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引継書類は、三年分ございます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/10

「離縁状を書く前に、まず引継書類を整えなければなりません」


 それが、王太子殿下の侍従から召喚状を手渡されたときの、私の最初の考えだった。差出人欄には小姓の名しかなく、殿下御自身の署名はない。本文は三行――本日午後二時、応接間にお越しくださいとのこと。それだけ。


 ああ、本日、表紙は剥がされるのだな、と私は思った。


 私の名はクローディア・ヴァン・ローレンツ。伯爵令嬢、二十四歳。三年前から王太子ラインハルト・フォン・ザールバッハ殿下の政略婚約者として、家政会議の議長を務めている。家政会議――王宮の食卓と債務と外交儀典のすべてを統括する、諸侯夫人四十名の連絡網。私はその筆頭者だ。


 そして私の婚約は、その表紙に過ぎない。


 そう自分で言って、自分で苦笑したのは、もうずいぶん前のことだ。表紙は薄くて、めくれば中身が出てくる類のもの。中身がしっかりしていれば、表紙が誰の名であろうと、王宮は止まらない――そう思って、私は三年間、中身を書き続けてきた。


 書き続ければ書き続けるほど、表紙は薄くなる。それは、自然の道理だった。


 私は議長席の家政会議録を閉じ、左頁の余白に「午後二時、応接間、王太子殿下の御召し」と書き入れた。隣の頁には、家計簿の中身が三年分積み重なっている。


 副議長を務める子爵夫人マルガレーテ・フォン・ローテンブルクが、円卓の向こうから声をかけてきた。私より十二歳年上で、家政会議の中で唯一、私を「クローディア様」ではなく「議長」と呼ぶ女性だ。


「議長代理を、お引き受け致しましょうか」


「お願い申し上げます」


 私は筆を置いた。


「離縁状を書く前に、まず引継書類を整えてまいります」


 マルガレーテ様は、私を見て、ほんの少しだけ、頬を緩めた。


「左様でございますか」


 ――その緩みの意味を、私が理解するのは、その三日後のことだった。



 応接間の扉が開いたとき、私はすでに、自分が呼ばれた理由を察していた。


 王太子殿下の隣に、男爵令嬢ティルダ・フォン・グレーフェが腰掛けていたからだ。彼女の蜂蜜色の髪に、私の祖母から譲り受けた銀の髪飾りが挿してあったからだ――いや、それは私のではない、王太子殿下が私に下賜なさった髪飾りで、つまり王家の品物なのだから、王太子殿下が誰に贈り直そうと自由なのだ。


 その理屈を、私はちゃんと自分で組み立てて、自分で納得した。


「クローディア」


 殿下が私を呼ぶ。三年で初めて、私の名を呼ばれた。私の名前は、王宮で最も節約されている資源だったから、最後の一回として聞き留めておこう、と私は思った。


「お前は、本来の妻ではなかった」


 殿下の声には、わずかな緊張があった。隣のティルダ嬢は、わずかに目を伏せている。怯えているのか、勝ち誇っているのか、両方なのか。私はそれを判定するのをやめた。判定する義務が、もう私にはないからだ。


「ティルダこそが、私の妻だ。お前との婚約は、本日をもって解消する」


 私は深く礼をした。三年間、毎朝毎晩、繰り返してきた角度の礼。


「承知致しました、殿下」


 殿下が、わずかに眉を上げた。私が泣くと思っていたのか、抗弁すると思っていたのか、ティルダ嬢に詰め寄ると思っていたのか。私は、そのいずれもしなかった。


「では、引継書類をお渡しいたします」


 私は懐から、薄い手帳を一冊取り出した。家政手帳。家政会議録の要約版で、私が日々持ち歩いている版だ。


「三年分、ございます」


 殿下の眉が、もう一段上がった。


「引継書類、だと?」


「左様でございます。王太子殿下の食事制限、睡眠薬の処方、贔屓の菓子店との支払い、社交カレンダー、外交儀典、諸侯家との連絡網、母后陛下の侍女三名への年金算定――すべてが家政会議の管轄でございます。三年分の記録を整えておりますので、本日中にティルダ様にお渡しいたします」


