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プロローグ

都内某屋敷にてー


「爺!」「じいさん!」「義一郎さん!」


四方から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


日ノ(ヒノミヤ) 義一郎(キイチロウ)はその声に答えるようにして、その重い瞼を薄く開けた。


大きな和風屋敷の奥にあるその部屋は確かに全体の趣こそ和の色一色であったが、その中心にある大小の医療器具と、1人の老人が横たわる介護用の真っ白なベッドが、その雰囲気を台無しにしていた。



齢にして90とそこらの老人、義一郎は病の床に伏せていた。


数年前から体の節々が痛み始め、いつしかベッドか車椅子のどちらかが義一郎の定位置になっていた。


自分はもう長くない。


そう感じていた義一郎だったが、ついに月の始めから、容態が悪化し、今日人生の峠とも呼べるときがやって来たのだった。


意識が虚ろになるなか、義一郎は目の前の光景ではなく、遠い昔のことをその頭に思い浮かべていた。


田舎の小さな農家の元に生まれた義一郎は、録に学校にも通えず、毎日を家の手伝いをして過ごしてきた。 しかし戦争が始まり、生活が一層苦しくなると、自身の畑で取れたものを少しずつ食い繋いでいくような暮らしに変わり、次第に飢えが限界を迎え始めた。


そんな時、町の掲示板に志願兵の張り紙を見つけた義一郎は苦心の末、軍隊に入ることを心に決める。 三食飯付きで学のない自分であっても兵隊ならば務まるのではと考えた義一郎は、兵学校の門を叩いた。


ここで駄目なら死ぬしかないという思いで臨んだ兵学校で義一郎は凄まじい才覚を発揮する。読み書き程度しかできなかった義一郎にとって授業というものは知識を与えてくれる宝箱のようなものであったし、厳しい訓練も日々の農作業で鍛えられた体にはさしたる負担にはならなかった。


やがて卒業の試験に合格した義一郎は内陸部の戦線へと送られる。


新兵が次々と送り込まれ、知り合った仲間が明日にはいない日々が続く地獄の戦線で、義一郎は再び鬼神のごとき戦果を叩きだしていた。


ある時は橋を破壊し、ある時は敵戦車やトーチカを破壊する。味方の九割がやられ、隊長すらも死んだ部隊を引き継ぎ、見事援軍がくるまで拠点を守り抜いたことさえあった。


戦いは数年続き、義一郎は様々な前線に立ち続け、その度に生き残った。内陸部の平地戦から籠城戦、離島の防衛から敵基地への強襲任務。果ては全軍きっての総力戦まで幾多の死線を潜り抜けた。


義一郎が国に帰ってきたのは、もう三十路をとうに過ぎた頃の年の暮れであった。久しぶりに船から見た故郷の大地はすでに面影はなく、港には大勢の人がいたが、そこに両親の姿はなかった。


ただいく宛のない義一郎は自分の生まれ育った農村に足を運ぶ。しかしかつてそこにあった家や畑はそこにはなく、ただぼうぼうとした草木が生えるのみとなっていた。この辺りに住むという中年の男曰く、長きに渡る戦争と飢餓による流行り病で多くの人が死んだ、と。義一郎はぼうぼうの草木の生え並ぶ地に合掌すると、静かにこの地を去った。


その後義一郎は軍の知り合いから軍の教官になってほしいという要望を受け、定年まで国を守る若者たちの育成に力を注ぐことに尽力することになる。


思い返せば長かった… 苦労も多かったが、充実した人生だった…


義一郎は虚ろな目でベッドの周りに集まる人々を見回す。


ベッドの周りには老若男女様々な人が集まり、皆悲痛な表情で義一郎の体調を気遣っている。


身内だけでなく、友人、軍の教え子やかなり位の高い幹部の人間など、多くの人が義一郎の最後を見届けようとする姿は、義一郎のこれまで築き上げてきた人望の厚さを物語っていた。


これほど多くの人がわしを看取ってくれるとは、なんともうれしいことじゃ… 願わくはあの世でもう一度彼女に出会えるのならばこれほど嬉しいことはない…


義一郎は瞼を閉じると脳裏に1人の女性を思い浮かべる。


長くしなやかな黒髪を持ち、はっきりとした顔立ちのその女性は、真っ赤な生地に色とりどりの花の刺繍が施された着物を着て、義一郎に微笑みかける。


それは生前若くしてなくなった義一郎の妻、百合の姿であった。


百合は軍の教官をしていた頃の義一郎が、町で出会った女であった。すでに三十路を越えた義一郎だったが、今まで軍一筋で生きてきた義一郎にとって、恋愛などというものは全くの無縁。


実際自分が恋愛、ましてや結婚などありえないと考えていた。しかしある日の夜、常連の居酒屋から帰宅途中、数人の若者に1人の女性が囲まれているのを見つけた。


明らかに女性は嫌がっていたのに加え、若者たちは明らかに酔っている。義一郎はあっさりと若者たちを退かせてみせると、百合を家に送り届ける。


百合の家は大きな問屋であった。主人に百合を引き渡すと、主人から後日、お礼がしたいと言われ、一週間後、夕食をご馳走になった。その際、主人から百合が病弱で外にあまりでられないこと。友人と呼べるものもいないことなどを伝えられる。


まだ教官として勤務したてであった義一郎も友人と呼べるものが少なく、百合の物腰や雰囲気に好感をもっていたので、この日からたびたび屋敷を訪れるようになるのだった。


出会いから数年。ついに婚姻に至った二人は、屋敷内で身内のみの式を挙げる。


目の前に佇む白無垢姿は名前に見劣るどころか、どのような百合の花さえも霞むような、美しくも儚い姿に義一郎は胸を射たれた。


この女性を一生かけて幸せにしよう。


そう心に決めた義一郎だったが、その幸せは永くは続かない。数年後、子供を身籠った百合であったが、その出産は大変困難を極めるものであった。義一郎を含む周りのものが反対をしたが、百合はその反対を押し切り、子供を出産する。


出産に成功した百合であったが、その後、病弱であった体はますます弱り、明くる年の暮れ。そのまま眠るように息を引き取ったのだった。


その後、義一郎は生涯新しい妻をめとることなく、軍の教官をしながら、息子を育て上げ、今日に至る。


あぁ、出来るならば、あの世でもう一度…


義一郎は細く枯れ枝のように痩せ細った腕をそこにはない何かを掴むようにゆっくりと上げる。


やがてその腕が自身の真上に届こうかというとき、フッと、まるで糸の切れた人形のように、力なくベッドから垂れ下がったのだった。


享年94歳 12月の暮れのことである。

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