冬山の夜 (短編ホラー)
冬山の夜 (短編ホラー)
二月下旬。
先月購入したテントの防寒性能を
試そうと、いまだ残雪深い高尾山に
登った。
雪山の景色と風情を楽しみながら、
ピッケルを片手にゆっくりと歩く。
目の前に広がる白銀の世界。
今年の関東は十年に一度の大雪が降り、
高尾周辺の積雪量は百センチにまで
達していた。
だが登山道のほうは、他の登山者に
よって既にラッセルされていて、
容易に進むことが出来た。
午後三時、登頂。
その後、頂上から歩いて三十分ほど
離れた場所に行き、折りたたみスコップで
雪をかいて整地してからテントを
張り始めた。
都心からのアクセスが良く、一年を通じて
多くの観光客で賑わう高尾山だが、
真冬の積雪期という
こともあり、登る人間は少ない。
また日没に近い時刻ということもあり、
他の登山客と会うこともなかった。
テントの設営が終わったところで
バーナーとコッフェルを出した。
雪を溶かして湯を沸かし、
粉末のコーンスープを作った。
凍りついたような顔に暖かな湯気が当たり
心地良い。
赤い夕日を見ながらゆっくりとスープを飲む。
持参したクラッカーも何枚か食べた。
寒い。だが空気は澄んでいて気持ちがいい。
標高六百メートルほどの低山ではあるが、
それでも都会の空気とは、まるで違った。
午後五時半。
夕日が西の山間に落ちた。
山嶺の向こうの赤い夕空は、上から押し寄せる
藍色の空と溶け合いながら、次第にその明度を
減じてゆく。自然が作り出す風景と色彩は、
人が作為的に生み出したいかなる芸術作品
よりも美しい……などと思うことがある。
テントに入った。
中の温度計を見る。三℃前後を指していた。
暖かいとは言いがたいが、外気温は既に
氷点下なのだ。防寒性能は良好だった。
寝袋もすでにテント内に敷き、中には
使い捨てカイロを入れて温めてある。
潜り込んでいれば、この厳冬期であっても
一夜を過ごせるだろう。
天井に吊るした小型ランタンの明かりを
頼りに、持参した小説を読みはじめた。
静かだ。
ときどきテントの外から、びゅうという
風音と木々のざわめきが入り込んでくるが、
それでも普段住んでいる安アパートよりは
ずっと静かで、読書が捗った。
小説のページをめくる音だけが妙に大きい。
しばらく読書を続けていると、徐々に睡魔が
襲ってきたので、ランタンを消して寝袋に
潜り込み、眠りに付いた。
「……よ、……いよ」
驚いて目が醒めた。
突然、子供の声が遠くから聞こえてきたのだ。
か細い、そして泣いているような声。
腕時計を見る……すでに深夜零時過ぎ。
テントの外は灯りひとつ無い暗闇。
そして極寒だ。
いかに低山といえど、こんな時間に
子供など居るわけが無い。
怖くなった俺は、天井のランタンを付けた。
テントの中が、明るく暖かな光に包まれる。
しばらくのあいだ耳を澄ませて、
周囲の音を探る……何も聞こえてこない。
残雪を踏むような足音などまったく無い。
一瞬強い風音が響いたが、
その後は重苦しいほどの静寂に包まれている。
幻聴だったのか。
寝ぼけていたせいで、風音が人の声にでも
聞こえたのだろう。そう思うことにした。
ランタンを消し、寝袋に潜って目を閉じた。
数分経った。
「さむいよ」
今度は、はっきりと聞こえた。
間違いない。風音などではない。
子供の声だ。
先ほどよりも、近いところから聞こえた。
怖かった。
このテントに、何かが近づいてくる。
それも足音も立てずに。
背筋が凍り、がたがたと震えた。
むろん寒さのせいではない。
だがそれでも、声の正体を確かめて
みたいという気持ちが膨らむ。
寝袋から抜け出してランタンを付けた。
そして登山靴を履き、懐中電灯を持って
テントの外に出た。
濃い闇だった。
濃い闇が延々と広がっていた。
夜空は雲っていて、月あかりなど無い。
懐中電灯であたりを照らす。
光の届く範囲など、この途方もない闇の
中ではごく僅かだが、それでも一通り
テントの周りを入念に見渡した。
ライトが照らし出す弱々しい光球に
浮かび上がるのは、雪と林だけだった。
人の姿など、どこにも無い。
人だけでは無い、動物の姿すら見えない。
深い闇、身に突き刺さるような冷気……。
冬山という場所には、生命の営みなど
微塵もない。まさに死の世界である。
だがそんな世界に、いま何かがいる。
なにか得体の知れない者が、このテントに
近づいて来ている。
濃く広がる闇を見つめながら、そう感じた。
急いでテントに引っ込み、ファスナーを
閉めた。
恐ろしさを紛らわせようと、ザックから
小型ラジオを取り出して電源を入れた。
陽気な音楽が流れてくる。
この時ほど夜が恐ろしいと感じたことは
無かった。登山をやるようになって十年。
単独での山行、山中でのテント泊など、
今まで何度もこなしている。
夜の山には十分に慣れていた。
だが、こんな恐怖を味わうのは初めてだった。
しばらく音楽を聴いていたが、
ふいにラジオの音がノイズ混じりになり、
そして途切れた。
「寒いよ、入れてよ、入れてよ……」
突然、子供の声がした。
それもテントのすぐ外で。
テントの生地のすぐ向こうに、何かが居る。
