3、
ここに、一人の男がいる。
水字崇人。23歳。
今、彼の眼下に広がるのは、賑やかな教室。
そして彼の目下の仕事は、自分のクラスの朝礼を行うこと。
これがなかなか大変なのだ。
一晩ぶりに会ううれしさ(?)がそうさせるのか、生徒が生き生きとお喋りをしている。これから朝礼が始まる雰囲気には、とても見えない。
彼自身も、朝礼前といったら、こう、はしゃいでいた気がしないでもない。
しかし、それは何年も前の話である。
立場が変わると、気分はこうも変わるのだな…。彼は痛感する。
彼の目指す職業は、高校教師。6月から一週間ほど、ここ、椎西戸高校に教育実習に来ている。初めはぎこちなかった「学校」も、すっかり馴染んだ。馴染んだのはいいが…
「うぁい! 静かに!!」
ずっと教壇に立っている水字が、シビレを切らして口を開く。
「あれ、先生。指図によらない指導を目指すんじゃないの?」
すっかり水字に馴染んだ生徒の一人が茶化す。
それは水字が、初めてこのクラスに来た時に云わされた「理想の指導」のことだ。
あの時の彼の緊張振りを思い出したのか、生徒の茶化しがうけたのか、明るい笑い声が響く。銘銘が自分の話に夢中になっていた生徒も、それに気付いて笑い、教卓の方に注目する。
「いつまでたっっっても、お前らが気付かないからだよ!」
「先生がそこに来てから、5分しか経ってないじゃないですか」
つい今しがたまで、喋っていた生徒が指摘する。
「5分も、だよ!
気付いたなら喋るのやめろよな、全く・・・ってコラ、
沖野!遅刻だ!」
水字が誰もいない机に向かって叱り飛ばす。
クスクスと周りの生徒が笑う。
「いるのはわかってる、沖野桜!
どさくさに紛れて教室に潜り込むな!!」
水字が睨む空席の机の下から、ひょこっとふてくされた顔が覗いた。
やはり桜だ。
ずりずりと匍匐前進して、水字に気づかれぬように着席するつもりだったらしい。
筋肉の持病があるとか聞いていたが、彼女のオテンバっぷりには舌を巻く。この間のお昼の時間には、水字がまさに食べようとしていたメロンパンにかぶりついて取り上げたし、クラス対抗ドッヂボールの時にはボールをよけまくって内陣の最後の一人となり、我がクラスの全滅を防いだし、廊下は走る水字よりも速く車椅子で逃げるし・・・。
今回は典型的な遅刻逃れが失敗に終わり、桜はこの上なく不機嫌そうだ。
「朝礼がまだ始まってません」
ぶっすりむくれて水字を睨み返す。
「朝礼は云い訳にはならん。
朝礼ではなく、朝礼開始のチャイムに間に合わなければ遅刻だ」
「・・・云い訳ではなく、私はただ事実を述べただけです」
教室がどっと沸く。
やれやれ、とんだ屁理屈野郎だ・・・水字は頭を掻くほかなかった。
「ああ〜、もういい。とにかく席に着け。
いい年した高校生がいつまでも床を這ってるでない」
水字が授業をするときには着かず離れず見守る担任は、朝礼・終礼になると水字に丸投げする。
生徒が水字に馴れるようにしたいのか、水字に荒波に揉まれる経験をさせたいのか、単にめんどくさいだけなのか。
いずれにせよ、担任がいない教室で生徒がハバをきかせて、水字が苦労しているのは確かだ。
水字は、すでに開いてある日誌を読み上げる。
「え〜では始める。
まず、夏休みの課外について」
ええ〜もうかよぉ〜、と教室は騒然。また、収集が付かない状態になる前に、水字は続ける。
「国・数・英、習熟度に別れて行う予定だ。その習熟度とは・・・」
「今回の中間と期末で決まる〜!」
「そうだ。例外的に本人の希望も取るが、あくまで例外だ。日頃の行いが肝心となる」
「先生の誕生日って、6月28日でしたよねぇ?」
「賄賂は一切受け取らん! 学業で示せ! それに私はテストの時にはもういないぞ!」
「ちぇ〜〜」
「しっかり準備して、しっかりがんばってほしい」
「しっかりが二回かぶった〜」
「せんせぇボキャ貧ん〜」
こほん、と水字は咳払いを入れる。
「…では、次の連絡に入る。まじめに聞くように」
「テストはまじめに聞かなくてよかったの〜?」
「実際まじめに聞いてなかっただろうが。・・・ここ最近頻発している行方不明についてだ」
さすがに教室はおとなしくなった。
「昨年冬から、10代の学生の…中・高生だな、行方知れずが多くなっている。
今まで家出だとか、神隠しだとか騒がれていたが、
ついに昨日、警察が誘拐事件として捜査を始めた。
どうやら、同一犯の可能性が高いらしい」
ここで、一人の生徒が静寂を破った。
「なぜだ」
水を差す、というよりは、刺すような、鋭く冷たい声。
「ん、」
突然の不意打ちに、水字は一瞬 間を空ける。
「疑問に思うのは、誘拐事件とされたことか。それとも同一犯の可能性があることか」
尋ねながら声の主を見て、水字はまたびっくりした。生徒たちの反応も同じようだった。
聞いてきたのが、異常なほどめったに口を利かない生徒だったからだ。
名前は…高良といったか。
水字が彼の声を聞いたのは、これが初めてである。
「両方」
素っ気なく云った彼は、ウサギっ毛の茶髪をふわりとゆらして、窓の方を見る。真横を向くので、うなじまで見える。
「まだ、誘拐と決まったわけじゃない。
家出、その他より誘拐の疑いが強くなった、ということだ。
ここ最近行方不明になった子は、家出をするような動機が見当たらなかった。
それから、行方不明者の通学路付近で、似たような不審な男の目撃があったり……」
水字が彼の質問に答えながら高良をちらりと見るが、彼は水字に、白いうなじを向けたままだった。
「…だったりと、そういうことだ。
帰るときは、くれぐれも気をつけるように。
人気のないところで一人になるな。帰りも遅くならないようにしろ」
水字の話が一通り終わると、生徒たちは銘銘しゃべりはじめた。
「げ〜、こわっ」「そうは云っても、塾があるし…」
「ママンに迎えに来てもらったら〜?」「るせぃ!」
「ねーねー、一緒に帰ろうよ〜」
そんな中、彼、高良は一人窓の方を見やったままだった。水字のほうに顔を向けようともしない。
しかし水字の目には、焼き付けられていた。
高良が問うた瞬間、自分に向けた、
凍てつくようなその視線が。