「そんなものは要らぬ」


 殿下が、苛立ちを隠さず手を振った。


「ティルダが新しく始める。お前の三年など、最初からなかったことにする」


「承知致しました」


 私はもう一度、深く礼をした。


「では、本日の家政会議よりお預け致します。家政会議録は、本日午後三時に発行される議事録をもって、私の管轄外となります」


「……家政会議?」


 殿下の声に、初めて戸惑いが混じった。


「家政会議とは、何のことだ」


 私は答えなかった。答える義務が、もう私にはなかったからだ。ただ、もう一度礼をして、応接間を辞去した。


 扉を閉める瞬間、ティルダ嬢の声が背後から聞こえた。


「家政会議って、何のことかしら」


 私は扉の向こうで、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。


 それは、三年で最初の、私の私生活上の表情だった。



 応接間の扉を閉めて、回廊を三歩進んだとき、私の前に一人の男性が立っていた。


 王弟エメリッヒ・フォン・ザールバッハ殿下。王太子殿下の双子の兄でありながら、王太子の座を弟に譲った方。二十六歳。漆黒の短髪、氷色の瞳、宰相格の身分。三年前、私が王宮に入った日から、ただの一度も口をきいたことのない方。


 私は深く礼をした。


「王弟殿下」


「クローディア・ヴァン・ローレンツ嬢」


 王弟殿下が、私の名を呼んだ。三年で、私の名を呼ばれたのは、本日二度目だった。


「三年前、君の家政会議録の数字が、一度も合わなかった日がない」


 私は顔を上げた。王弟殿下は、いつものように静かな顔で、しかし瞳の奥にだけ、わずかな確信があった。


「君が筆を止めた日は、三度ある。母后陛下が倒れた朝、御祖父様の訃報、そして昨日」


 昨日――私が、ティルダ嬢が祖母の髪飾りを挿しているのを廊下で見かけた日。


「殿下は、家政会議録を、お読みでございますか」


「三年前から、毎週」


 王弟殿下は答えた。


「君が議長に就任した翌週から、私は家政会議録の写しを、宰相経由で受け取っている。週ごとに一冊。三年で、百五十六冊」


 私の指先が、わずかに強張った。


「執務室まで、来てもらえないだろうか」


 王弟殿下が、わずかに身を引いて道を譲った。


「君に、引継書類の話がある」



 王弟殿下の執務室は、王宮の北翼にあった。私が一度も足を踏み入れたことのない区画だった。


 扉が開いた瞬間、私は息を止めた。


 執務机の左側に、家政会議録の写しが、天井近くまで積み上げられていた。一冊一冊が、清書され直していた。私の筆跡ではない。王弟殿下の筆跡だ。私の家政会議録を、王弟殿下が三年間、毎週、ご自身の手で清書なさっていたのだ。


「百五十六冊、ございますね」


 私は声を絞り出した。


「いや、百五十七冊だ」


 王弟殿下が、一冊だけ机の上に置かれていた手帳を指差した。


「今週分は、まだ清書中だ。君の筆を止めた昨日の頁は、まだ私の手元にある」


 王弟殿下が、その手帳を開いた。昨日の頁。私の筆が、わずかに乱れている。普段の私なら、清書し直すところを、昨日はそうしなかった。


「君の鉛筆芯は、三カ月で一本」


 王弟殿下が、淡々と続ける。


「君が会議で筆を止めた三度のうち、母后陛下が倒れた朝の頁は、震えで右上がりに線が傾いている。御祖父様の訃報の頁は、句点の丸みが普段の半分の大きさだ。昨日の頁は――その両方の合成だ」


 私は、椅子の背に手を伸ばした。立っていられなかった。


 王弟殿下が、椅子を引いて、私を座らせた。


「クローディア・ローレンツ嬢」


 王弟殿下が、私の正面に立って、私を見下ろした。氷色の瞳に、わずかな熱があった。


「君の三年は、なかったことにはならない」


「殿下」


「弟は『お前との婚約は、最初からなかったことにする』と言ったそうだが、私はそうは思わない。三年間、君は王宮の中身を書き続けた。中身が消えれば、表紙は意味を失う。表紙が意味を失えば、王宮は止まる」


