第19話
演習開始から、まもなく30分が経過しようという頃。
「あぁ……、やっと終わった……」
クルス達が待機している草原で、シンがぐったりと地面に寝っ転がっていた。そんな彼にクルスは労いの言葉を掛けるどころか、「だらしないわねぇ」と溜息をついていた。
シンの近くには、20人余りもの生徒が並んで寝かされていた。その誰もが演習で脱落した生徒であり、ここに運ばれてきたときは皆大なり小なり怪我をしていた。
そしてシンは今の今まで、彼らに白魔術による治療を施していたのである。その甲斐もあって、生徒達は全員元の無傷な状態に戻っている。それでも体の負担はかなり大きいのか、未だに目を覚ます者はいない。
「それにしても、まだ30分も経っていないのにこんなに治療しなきゃいけないなんて、初めてのことだよ」
半分感心、半分呆れといった感情を込めてシンはぼやいた。
彼の言う通り、今回の演習は波乱の幕開けだった。開始早々に生徒の約半数が脱落、しかもそれがたった2人の仕業(しかも事前に口裏を合わせたわけではない、まったくの偶然)という、前代未聞の事態である。
「でもこうなると、クルスが持ってる撃破記録を抜かされることはないかな? 確か、28人だったっけ?」
「ああ、そんなこともあったわね。まぁあの頃は、アルやルークみたいな張り合いのある奴らがいなかったからできたんだけど。まったく、今の子達が羨ましいわ」
クルスは空を見上げながら、ふっと微笑んだ。視線は空を向いているが、空ではない何かを見つめているような目つきだった。
そのとき、
「ふん、特進クラス1位のルークにならともかく、あんな乞食程度にやられるとはな。学院の面汚しめが」
いつの間にかクルスの後ろにいたシルバが、忌々しそうに吐き捨てた。彼の声を聞いたクルスの口元から微笑みが消えた。
しかしシルバは、そんなことなどお構いなしに口を開く。
「そろそろ30分だ。私も行かせてもらうぞ」
「はいはい、頑張ってください。――個人的に腹を立てるのは構いませんが、ちゃんと私の立てたルール通りに動いてくださいね」
「貴様に言われるまでもない」
「……そういえば、シルバ先生はどこの門から入るんですか?」
「そんなこと、貴様に教えてやる義理は無い」
シルバはそう言い残すと、演習場の方へと歩いていった。
その背中を黙って見送るクルスに、シンが近づいていく。
「あの方向だと、東門だね」
「ええ、そうね。まったく、分かりやすい人ね」
「……大丈夫なの、クルス? シルバ先生、あの様子じゃ絶対にあの子1人狙いだよ」
「まぁ、たとえフリでも、表向きにはちゃんとやってくれればそれで問題は無いわ」
「……本当に、彼女のことを信用しているみたいだね。まぁ、他ならぬクルスがそう言うのなら、僕も信じるけど」
シンはそう言うと、再び地面に寝転んだ。どうやら、次の脱落者が出るまで仮眠を取るつもりらしい。
そんな彼に、クルスが声を掛ける。
「シン、脱落者が出たわ。北門の近く」
「……げぇ」
* * *
「いやぁ、大漁大漁」
アルはにこにこと無邪気な笑みを浮かべながら、自分の袋を目の前に掲げてがしゃがしゃと鳴らしていた。
その中には、赤銅のメダルが15枚ほど入っていた。しかもそのすべてが、枝にぶら下がっているのを集めたものである。やはり最初に東門の生徒を一掃したのが良かった。他の生徒をいちいち相手にしていたのでは、こうはあっさりいかなかったに違いない。
予想以上の収穫に、アルは鼻歌交じりで森の中を歩いていく。
そのとき、
「お、メダル発見」
視界の奥に生える木々の隙間で、何かが光るのを見つけた。アルはにんまりと笑みを浮かべて、そこまで駆けていく。
案の定そこには、細い紐で枝にぶら下がっている赤銅のメダルがあった。
「ふふふ、メダルみーつけ――」
腕を伸ばして1歩足を踏み出そうとしたところで、アルは突然その動きを止めた。同時に、彼女の顔に浮かんでいた笑みも消える。
彼女の視線は、メダルの真下辺りの地面へと向けられていた。
雑草が所々生えているそこが、ぐっしょりとぬかるんでいた。
アルは考えを巡らせる。
ここ数日、学院の周辺は雨が降っていない。先程までのメダル収集でも、地面がぬかるむどころか湿っている箇所すら見当たらなかった。
