、体が思ったように動かない。
「くそ……」
ルークが奥歯を噛みしめて悪態をついた、
そのときだった。
ごああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!
獣の唸り声のような音が、突如シルバとルークの耳に襲い掛かった。その音は加速度的に大きくなっていき、それに伴って周囲の気温も跳ね上がっていくように感じる。
何事かと2人は同時に音のする方へ顔を向け、そして同時に驚愕した。
恐ろしい速さで自分達に迫ってくるのは、視界いっぱいに広がる炎の壁だった。
「な――」
「くそぉ!」
二人は同時に声をあげて、同時にその場から飛び退いた。ただ飛び退いたのでは間に合わないため、2人共風で推進力を上げている。
その直後、2人が一瞬前にいた場所を炎の壁が通り過ぎた。それぞれ別の方向へと逃げたために、2人は炎の壁によって分断される形となる。
炎の壁はその勢いを止めることなく、森の中をまっすぐ突き進んでいった。道中の木々や草花が呑み込まれ、一切の容赦なく焼き尽くされていく。それらはあっという間に原形を無くし、周りの樹などに引火することで被害をどんどん拡大させていく。
炎に囲まれながら、呆然とした表情でそれを眺めるシルバとルーク。
そのとき、ルークの背後でばさばさと翼をはためかせるような音が聞こえてきた。その音は先程の炎の壁と同じように、加速度的に大きくなっていく。
ルークが後ろを振り返る。その瞬間、彼は驚いたような安心したような表情を浮かべた。
その音を出していたのは、彼の使い魔であるヘルドラゴンの幼竜・ブラントだった。体のあちこちから血が流れているが、ルークを見つめるその目は力強い。
「ブラント!」
「ガウゥッ!」
ルークの呼び掛けに応えるようにブラントは大きく吼えると、燃えさかる森をかいくぐって彼に近づいていく。そして彼の体を傷つけないようにローブだけを器用に咥えると、そのまま彼を引き連れて飛び上がろうとする。
「待て! 逃がすか!」
それを炎越しに見ていたシルバが、空へと飛んでいくブラント達へ向けて《ウィンディ・シザーズ》を放った。ブラントはそれを大きく旋回して避けると、力強く翼を羽ばたかせて空高く飛び去っていった。
「くそっ、ふざけた真似をしてくれる……」
みるみる小さくなっていくブラント達を睨みつけながら、シルバは忌々しそうに呟いた。
苛立ちを紛らわすように、彼が大きく杖を振った。圧縮された空気の壁が放射状に広がり、一瞬にしてあれほど森を蹂躙していた炎が掻き消え、さらに燃えて脆くなった木々が粉砕しながら吹き飛ばされた。
シルバのいる周辺が、ちょっとした広さの更地へと姿を変えた。地面の土が剥き出しになり、焦げた匂いが鼻に纏わりつく。
がさり。
その瞬間、まるで炎が消えるのを待っていたかのように、彼の背後の茂みが鳴った。
しかし彼はそれを聞き逃さなかった。ほとんど反射的に振り返ると、即座に呪文を唱えて突風を放った。
茂みから出てきたのは、先程シルバが《シャープ・トルネイド》で遠くに吹き飛ばしたはずの少女・アルだった。彼女は気づかれることを想定していたらしく、その突風をさっと避けると、そのまま恐ろしい速さでシルバへと迫っていく。
「出たな乞食が!」
そのまま攻撃用魔術の呪文を唱えても間に合わないと踏んだシルバは、杖を自分へと向けて別の呪文を唱え始めた。
「へぇ、《エア・シールド》か……」
アルの呟きに、シルバは眉をひそめた。その瞬間に詠唱が終わり、彼の体を圧縮された空気が包み込んだ。アルの言う通り、《エア・シールド》だった。
しかしアルは攻撃をやめようとはしなかった。シルバの目線の高さにまで跳び上がると、空気の鎧を纏った彼の頭めがけて鋭い回し蹴りを繰り出したのである。
一方シルバも、彼女の攻撃を避けようとも防ごうともしなかった。自分の魔術に絶対の自信があるのか、シルバは彼女との真っ向勝負を選んだのである。
アルの脚が、シルバを包む空気の鎧に直撃した。
