“電脳世界からの脱出Ⅲ Escape from the cyber world„
「お帰りなさい、おにいちゃん?」
この一言と皐月の格好で我が妹にも現実との変化が起きていると分かった。皐月はいつもならばジャージのズボンに動きやすいキャラ物のTシャツというのがお決まりの部屋着だったはずが、今はもふもふ素材のうさ耳の付いたパーカーにショートパンツと中々に女の子らしい部屋着になっていた。そして俺の事をバカアニキ呼ばわりしないで、おにいちゃんと呼ぶあたり現実ではない事を改めて確認した。
「なんでそこにボッーとしてるの? 早く靴脱いで入ってきなよ」
「あ、あぁ…そうだな…早く入らないとな…」
俺はそそくさと靴を脱いでは家の中に入り、自分の部屋で制服のYシャツのボタンに手をかけては着替える。その辺に落ちていたジーンズに白いシャツ、その上に羽織る物羽織ってすぐに玄関の方へと戻った。
「おにいちゃん、どっか行くの?」
「あぁ、そ、そうだな。水篶の家までちょっと行くことになってだな…」
「水篶さんのおうち?…手ぶらじゃ申し訳ないから、これ持って行って…?」
皐月はそういうとお菓子の詰め合わせを渡してくる。何なんだ、この全国の妹のお手本の様な俺の妹は。現実世界でもこういう妹だったらな…、と思ってしまうほどだ。
「あぁ、分かったよ…気を使ってもらって悪いな…」
差し出してきたそのお菓子の詰め合わせを受け取っては、この世界ではお隣さんである水篶の家へと向かい、勝手に入るのは常識的に良くないので呼び鈴を鳴らす。すると中からこちらに寄って来る足音が聞こえてきて、ドアが開いた。
「あ、来た来た…遅かったね?」
「ちょっと皐月の様子が気になってしまってだな…」
「皐月ちゃんがどうしたの?」
「んー、いつもと様子が違うというか…何でもないよ」
「ふーん、そうなんだ…。何かは知らないけどさぁさぁ、入った入った」
水篶は俺に指さし、部屋へと案内した。よくよく考えれば家は違えど俺が水篶の家へと訪問したのはこれが二回目か。
「汚くて申し訳ないよ…」
「いやいや、凄い綺麗な部屋だよ…?」
案内された部屋はどうやら水篶の自室らしく、赤…ピンク…白と女の子らしいルームコーディネートで何より大きな熊のぬいぐるみが目立っている。
「あっ、そうそうこれ皐月が渡してきたお菓子の詰め合わせ」
「わぁ…、美味しそう。ありがとうね…じゃあ早速頂くよ?」
「それはまぁ皐月本人に言ってもらえると助かるかな」
俺は言葉に詰まる。現実世界と同じ様に見える水篶であっても女の子は女の子だ。今までずっと戦ってきていた為にこういう日常が久しぶりの様に感じるのだ。だがここは電脳世界、日常ではないはずなのに。これが俺を捕らえた諫早皆月の策なのだろうか…このままこの世界で平和ボケさせる、といった様に。
「…またボーッとして。いつもそうなんだからいい加減私の事も見てよぉ…?」
水篶にそっと体を押される。
「お、おいどうしたんだよ…」
「睦月くんがボーッとし過ぎなんあよぉ…」
水篶のろれつが回っていない…?
「もぉ…むつきぃくん…」
水篶が俺の体の上に乗ってくる。これはまさか、と俺は皐月から渡されたお菓子の詰め合わせのパッケージを見やるとチョコレートの絵が描かれている。
「ボンボンチョコレート…?」
「むつきくん…むつきぃくぅん…」
水篶が俺に顔を擦りつけてくる。
「おい、おい…正気を保てとは言わないから落ち着いて」
「うう…ん」
俺は水篶を取り押さえては抱きかかえ、ベットへと追いやる。
「うーん…むつきくん…好きだよぉ」
「あぁ。あぁ…はいはい、分かったよ。もうおやすみ?」
「へへへ、むつきくぅんおやすみぃ…」
そう言うと水篶は案の定すぐに寝てしまう。…良い寝顔だ。俺はこういう日常を守りたくて脱出不可能に、月の名の持ち主の戦いに身を投じているはずだ。こんなとこで立ち止まっていてはいけないと来て早々、水篶には申し訳ないが部屋を立ち去って、俺は向かうべきところへと向かった。