 私は、顔を上げた。


「殿下」


「合うのは私の方だ」


 王弟殿下が、静かに告げた。


「私が君に合わせ続けてきた。三年間。君の数字に、君の句点の丸みに、君の筆を止めた日に、私が合わせ続けてきた」


「殿下、それは――」


「契約婚約を、提案する」


 王弟殿下は、私の異論を遮らなかった。ただ、答えを待つように、私を見ていた。


「君は、王太子妃ではなく、王弟妃となる。家政会議の議長を、続ける。私は、君の数字を引き継ぐ。引き継ぐとは、君の代わりに書くという意味ではない。君が書き続ける手元を、私が見続けるという意味だ」


「……それは、引き継ぎではないと思いますが」


「引き継ぎだ」


 王弟殿下が、わずかに眉を寄せた。


「三年前から、私はそうしてきた。今日、それを公にするだけだ」


 私は、しばらくの間、答えなかった。


 家政手帳を、私は懐から取り出した。本日午後二時の頁を開いた。「応接間、王太子殿下の御召し」と書いた行の下に、私は新しく一行書き加えた。


「午後三時、王弟殿下執務室、契約婚約の御提案。承諾」


 王弟殿下が、私の手元を覗き込んで、ほんの少しだけ、目を細めた。


 その横顔の、耳だけが、わずかに赤かった。



 王弟殿下の執務室を辞した後、私はそのまま家政会議室に戻った。マルガレーテ子爵夫人が、議長代理として残っていた。


「議長」


 マルガレーテ様が、私を見て、わずかに頬を緩めた。


「お早いお戻りで」


「家政会議録は、本日午後三時に発行される議事録をもって、私の管轄外となります――と、王太子殿下に申し上げました」


「……ほう」


 マルガレーテ様の頬から、緩みが消えた。代わりに、瞳の奥に、何か別のものが灯った。


「では、家政会議は、本日をもって解散ということでしょうか」


「いえ、解散ではございません」


 私は、家政手帳を閉じた。


「議長を、王弟妃に引き継ぎます」


「王弟妃……?」


 マルガレーテ様が、ほんの少しだけ、顎を上げた。


「クローディア様、それは――王弟殿下と」


「契約婚約を、本日午後三時に承諾致しました」


 マルガレーテ様は、しばらく私を見つめた後、ゆっくりと立ち上がり、私の隣に座り直した。


「クローディア様」


「はい」


「奥様方からの伝言が、ございます」


 私は、目を瞬いた。


「奥様方……?」


「家政会議の議員四十名のうち、議長たる御自身を除いた三十九名、それに家政会議録の写しを共有している東部州の協力者十二名、合わせて五十一名の奥様方からの伝言でございます」


 マルガレーテ様が、懐から一通の書状を取り出した。封蝋には、五十一個の印章が並んでいた。


「『クローディア様の引継書類でなければ、私たちは受け取りません』」


 書状の文面は、たった一行だった。


「『あの子は無理よ』、と」


 マルガレーテ様が、わずかに微笑んだ。


「『あの子』とは、ティルダ様のことでございます。三年前、まだ十六歳でいらしたティルダ様が、私の屋敷の茶会に、お招きしたわけでもないのに紛れ込み、私の娘の婚約者の腕にしがみついて泣いた件を、私は忘れておりませんの」