何も見えないが、確かに居る。
心臓が縮み上がり、身体がすくんだ。
いまテントの外にいるのは、人ではない。
「開けてよ」
また聞こえた。怖かった。
周りには誰も居ない、自分ひとりなのだ。
助けなど呼ぶことはできない。
「開けてよ、開けてよ」
テントの布が内側にたわんだ。
なにか得体の知れないものが、外から
テントをぎゅっと押している。
「あけろぉぉぉ」
獣が唸るような声。テントが大きく揺れた。
天井に吊るしてあるランタンも振り子の
ように大きく揺れる。俺は恐怖で気が動転した。
人では無い何かが、外からテントを叩いたり
揺すったりしているのだ。
布地があちこちでたわみ、そしてテントは
揺れ続ける。
「あけろぉぉぉ」
このままではテントが壊れてしまう。
そう思った俺は勇気を振り絞り
”外にいる者”と戦う覚悟を決めて、
寝袋から出た。
鋭いアイゼンの付いた登山靴を履き、
ピッケルを片手に握り締めると、入り口の
ファスナーをゆっくりと下げた。
するとどういうわけか、急にテントの
揺れが収まった。
そっと顔を出して、外のようすを窺う……
誰も居なかった。
懐中電灯を取り出してあたりを照らす。
なにも、そして誰もいない。
雪原と樹木だけだ。風もなく、周囲は
無音だった。先ほどまでの異常現象が
まるで嘘のように、静まり返っている。
あの声の主は……そしてテントを揺らした
のは、いったい何者だったのか。
訳がわからなかった。
すべて気のせいだったのだろうか。
酒など一滴たりとも飲んでいないのだ。
決して幻覚や幻聴などではない。
では夢だった……とでもいうのか。
びゅう、と風が吹いた。
気温は一段と低くなっていて、寒風が身に
しみる。たまらず俺はテントに戻った。
その後、小一時間ほどのあいだ、じっと
身構えていたが、先ほどのような異様な
声は聞こえず、テントが揺さぶられるような
こともなかった。
外は静かで、何の気配もない。
時間が経つにつれて、徐々に恐怖が薄れてゆく。
そして深夜一時半、装備を解いて寝袋に入った。
気分が落ち着くと急に眠くなり、俺は目を閉じた。
腕時計のアラーム音が鳴った。
朝七時。テントの外に出た俺は空を見上げた。
快晴。青空に筋状の薄雲が広がる。
周囲の雪原が白く眩しかった。
昨夜は恐ろしい思いをしたが、こうして無事に
朝を迎えることができた。
安堵と、そして達成感が胸にこみ上げてくる。
バーナーとコッフェルで湯を沸かして
インスタントのコーンスープを作った。
ビスケットやクラッカーを取り出して
頬張りながら、ゆっくりとスープを流し込んだ。
食事を終え、テントを畳んで荷をまとめると、
ザックを背負った。なぜか妙に重い。
昨日、家を出発した時よりも何故か重量が
増しているような気がした。
奥高尾縦走路を西へ進んだ。
城山、景信山、堂所山を通過し、明王峠で
小休止。その後は孫山へと続く南下ルートを
進み、そしてJR相模湖駅に付いたのは
正午をいくらか過ぎた頃だった。
その後、中央線に乗って家路に就いた。
棲家の安アパートに戻った後、熱いシャワーを
浴びてから三十分ほど仮眠をとった。
洗濯を済ませた俺は上着を羽織って、
再び外に出た。荷物など持ってはいないが、
なんだか妙に身体が重い。今朝からずっとだ。
大した山行ではなかったのに、なんだか
随分と疲れた気がする。
目を閉じて小さくため息をついた。
俺も年だなと、改めて痛感した。
道端に積み上がった泥まみれの雪を見ながら、
近所にある行きつけの喫茶店へと向かった。
店のドアを開けると、銅製の大きな鈴が
カラコロと派手に鳴った。
いらっしゃい、と初老のマスターが声を
掛けてきた。コーヒーの香気が鼻腔をくすぐる。
この匂いが、たまらなく好きだ。
店内は程よく暖房が効いていて心地よい。
上着を脱いでカウンター席に座った。
店内の照明は若干明度を落としてあり、
気分が落ち着く。
なんだか急に身体のだるさが抜けた。
スピーカーからは、ビル・エバンスの
ピアノ曲が静かに流れている。
厳寒のせいで、みな外出を控えているの
だろうか、客は俺以外誰もいなかった。
マスターがいつものように冷水の入った
グラスを出してきた。
俺の目の前に一つ、そして俺のすぐ右隣にも
一つ、グラスを置いた。
不思議だった。
俺の右隣には誰も居ないのだ。
なのに、なぜそこにグラスを置いたのだろうか。
マスターの顔を見た。彼との付き合いは長い。
以前も何度か一緒に登山に行っている間柄ある。
こんな悪ふざけをするような安っぽい人間では
ないのだ。悪戯では無いのだとしたら……。
ふいに昨夜の恐ろしい体験が脳裏に蘇った。
暖房の効いた店内が、急に氷点下の極寒地獄に
なったような気がした。
「こちらの方、登山のお仲間ですか?」
マスターは俺にそう尋ねると、顔を右隣の空席に
向けてにっこりと笑った。
俺は震えながら、ゆっくりと右を見た。
そこには……
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(了)
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