◇64喜ばしき再会〜3
日が暮れた神殿は僅かな灯りが点るだけで、薄闇に閉ざされてひどく寂しかった。人気がないせいか余計にそう見える王の居住区は、広さに対して人が少ない。
廊下を歩く者もなく、生活音もなく、物音一つない、しんとした空間だ。
リネンに焚き染められた香の上品な香りが漂ってくる。ある人物を連想する、ラベンダーに似た花と微かなムスク系の混ざる香り。
香水に例えれば、爽やかに始まり、次第に濃厚になる気品に溢れた気配は、彼にぴったりだ。その匂いに私の肺は支配されひどく落ち着かなかったが、それも幾らか和らいできた気がした。
この部屋に連れてこられてから、けっこう時間も経っている。天井から吊るされた薄布で幾重にも覆われているその奥には、巨大なベッドがあるらしかったが、あえて見ないようにした。ある程度は覚悟していたがそれが不要であるならば、越したことはない。
あの今朝のユシグの様子…
私は潜めていた息をはあっと吐き出した。
彼は誘拐された姉を、まだ許してはいないのだ。図らずも他の男と逃げた彼女を、疑い、怒り、それでも彼女を求めずにはいられない。なんたる思いの深さか。
拒絶されるでも、受け入れられるでもなかった彼の、幼い頃からの想いは私には想像もつかない。
宙に浮いて、発酵するしかなかった、感情を、今朝の風景を思い出した。
この世界に落とされてから何度も味わってきた鋭い痛みが、ツキンと胸を刺す。
あんな目で見られていて、ユシグにあんな顔をさせて、アストリットならどう思うだろうか。
こんなことばかり考えていたら気持ちが重くなるのは分かっているが、自分の気持ちをどう保てばよいのか分からない。
私は、倉橋和音だ。私の弟は数真だけだ。
ユシグの気持ちを変えることが出来るのは、本物のアストリットだけなのに。
意地を表したい気持ちがあって突っ立っている訳ではないが、夜の闇を馴染ませた部屋の中で所在なく佇んでいた私は、微かな物音に振り返った。ちなみにしっかり化粧をされてナイトドレス一歩手前のシンプルなドレス姿だ。まるでこのシチュエーションを自ら希望してるみたいに見えなくもない…それよりも今の物音だった。
ユシグが来たのだろうか?
夕食の途中でいったん退出した彼はそのまま戻ってこなかった。その様子には深刻さは無かったが、もともとの彼は感情が読み取りにくいほうなので、私には分からなかっただけかも知れない。私的にはともかく、公的なことでユシグが感情を波立たせるのを見たことはない。
何かあったのだろうか。
彼にとって私…否、アストリットは唯一無二の存在みたいだし、言い出した以上、私を自分の好きにするつもりに違いないだろうに。それを土壇場で後回しにするとは、国家レベルの問題でも起きたのか?
…知りたい。
仮に私に関わる事柄なら、脱出のヒントになる可能性はある。そう思うと、朝から沈みっぱなしだった気持ちが少しだけ軽くなったような気がした。
「アストリット様…」
振り向いた先にいた黒髪の少年は恭しく頭を垂れて待っていた。
「あなたは…確か…」
「ユシグ様付きの侍従のランソにございます」
どこか小動物を連想させる12歳くらいの小柄な少年が黒い瞳でこちらを見上げてくる。
彼は言いにくそうに、一拍置くと一息に言ってきた。
「ユシグ様のお出ましですが、遅くなられるそうです。時間ははっきりとはしないので、先にお休みになられるように、とのことです」
「…そう。わかりました」
「何か入り用なものはございますか?キャサリアをお呼び致しましょうか?」
「いいえ。ありがとう」
「では、失礼します」
「あ、待って」
呼び止めると、潤んだ瞳は素直に戸惑いの色を浮かべて瞬いたが、すぐに温かな微笑で私へ向き直った。
きらきらした澄んだ瞳は、あどけなさと一途さに溢れていて、王の従属物を見るような蔑みをいっさい感じない。
「ええと、ランソ君、だっけ」
「はい。ランソとお呼びください、アストリット様」
「君は、ユ…陛下から私のことを何て聞いているの?」
まさか本物の姉だと、言ってはいないでしょうね…
困ったように私を見上げる仕種も、まるでリスみたいだ。
「ごめんね、困らせて。キャサリア以外の人とお話するのって久しぶりだから、浮かれておかしなことを言ってたらごめんね」
少しお話しをしましょうと言うと、話が逸れたことにあきらかにホッとしていた。
何と聞かされているのか、気になる。
ランソ君と神殿の食事について世間話をした後、彼自身について聞いてみる。詳しいことは話すことを禁じられているけれど、小さな村の出身である彼はごく普通に育ち、10歳になると神殿に入ることを志願し、ユシグ付きになったのだという。本人は言わないが、大勢の中から選ばれたのは、ランソ君がそれだけ優秀だってことなのだろう。