その瞬間、
「ぐっ――!」
シルバの頭を激しい揺れが襲い掛かり、一瞬だけ意識が遠のきかけた。先程はルークの攻撃を凌ぎきった空気の鎧が、アルの馬鹿力を前に崩れかかる。
アルはシルバの目の前にふわりと着地すると、彼の胸と腹にそれぞれ1発ずつ蹴りを放った。蹴り自体は空気の鎧に阻まれたが、その衝撃はしっかりと伝わり、その度にシルバは苦悶の表情を浮かべる。
「……この、くそがぁ!」
シルバが杖をアルへと向けて呪文を唱えるが、その頃には彼女はすでに逃げの体勢をとっていた。杖の先端から放たれた《ウィンディ・シザーズ》は虚しく彼女のすぐ脇を通り過ぎ、彼女の長い髪をほんの僅かに切り揃える程度に終わった。
そして次の瞬間には、アルはシルバと大股で5歩くらいの距離をとっていた。何か動きを見せれば即座に反応できる、彼女にとって最も都合の良い間合いである。
互いが互いを牽制する、膠着状態となる。
「あれれぇ? 余裕見せてた割には、結構効いてるみたいだね? そういうの、もの凄く格好悪いなぁ」
にやにやといやらしい笑みを浮かべて、アルがシルバに言い放った。
ぎり、とシルバの奥歯が鳴る。
「……まぐれの攻撃で図に乗るなよ、死に損ないが」
「本当にまぐれかなぁ? だったら、もう1回試してみる? さっきので強度は分かったから、今度やったら貫けると思うよ」
「……せいぜい、ほざいていろ」
実に忌々しそうな表情を浮かべて、シルバはそう吐き捨てた。しかし言っていることに反して、彼は再び《エア・シールド》の呪文を唱えて、空気の鎧を補強した。
あまりにも予想通りの反応に、アルが内心苦笑を浮かべた。
* * *
「助かったよブラント、ありがとう」
「ガウッ」
ルークの礼に、ブラントは短く吼えて答えた。どこか嬉しそうなその声色に、彼は思わず笑みを浮かべる。
しかしすぐに表情を引き締めると、ブラントの背中から下を覗き込んだ。
先程の火事の影響もあって、アル達のいる場所の周辺は綺麗に森が無くなっており、上から見ても彼女達の様子がよく分かった。
2人は向かい合ったまま動こうとしない。ならば、今は小康状態といったところか。
「さっきの行動は、アルが指示したこと?」
ルークの言う“さっきの行動”とは、シルバとルークに向けて炎を吹きつけたことである。彼の問いに、ブラントは大きく首を縦に振った。
「そっか。確かに良い作戦だったよ。下手すれば僕が危なかったけど」
「ガ……! ガウゥ!」
「はは、分かってるって。それもアルの指示なんでしょ? 多分僕だったら避けられるだろう、って思ってのことだろうし」
まるで会話をしているかのように意思疎通の取れているルークとブラントだが、実際彼らはちゃんと会話をしていた。使い魔の契約を交わした者同士では、会話が通じるようになるのである。
「さてと……、僕もアルの手伝いをしたいところだけど、あまり魔力は残っていないし、下手なことをしたらアルの邪魔になりかねない……」
「ガウ?」
「ん? 彼女の味方につくのかって? 当たり前だよ。アルがどうやってシルバ先生を倒すのか興味があるし、それに僕に対してあんな侮辱をしたシルバ先生を、このまま見逃すわけにはいかないでしょう?」
何の迷いも無い力強いルークの言葉に、ブラントは少し考え、口を開く。
「……ガウ、ガウゥ、ガゥ、ガウウ」
「アルからの伝言? ……聞かせて」
ルークに促されて、ブラントが“伝言”を(もちろんドラゴンの鳴き声で)伝える。それを聞きながら、彼は感心したように何度も頷いた。
「成程、あのバニラって子の魔術に、そんな使い方があったとはね。――それにしても、やっぱり僕の考えは当たっていたか」
ルークはそう呟いて、再び下へと顔を向けた。
どうやら地上の2人に、そろそろ動きがありそうだ。
「――シルバ先生、彼女の“恐ろしさ”を見誤らないでくださいね」
絶対にシルバ本人には聞こえない大きさでルークはそう言うと、杖を取り出して小さく呪文を唱え始めた。