 私は、ただ、手の中の書状を見ていた。


「奥様方は、もう一度、申し上げます。クローディア様の引継書類でなければ、私たちは受け取りません」


「……それは、私が王太子殿下と婚約解消した本日の決定よりも、前から、ということでしょうか」


「三カ月前からでございます」


 マルガレーテ様が、淡々と告げた。


「王弟殿下が、私たち五十一名のうち、御自身を除く五十名に、内々にお話を通されました。『クローディア嬢の三年は、王太子妃の称号などには引き継がせない』と」


 私の指先が、もう一度、強張った。


「王弟殿下は、三カ月前から……?」


「それ以前は、三年前から、お一人で家政会議録を清書なさっていたとのこと。三カ月前に、私たちに、そのうちの一冊をお見せになりました」


 マルガレーテ様が、書状を私の手に押し付けた。


「『中身を、表紙に閉じ込めるな』と、王弟殿下は仰いました。『中身は、書いた者のものだ』と」


 私は、書状を開いた。五十一名の署名が並んでいた。家政会議の三十九名、東部州の十二名。


 私の三年間の、すべての連絡相手だった。



 その日の夕刻から、私の部屋の扉は、ほとんど閉まる暇がなかった。


 最初に訪れたのは、料理長だった。五十代の年輩の男性で、私が王宮に来てから、ずっと殿下の食事を管理してきた方。


「クローディア様、申し訳ございません、殿下の蜂蜜の配分が、分からなくなってしまいました」


「蜂蜜は、銀の砂糖壺の中でございますね」


「左様でございますが、家政会議の許可印がなければ、砂糖壺の鍵が開かないのでございます」


 私は家政手帳を開いた。今朝の議事録の頁を。


「銀の砂糖壺の鍵は、本日午後三時から、議長代理マルガレーテ子爵夫人の管轄に移しております」


「……左様でございますか」


 料理長は、しばらく頭を下げた後、小さく呟いた。


「クローディア様、御無礼を承知でお尋ね致します。明日の朝食以降、殿下の食事は、誰が決めるのでございましょう」


「ティルダ様が、新しく始められると、殿下は仰いました」


「ティルダ様は、家政会議の御出席は」


「ございません」


 料理長は、もう一度、深く頭を下げて、退出した。


 次に訪れたのは、衛兵隊長だった。三十代の精悍な男性で、王太子殿下の御身辺警護を統括している方。


「クローディア様、御無礼を承知でお尋ね致します。明日からの殿下の警護シフト表を、どこからお受け取りすればよろしいのでしょう」


「警護シフト表は、家政会議の儀典分科会で作成しております」


「左様でございますか」


「儀典分科会の委員長は、伯爵夫人ヴィルヘルミナ・フォン・エッシェン様でございます。本日午後三時より、分科会の管轄下に移しております。ヴィルヘルミナ様の御邸に、お問い合わせください」


「殿下の御身辺警護に、家政会議の許可が必要なのでございますか」


 衛兵隊長が、わずかに眉を寄せた。


「警護それ自体には、必要ございません。シフト表の作成と、殿下の御日程との突合に、必要でございます。突合がなければ、警護は『どこを』『いつ』お守りすればよろしいか、分からなくなるかと存じます」


「……承知致しました」


 衛兵隊長が退出した後、馬丁長が訪れた。


「クローディア様、殿下の御乗用馬、ベルベディアの今週分の飼葉配給帳が、見当たらないのでございます」


「飼葉配給帳は、家政会議の家畜分科会で管理しております」


「家畜分科会、でございますか」


「左様でございます。委員長は男爵夫人ヘルガ・フォン・ロイトリンゲン様。本日午後三時より、分科会の管轄下に移しております」


「ヘルガ夫人は、王宮へは……?」


「お越しになりません。御邸にお問い合わせください」


 馬丁長は、手のひらで額を拭ってから、深く頭を下げて退出した。


 侍従長が訪れたのは、その後だった。


「クローディア様、明日の殿下の社交カレンダーを、どこにお問い合わせすればよろしいのでしょう」


「社交カレンダーは、家政会議の社交分科会の管轄でございます」


「分科会の、委員長は……」


「子爵夫人ベアトリクス・フォン・ヘンリー様。御邸は西部州にございます」


「西部州……」


 侍従長は、わずかに肩を落とした。


「明日の殿下の御予定は、明後日には伺えるかも分からない、ということでございますね」


「左様でございますね」


 侍従長は、深く頭を下げて退出した。


 その次に、外交儀典官が訪れた。


「クローディア様、三日後の外交使節団の昼食会、殿下の席次の御確認を……」


「席次の決裁権は、本日午後三時より、家政会議の儀典分科会に移しております」


「ヴィルヘルミナ様、でございますね」


「左様でございます」


 外交儀典官は、席次表の写しを片手に握ったまま、長い間、私の部屋の入り口に立っていた。


「クローディア様」


「はい」


「私が席次表を作っていたのではない、と気づいたのは、本日が初めてでございます」


「左様でございますね」


「三年間、私は、私が作成した席次表を、殿下にお渡ししていると思っておりました」


「左様でございますね」


「……承知致しました」


 外交儀典官は、深く頭を下げて、退出した。


 それから、王宮の宝物庫の鍵番、薬師、東部州との通信使、菓子店への支払い窓口、――合わせて十二名が、私の部屋の扉を順々に叩いた。それぞれが、それぞれの管轄について、家政会議のどの分科会の委員長に問い合わせるべきかを、私から知らされて退出した。