にも拘わらず、ここだけがぬかるんでいる。
メダルのぶら下がっているここだけが、ぬかるんでいる。
「…………」
アルは伸ばしかけていた腕を引っ込めた。険しい表情を崩さずに周りへと注意深く視線を巡らしながら、1歩1歩ゆっくりとその場から離れていく。
やがてメダルとの距離が体5つ分くらいになったとき、アルはくるりとメダルに背を向けて、その場を去っていった。
* * *
それから数分後。
そのメダルに近づく、3つの人影があった。
「おまえ、さっきの攻撃はいくら何でも容赦なさすぎるだろ!」
「何言ってんだよ! あそこで俺が攻撃したおかげで、こうしてメダルを手に入れることができたんだぜ?」
「それにしてもラッキーだよな。まさかさっきのあいつが、メダルを6枚も持ってたなんてよ」
どうやらグループで行動しているらしいその3人組は、自分達の戦闘を興奮気味に振り返っていた。もっとも、3人がかりで1人の生徒を奇襲して袋叩きにするのを戦闘と呼べるのなら、だが。
「なんかよ、この調子だと俺達が一番になるんじゃね?」
「本当だよな、他の奴ら、全然張り合いが無いって感じ?」
「まぁ俺達の手に掛かれば、あのクソ生意気な特進クラスの優等生様も楽勝だよな!」
「当たり前だろ! ――お、メダルはっけーん」
3人の内の1人が、例のメダルを見つけた。真下の地面が不自然にぬかるんでいる、あのメダルである。
3人は何の警戒心も無く、そのメダルへと走り寄った。全員メダルに目を奪われているせいで、地面がぬかるんでいることに気づいていない。
3人の足が、ぬかるみへと突き刺さる。
びしゃっ、びしゃしゃ。
「あん?」
水が跳ねるような音を聞いて、そこで初めて3人は地面へと目を向けた。
ぬかるんだ地面は人間の体重を支えるのも困難なほどに柔らかくなっており、3人の脚は脛の辺りまでずぶずぶと沈んでいた。
運が悪い、と3人が舌打ちをして脚を引き抜こうとした、
そのとき、
パキパキパキパキパキパキパキパキ――
「な、何だ!」
何かが軋むような音がしたかと思った次の瞬間、3人の脚を呑み込んでいる地面の土が、突然白く染まりながら凍り出した。
「ま、まさか、罠か!」
「ちくしょう、動けねぇ!」
あっという間に茶色い土が白へと変わり、3人の脚は地面に縫いつけられたかのようにぴくりとも動かせなくなった。
さらに凍りついた土はかなり冷たく、3人の脚から容赦なく体温を奪っていく。体温が下がれば運動能力が落ちるため、さらに脱出しにくくなる。
「この……、嘗めやがって!」
3人の内の1人が、懐から杖を取り出してそれを自分の足元へと向けた。
しかし次の瞬間、自分の魔術による炎が自分の脚を黒こげにする様を想像してしまい、彼は息を呑んで躊躇ってしまった。
「あらら、3人共掛かってるとはね」
そのとき、3人の背後から声がした。脚を動かせない3人は上半身を捻らせることで、なんとか後ろへと顔を向ける。
「てめぇ……!」
そこにいたのは、自分達の手に掛かれば楽勝だと話していたばかりの、クソ生意気な特進クラスの優等生様・ルークだった。
「おいてめぇ、俺達に何しやがった!」
3人の内の1人が怒鳴り散らすも、ルークはいたって平然としている。それはそうだろう。頭に血が上っているあまりルークに杖を向けることすらしない彼らを、どうして怖がる必要があるのだろうか。
「細工をしたのは君達にじゃないよ。僕が細工したのは、君達が今浸かっている地面の方だ」
「だから、何しやがったかって訊いてんだよ!」
「……まぁ、別に教えても構わないか。――僕はわざとメダルを放置しておいて、そこの地面に“過冷却状態の水”を大量に仕込んでおいた」
「カレイ……、何だって?」
「過冷却。普通だったら凍るはずの温度なのに、液体のままになっている水のことだよ。この現象で面白いのはね、ちょっとでも衝撃を与えると途端に凍り始めるところなんだよ」
つまり、過冷却状態の水が大量に染み込んだ土を3人が踏みつけたことで、その衝撃を発端に、地中の水が3人の脚を巻き込んで凍りついたということである。
