2、
彼女は振り向くことすらできずに、じっと、投げ出された自分の傘を見つめていた・・・
いまいちだな。』
青白く光るPCの液晶。
ずらりと並んだ10p文字の最後尾に、呟きのようなコメントが打ち込まれた。
「えーっ!? どこに文句あんの、大和!」
画面を注視していた女の子が声を上げる。
コメントを打ち込んだ手がキーボードを鳴らして、それに答える。
カタカタ・・・カタッ
『そんなに熱くなるなよ。』
「熱くもなるわよ! 今日一日かけてつくったんだから」
カタカタ・・・
『それでは、さらに良い作品になるように、 僕から桜にアドバイス。
冷静にお聞きくださいませ。』
「・・・そうね、聞くわ」
女の子はおとなしくなった。
その隙に、大和の手はキーボードの上をすばやく動く。
カタカタ・・・タンッ
『ラスト、傘の効果がはっきりしない。』
「むっ、演出なの!」
カタカタ・・・
『息づかいが迫っているのに、』
カタカタ・・・カタッ
『こけた時にすぐ教われないのが不自然です。』
「むむっ、確かに・・・ 後で直す」
カタカタ・・・
『それに、校章が 』
「あ〜、やめやめ! やめ!!
大和、つっこみ多すぎ!」
大和が打ち終わる前に、女の子はぐぐっとのけぞって、目を閉じる。
「もう疲れちゃったぁ〜・・・。ホットミルク飲みたぁ〜い」
『はいはい』
気まぐれな桜に慣れっこな大和は、返事を画面に打ち込んで、桜を乗せた車椅子を机からキッチンへ方向転換させる。
「もうちょっと右・・・」
乗せられている桜が大和に指示を出す。
大和はそれにしたがって、車椅子の方向を微調整する。
「よし、そのまま直進!」
桜の号令で発進する。
ゆっくりと回る大きな車輪が、所狭しと林立している本棚、クローゼットの間をぬける。すると、すぐキッチンにたどり着く。ここはひとり暮らし向けのワンルームなのだ。
「右」
桜の声で、車椅子が右へキュッと方向を変える。
「正面、冷蔵庫」
大和の手が椅子の正面に伸びて、冷蔵庫に届き、扉をぱこっと開ける。
冷気が、覗き込む桜の頬を撫でる。
「扉の裏左奥、牛乳発見!」
UFOキャッチャーのように、大和の腕が桜の指示で動き、牛乳パックを掴んで引き上げる。もう片方の腕が冷蔵庫の扉を閉める。
「左、直進、ストップ、右、流し・・・」
桜はひたすら指示を出す。
大和はそれに黙々と従って、作業する。
実は大和、目が見えない。
口も利けないし、耳も片方聞こえない。
桜の方は、手足を全く動かせない。
今見たように、桜が大和の目と口になり、彼が彼女の手足となって、日々の生活を築き上げている。
物心ついたときから、ふたりはそういう風に暮らしていた。
大和は桜を介けるために彼女を懸命に支え、桜は大和の光となって彼を導く。それに加えて桜は、その勝気でお節介な性格ゆえに、大和の云いたいことを勝手に代弁している。
(おかげで大和の影がすっかり薄くなっているが、それで彼は満足である。)
ふたりは現在、通っている高校の向かいにあるアパートで、二人暮らしをしている。
牛乳とカップを、慣れた手つきで扱う大和。とくとくと、ミルクをたっぷり注いだカップを、レンジに入れて「あっため」のボタンを押す。ブゥンとうなりを上げながら、レンジの皿が回る。
パンパンッ
大和がお尻をたたく。
「なあに、大和」
桜が顔を上げる。
今度は、大和は節をつけて叩く。
パンッ・タ・タ、タ・パパンッ・タ、パパンッ・タ・・・
信号だ。訳すと、『今何時?』。
「11時だよ」
また大和が叩きだす。
「わかってるわよ、もう。
ほどほどにしとくってば」
桜がつんっと横を向く。
どうやら文句を云われたらしい。
それもそうだ。
今日は日曜。学校がないのをいいことに、朝からずっとPCに向かわさせられている。
学校に通うようになってからは、授業、宿題、はっきり云って、日常生活で手いっぱいであるのが本音だ。しかし、彼女には夢がある。
小説家になりたい。
逞しい想像力の翼で、自由に架空の世界を飛び回る彼女の口からは、次から次にアイディアが溢れ出す。それが現実世界に落とされてピチピチ跳ねまわっているのを、鮮度そのままにして言葉という手裏剣ですばやく打ちとめ、彼女でなくても理解できるように文にしていくのが、大和の仕事なのである。長く一緒にいて、お互いのことをわかっているからこそできる、巧妙な連携プレーなのだ。
日常では大和の考えをアウトプットしている桜だが、彼女の夢をかなえるとなると、今度は大和が彼女の考えをアウトプットする。
そのツールとして、PCは最適である。キーの配置を覚えてしまえば、まどろっこしい信号を使わなくても、意思疎通が図れる。
・・・と喜び勇んで始めたタイプだが、こんなに酷使されるとは・・・、大和は根を上げそうになる。
あったまったミルクを持って、大和と桜はもといた部屋に戻る。そこは、机と本棚、クローゼットとベッドが一緒くたに詰められているが、二人にとってはちょっとした〈書斎〉だ。
「んんん」
桜が身をよじった。車を降りたいの合図だ。
大和は一旦カップを机に置き、桜を車椅子からベッドに移す。
「ミルク」
桜の顔に、カップを近づけた。
「んんっ、急につけないで! 火傷しちゃう!」
ふーふーっと桜がカップの中のミルクを吹く。
「いいよ」
ゆっくりカップが近づき、女の子の唇にくっつく。傾けると、雛のくちばしみたいな唇にミルクがつく。唇は、すするようにしてホットミルクを飲む。
「ん」
カップが離れる。
「もうちょっと冷ましてから飲む。そこ、机の上において」
ベッドの横に机はある。手を伸ばして、大和はカップを置く。
大和の手が、てきぱきと空を動く。・・・手話だ。
(お前は、本当に、わがままだな)
「しょうがないじゃない、そういう年頃だもん」
桜が口を尖らせて答える。
(お前は、会った、とき、から、わがままだ!)
「じゃあ性格よ。あきらめて」
にこっと笑む。
「じゃあ、続きを書こう!」
(え〜〜、疲れたんじゃ、なかった、っけ?)
「私が役に立てるのはこれぐらいですから。頑張るぞ〜♪」
(結局、頑張るのは、僕じゃないか)
この調子だと明日は遅刻だ。桜は、8時間睡眠は絶対にゆずらない。
しかし、いったん云い出したら聞かないという、彼女の頑なな性格が身に染みている大和は、それ以上の抵抗をせずにPCに向かう。その画面を桜が覗き込む。
カタカタ・・・カタッ
『で、続きは?』
机の上のホットミルクが、微笑みを漏らすかのように、穏やかな湯気を立てていた。