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『トイレの水』~ルーム in the 貯金箱~

作者: こう

ホラーの神髄をご存じでしょうか?

ほら。それは、嘘です。


それでは、トイレの話にいっといれ。

 一人が怖いと思ったことはなかった。夜、床や壁がきしむ音を聴きながらトイレに行くことだって出来たし、はじめての一人暮らしだって怖いと思ったことは一度たりともない。

 しかし、今は違う感想を抱いている。生まれて初めて、一人でいることが怖いと思えた。

 

 僕が恐怖を覚えたのは、会社の四階にあるトイレに行ったことがきっかけだ。そこのトイレは昔からあるトイレをそのまま利用しているらしく、薬品とカエルが入り交じったような臭いがする。食後に行くと、胃の中にある消化中の食べ物が汚染されていくかのように思えるくらいだ。

 他にも酷いところはいくつかある。掃除では取ることの出来ない黒ずんだ汚れや塗装のはげた便器。そして、金切り声のようにも聴こえる水の流れる音。

 不意に、僕の頬を冷たい何かがつたう。

 思わず漏れそうになる声をかみ殺して、そっと何かに触れる。おそるおそる指先を確認し、思わず安堵のため息を吐く。

 なんてことはない、ただの汗だ。

 こんなものに驚いたのかと情けなくなり、服の袖で雑に手を拭う。

 額ににじむ汗に不快感を覚えた。用を足す前に、まずは顔を洗おう。そう思い、近くの洗面所の前に立つ。

 数カ所がひびわれた鏡の中の自分は、ひどくやつれた顔をしていた。たかだか数分だというのに、一気に十年も老け込んだかのようだ。

 思わず苦笑し、気分を切り替えるために蛇口をひねる。

 一瞬息を止めたが、蛇口から溢れた水はただの水道水。いつも通りだ。僕が信じるいつもの現象。この水が水道水以外の何かかもしれないという不安はもう止めた。

 顔を乱暴に洗って、何事も無いようにあさがおの前に立ち、用を済ます。再び洗面所に向き合い、簡単に手を洗って追い立てられるようにトイレから出た。

 ここまでしないと肩を降ろせない。

 全身に汗がにじんだことを感じながら僕はトイレから去っていく。

 しかし件のトイレは僕の課の隣に位置する。嫌でも存在を感じる。課の奥の壁を、毎日意識しながら仕事をする。同僚や先輩からしたらなんと馬鹿らしいことだろう。


 家に帰ってからも、僕の不安感はぬぐえなかった。

 トイレに行った時、息を一瞬止めた時、僕はあの時にどうしようもない不安感に襲われた。

 いや、あれは不安感という生やさしいものでは表現しきれない。気持ち悪さや嫌悪感といった、マイナスの感情を凝縮した気味の悪さを感じたんだ。

 しかし、と僕は思う。どうしてそこまで気持ちの悪い場所なのに、僕はあのトイレに通ってしまうのだろう。どうして、あそこでなければならないのだろう。

 思考の奈落へと落ちていく。その終点に待っているのは、どす黒くて得体の知れない何か。

 明日、またあのトイレに行ってみよう。答えが見つかるかもしれない。

 僕はそう決意し、床に就いた。夢は見なかった。


 翌日、僕はありもしない仕事内容をでっちあげて強引に、残業をすることにした。無論、あのトイレに再び行くためだ。

 夜であるなら誰にも邪魔はされないだろう。そう考えてのことだった。

 課内の時計が、音を立てて時間を刻む。

 十七時、十八時、十九時……、そして零時を過ぎ、課内には僕だけしかいなくなった。

 頃合いだ。

 課から出るために僕はデスクから離れる。扉に近づき、ノブに手をかけようとしたところで、カシャン、と背後から何かが落ちるような音がした。

 振り向くが、そこにあるのはいつもと変わらない慣れ親しんだ仕事場だ。