「て、てめぇ、こんな罠を仕掛けるなんて卑怯じゃねぇか! こんなの魔術師の戦い方じゃねぇぞ! 魔術師だったら、正々堂々と正面から挑んできやがれ!」
「卑怯? おかしなことを言うね。罠を仕掛けるのも立派な戦術の1つだよ? 君達みたいに、3人がかりで寄ってたかって相手を袋叩きにするのと同じようにね」
「うるせぇ! 口ではいろいろ言ってるが、本当は俺らと戦うのが怖いんだろ! 他の奴らは天才だ何だって持て囃してるけど、結局はこそこそしてなきゃ何もできない腰抜けじゃねぇか!」
「……安い挑発だね。そんなんで僕が釣られると思ってるの? 罠を解いてほしかったら、もっと上手く相手を乗せないと。――まぁ、罠を解く気なんて最初から無いんだけど」
ルークは溜息混じりにそう言うと、懐から杖を取り出して3人の方へと向けた。
そして、
「《アイス・ストーム》」
その瞬間、杖の先端から強烈な風が巻き起こった。
「!」
「な……、何だ!」
あまりの風圧に、3人の上半身がむりやり反らされていく。もし膝下を地面に固定されていなければ、あっという間に吹き飛ばされていただろう。
嵐と形容しても差し支えないその風は、ただの風ではなかった。よく見ると小さな氷や雪の結晶が混ざっているそれは、周りの木々や草を覆い、遠慮なく白く染め上げていく。それに合わせて、周りの気温も真冬のそれ以上に低くなっていく。
「てめぇ、まさか……」
3人がルークの思惑に気づくのとほぼ同時、彼らは絶望的な事実に気がついた。
動かない。
膝下だけではない。顔も体も腕も服も、真っ白に染まり凍りついていく。そこだけ切り離されたかのように、まったく力を入れることができず、感覚も伝わらない。体の奥底から、パキパキパキ、という音が聞こえてくる。
「ち、くしょ、う――」
「あ、そうだ。良いことを教えてあげようか」
だんだんと3人の意識が薄れていく中、ルークの声だけがやけに頭に残る。
「君達が散々乞食乞食って馬鹿にしているアルって子は、僕の仕掛けた罠にあっさり気づいたみたいだよ。君達とは違ってね」
「な――」
そして、3人の意識は途切れた。
* * *
「3人で10枚か……。まぁ、こんなもんか」
先程の場所から少し離れたところで、ルークは戦利品を確かめていた。彼らから巻き上げたメダルを数え終えると、それらを自分の袋へとしまい、懐に収める。
ここまでで集めたメダルの数は25枚。しかも先程の10枚を除くと、その全てが枝にぶら下がっているものだった。やはり最初に南門の生徒を一掃したのが良かった。他の生徒をいちいち相手にしていたのでは、こうはあっさりいかなかったに違いない。
それにしても、
「アル、か……」
正直なところ、あの罠が見破られるとは思っていなかった。大抵はメダルに目を奪われて地面なんて見ようともしないし、たとえ視界に入ったとしても、地面がぬかるんでいる程度で警戒などしない。
しかしアルは初見であの罠に気づき、そして警戒して去っていった。
「ひょっとしたら、ひょっとするかもね……」
最初に聞いた彼女の噂は、ルークにとっては取るに足らないものだった。彼には他の生徒達のような、箒にすら乗れない乞食の少女を馬鹿にするような趣味は持ち合わせていなかった。
しかし次の噂を聞いたとき、彼の興味が微かだが湧いた。
黄魔術・光系統担当の教師であるリーゼンドは、その乞食に喧嘩を売って返り討ちに遭った。
確かにリーゼンドは、一昨日から怪我で授業に出ていない。怪我をした理由を本人は頑なに話さなかったが、誰かにやられたのであろうことは簡単に推測できる。
学院に侵入した賊にやられただの、教師と喧嘩になって負けただの、女性教師にセクハラをしようとしてやられただの、本人が聞いたら顔を真っ赤にして怒り出しそうな憶測が面白おかしく語られている。
その中でも一番くだらない噂が、前述の“乞食にやられた”というものだった。
――最初はあまりの馬鹿馬鹿しさに笑う気も起きなかったけど……、もしかしたら……。
「ブラント、しばらく空から監視しといて。くれぐれも彼女にばれないようにね」
ルークは誰かに命令するようにそう言った。しかしながら、彼の周りには人どころか生き物の気配すら無い。当然、返事も無い。
しかしルークは満足したように頷くと、森の中を歩き出した。