神殿について知りたいことは山ほどあったが、あまり色々といっぺんに聞いては怪しまれるので、少し考えて一番重要そうなことを聞いてみることにした。
「ランソ君は、私以外の客人に会ったことはある?」
ランソ君の反応は新鮮だった。
パカン、と開けられた口も目も可愛らしくて、小柄で華奢な外見に合っている。私はホッと頬をゆるませていた。
「客人っていってもね、異界人のことだよ。陛下の花嫁候補は異界人なんでしょう?ランソ君は会ったの?」
「どうしてご存じなんですか…」
やっと呟くと信じられないようにこちらを見てくる。私が幽閉されていることをランソ君も知っている。だから、私がまさか異界人の存在を知っているなんて意外だったのだろう。
状況に翻弄されているランソ君を見て、和んでしまった。子ども相手に何やってるんだと罪悪感がチクリと沸いたが、しかし、ユシグミカエル、それにキャサリア達みたいなツワモノばかりといると自分がひどく不安定に思えるので、ランソ君の少年らしい反応は癒される。人間味があっていい。
「誰かに聞いた気がする。陛下だったかな。で、ランソ君は会ったの?」
「いえ、ないです。ほ、本当ですよ」
「分かった。この神殿にはいないのね?」
「え…あ、はい。そうじゃないでしょうか。お見かけしたことはないです」
一瞬、ランソ君の目が泳いだ。
彼女は、神殿にいる。きっとそうだ。
「ところで、陛下がお忙しいのはその花嫁候補をお迎えする準備のせい?」
「いえ、あの…」
戸惑うランソ君を宥めすかして、口を割らせることに成功した。近いうちにユシグの花嫁のための式典が執り行われるので、ランソ君以外のユシグ付きの者はその準備に追われているのだという。
「国を挙げての式典ですから、準備も大変なのです。ここのところユシグ様は余りお休みになられていなくて、本日はアストリット様にお会いになるのを楽しみになさっておられました」
さり気なく私に気を遣ってフォローするあたり、いい子だ。私の表情が微妙なことに不思議そうなので、慌ててさり気なく余裕たっぷりに微笑んでおいた。
式典、つまり結婚式のことだろうが、花嫁候補とは婚約者のことだろう。そんな存在がいるのならなおさら私なんかを囲っていてはまずいのではなかろうか。処刑塔ならまだしも、さすがに王の居住区に、では外聞が悪過ぎはしないか。花嫁も怒るに違いない。
「私に会うよりも、婚約者に会ったほうがいいと思うけど」
「いえっ、あの…婚約者、って誰でしょうか」
「異界人の花嫁候補だけど…婚約したんでしょう?」
色々ありすぎて記憶が定かじゃないが、ユシグの言い方だとそう取れたように思う。
てっきりそうだと思い込んでいたから、詳しい話を聞けると思っていたのに、思いきりランソ君に否定された。
「花嫁候補は確かに候補ですが、婚約者ではありません。陛下の伴侶となられるかは式典の結果次第なんです。もしかして、アストリット様はご存じないのですか?」
どうやらランソ君は私と話が噛み合わないことから、基本的知識に差があるのではないかと気が付いてくれたらしい。
「式典とは、魂の契約…婚姻契約をお互いに取り交わすことなんです。結婚式とは異なります。陛下は特別な力をお持ちですので、それを受け入れ耐えられる器をお持ちの方でないと、上手く契約は結べないのです」
異界人が現れること自体が稀であるので、若い女性の場合は王の花嫁候補として遇されるのだという。また、ユマの王の花嫁は異界人でなければならないので、花嫁候補を王自らが召喚することもあるのだという。そして婚姻契約の儀を行い、契約が果たせれば、伴侶として正式に迎えられるのだ。
「今回の方は、どちらなの?どこかにいきなり現れたの?それとも召喚されたの?」
「申し訳ありません…私には分かりかねます…」
「じゃあ、今回で何回目の式典なのかは知っている?」
ユシグの年齢からみて、まさか初めての式ではないとは思ったがもう何回も行われていたと知って驚いた。
「あまりお話し出来ることは、私にはないように思えるのです。ユシグ様に叱られてしまいます」
ここにいればいるほど、根掘り葉堀り聴き出されるのに閉口したのかランソ君はそわそわしだした。さすがにベッドルームに長居していることに落ち着かなくなったのかも。
ユシグが知れば、よい顔はしないだろうし。
「遅くまで話に付き合ってくれてありがとう。昼間、時間があればまたお話し出来るかな?」
ランソ君は困った顔をしながらも、ユシグ様のお許しがあれば、と答えてくれたので、そのまま開放してあげることにした。