 その十二名のうち、私の名を呼ばずに退出した者は、一人もいなかった。


 その夜、私の部屋の扉が、ようやく閉まろうとしたとき、最後にもう一人、訪問者が現れた。


 母后陛下付きの女官長だった。年輩の女性で、母后陛下の御身辺を四十年近く管理してきた方。


「クローディア様、夜分に恐れ入ります」


「いえ、何用でございましょう」


「母后陛下の侍女三名の年金算定の件でございます」


 私は家政手帳の、今朝の議事録の頁を開いた。


「年金算定は、本日午前の家政会議で、決裁済みでございます」


「左様でございますか」


「決裁書は、本日付で発行されております。お受け取りに、儀典分科会の事務官をお遣わしくださいませ」


 女官長は、私を見て、深く深く、頭を下げた。


「クローディア様」


「はい」


「母后陛下より、御伝言を承っております」


「お聞かせくださいませ」


 女官長が、顔を上げた。


「『書類は、すべて受け取った。中身は、すべて読んだ。三年分、ありがとう』」


 私は、しばらくの間、答えられなかった。


「……お礼を、申し上げてくださいませ」


「承知致しました」


 女官長が退出した後、私は窓辺に立った。


 王宮の北翼に、王弟殿下の執務室の灯りが見えた。


 王弟殿下は、おそらくこの時間も、家政会議録の清書をなさっている。今週分の。私の筆を止めた昨日の頁を、まだ清書中だと仰っていた。


 私は窓際の机に座り、家政手帳の新しい頁を開いた。


「明日の朝食、王太子殿下、調理停止見込み」

「明日の午前、警護シフト表、未定」

「明日の午後、社交カレンダー、未定」

「三日後の昼食会、席次未確定」


 そう書いて、私はその頁を、王弟殿下の執務室宛てに封をした。


 報告書を一通、書いただけだった。それなのに、封をする指先が、わずかに、温かかった。



 翌朝、私の部屋を訪ねてきたのは、料理長ではなく、王太子殿下御自身だった。


「クローディア」


 殿下は、応接間に通される前に、玄関で私の名を呼んだ。三年で、私の名を呼ばれたのは、これで三度目だった。


「戻ってこい」


 殿下の声には、昨日とは違う、わずかな焦燥があった。


「砂糖壺の鍵だ。家政会議録だ。外交使節団の昼食会の食卓配置だ。母后陛下の侍女の年金だ。お前が、書き続けてきたものすべてが、今、どこにもない」


「殿下」


 私は、玄関の段差の上に立ったまま、殿下を見下ろした。


「引継書類は、ティルダ様にお渡し致したいとのお言葉でしたが」


「ティルダは、家政会議の何たるかも知らぬ」


 殿下が、苛立ちをそのまま声に乗せた。


「お前が、私の妻になればよかったのだ。最初から」


「殿下、それは――」


「殿下」


 私の背後で、別の声がした。


 王弟殿下が、私の部屋の応接間から、回廊を経て、玄関にお出ましになった。


「家政会議の議長は、彼女しかいない」


 王弟殿下が、王太子殿下の弟であり、双子であり、王太子の座を譲った兄である人物として、王太子殿下の正面に立った。


「そして、彼女は、本日午前零時をもって、私の婚約者となった」


「兄上」


 王太子殿下の声が、わずかに震えた。


「兄上は、王太子の座を、私に譲ったではないか」


「譲った」


 王弟殿下が、淡々と告げた。


「だが、私が譲ったのは、王太子の座だ。家政会議の議長を、譲った覚えはない」


 王弟殿下が、王太子殿下の隣を通り過ぎ、私の手を取った。


「クローディア・ローレンツ嬢の引継書類は、私が引き継ぐ。三年前から、私はそうしてきた。本日それを公にするだけだ」


 王太子殿下は、しばらくの間、玄関に立ち尽くしていた。


「……お前は、何のために、王太子の座を譲ったのだ」


 王弟殿下は、一度だけ、振り返った。


「王太子の座は、表紙に過ぎない。中身は、別の場所で書かれている」


 私の手を引いて、王弟殿下が応接間に戻った。


 王太子殿下は、玄関に立ったまま、一度も顔を上げなかった。



 三日後、王宮の大広間で、諸侯夫人合議が開催された。


 家政会議の議員四十名のうち、議長たる私を除いた三十九名、そして家政会議録の写しを共有している東部州の協力者十二名、合わせて五十一名の奥様方が、円卓ではなく、扇形に並んだ座席に着座した。中央には、家政会議録の三年分、百五十六冊が積まれていた。