 気のせいだと思い、踵を返したところで足に何かがぶつかる感触。

 そこにあったのは、ピンク色をした、豚の貯金箱だ。

 なぜだかはわからない。でも、僕の手は吸い付くように貯金箱に伸びた。

 手に取ると、それは思ったよりも小さかった。僕はなんとなくそれをポケットに入れると、今度こそ課を出て行った。

 それがまるで習慣になっているかのように、僕は洗面所の前に立った。そうしないとどこか気分が悪かった。

 トイレの蛍光灯の明かりはいつも以上に黄色く感じる。

 くすんだ鏡に映る僕の顔も泥人形のように見えた。

 僕はそうするのが当たり前のように蛇口に手をかけた。無意識に動いた体に何の疑問も抱かず、息を止めて指に力を入れる。

 キィィィィ・・・・・・。

 蛇口がゆっくりと開いていく。しかし当然のように洗面所を埋めるはずの液体が出ない。そのくせ甲高い流水音は蛇口をゆるめる度に大きさを増していく。

 水はどこへ・・・・・・?

 そんなことを頭の隅で思った僕は、下半身の不快感にも気がついた。

 蛇口に手を預けたまま視線を移すと、僕の下半身はポケットから溢れる赤い液体で濡れていっていた。

 ポケットから僕の身体へと、服を侵していきながら股間、足、靴の中へとまで。

 僕は身体が生暖かい物に包まれていくにしたがって、ゆっくりと息を吸った。

 それは満足感のような安心感のような、得も言われぬ感覚。

『イキテイル』と、確認した。

 思えば、あの時感じた不安感というのは、「漏らすかもしれない」という焦燥感に近いものがあったのかもしれない。

 人は、人である限り漏らすという行為に対してある種の絶対的な不安感を感じている。別に小便を漏らしたからといって死ぬわけではないし、社会的な地位を即座に失うわけでもない。だがしかし、それでも人は誰しもが「漏らしたくない」と思っている。

 脅迫観念に近いものだろうか。まるで、漏らした瞬間に自分が死んでしまうスイッチが入るかのような、そんな感覚。

 だからこそ。そういった感情があるからこそ。人は、漏らした時に禁忌を犯した背徳感から『自分は生きている』と思うのかもしれない。

 僕は、そう思い込むことにした。自分が『イキテイル』と思い込むことにした。

 そうでもしなければ、僕はそう遠くない未来にやってくるであろう恐怖に耐えられないからだ。

 死のイメージを纏わせたそれは、僕の背後に迫っていた。

 かしゃん、かしゃん、かしゃん……

 先ほど課内で聞こえた音とよく似た音が聞こえる。

 かしゃん、かしゃん、カシャン……

 音が近づく。

 かしゃん、カシャン、カシャン……

 頭が朦朧とする。下半身を濡らす赤い液体、トイレに充満する空気、耳朶を打つ様々な音。その全てが麻薬のようにさえ感じる。

 カシャン、カシャン、カシャン……

 僕はなぜ、ここに来ようと思ったのだろう。

 カシャンカシャンカシャン……

 なぜ、僕は貯金箱なんて手にしたのだろう。

 カシャンカシャンカシャン……

 ひた、と僕の首筋に生暖かい何かが触れる。

 カシャンカシャンカシャンカシャンカシャン!

 これが『死』、なのだろうか。『イキテイル』から僕はそれを感じられるのだろうか。

 でも、もうよくわからない。

「おい」

 背後から聞こえた声。低く、うなるように、そして息が至極臭い。獣の腐敗臭だ。まるで薬品とカエルが入り交じったような。

 振り返らずにまっすぐ視線を前へ向ける。そこにはひび割れた鏡。

 そういえばポケットの中の貯金箱はこんなにも軽かっただろうか?

「お前のそれ、美味そうだな」

 にやりと笑う顔は、豚の貯金箱にしては不釣り合いで、似合っていた。


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