 主宰は、私ではなかった。マルガレーテ子爵夫人だった。


「諸侯夫人合議、開会致します」


 マルガレーテ様の声が、大広間に響いた。


「議題は一つ。家政会議録、三年分の引継ぎについてでございます」


 会場の入り口に、王太子殿下と、ティルダ嬢が立っていた。マルガレーテ様が呼んだのではない。お二人の方から、お見えになった。


 ティルダ嬢の蜂蜜色の髪には、相変わらず、私の祖母から譲り受けた銀の髪飾りが挿してあった。


「マルガレーテ子爵夫人」


 王太子殿下が、声を上げた。三日前と違って、声に焦りが滲んでいた。


「家政会議録は、王宮の所有物である。王太子の婚約者であるティルダ嬢に、引き継がれるべきものだ」


 マルガレーテ様は、振り返らなかった。


「殿下」


 別の夫人が、立ち上がった。伯爵夫人ヴィルヘルミナ・フォン・エッシェン様。家政会議の最古参で、私の前任議長だった方。


「家政会議録は、王宮の所有物ではございません。家政会議の所有物でございます。家政会議は、女性五十一名の連絡網であり、王宮の庇護下にはございますが、王宮の所有下にはございません」


「だが、お前たちは王宮の家臣の妻ではないか」


「家臣の妻でございますが、家政会議の議員でもございます。二つの立場は、別でございます」


「それなら――」


 王太子殿下が、ひと呼吸、置いた。会場の五十一名の奥様方が、全員、王太子殿下の次の言葉を待った。


「家政会議そのものを、王太子の名において解散する」


 会場が、しんと静まり返った。


 ヴィルヘルミナ様は、わずかに、目を細めた。


「殿下」


「何だ」


「家政会議の解散には、議員の四分の三以上の賛成が必要でございます。これは、家政会議が三百年前に定められた折、初代国王陛下――殿下のお祖父様の祖父君のさらに祖父君に当たる御方が、御自ら御署名なさった会則でございます」


「三百年前の会則、だと?」


「左様でございます。御確認なさりたい場合は、王宮文書庫の南棟、第三書架の上から二段目に、原本がございます。家政会議録三年分の中に、その会則の写しも、私どもが整えております。引継ぎの書類の一部として、本日、ご覧いただけます」


 ヴィルヘルミナ様が、中央に積まれた百五十六冊の家政会議録を、片手で示した。


「王太子殿下は、初代国王陛下の御署名を、本日、御取り消しになりますか」


 王太子殿下は、答えなかった。


 その代わりに、ティルダ嬢が、わずかに前に出た。


「殿下、この方々のお話は、もうよろしゅうございましょう」


 ティルダ嬢の声には、わずかな笑いが滲んでいた。


「奥様方の集会など、しょせんは、お茶を飲んでお喋りなさる場でございましょう。三百年も続いておりますの? それは、奥様方が、三百年も暇でいらしたということでございますわね」


 会場の空気が、わずかに、揺れた。


「ティルダ様」


 ヴィルヘルミナ様が、振り返った。声は、低かった。


「お茶を飲んでお喋りする場の三年分の議事録が、ここに百五十六冊、積まれております。お茶のお話を、百五十六冊、お読みになりますか」


 ティルダ嬢が、わずかに頬を引きつらせた。


「私は、家政会議の議員ではございませんから、読む必要はございませんわ」


「左様でございますね。読む必要のない方が、引き継がれる予定でございます。引き継がれるとは、本来、読まれるという意味でございますが」


 ヴィルヘルミナ様の声は、相変わらず、淡々としていた。


「ところで、ティルダ様」


 ヴィルヘルミナ様が、わずかに首を傾げた。


「ティルダ様の母君、グレーフェ男爵夫人は、家政会議の議員でいらっしゃいます。本日の合議に、御欠席でございますね」


 ティルダ嬢の頬が、もう一段、引きつった。


「母は、御体調が……」


「左様でございますか。御体調がお宜しくないところを、お引き留め致しましては申し訳ございません。御快復をお待ち申し上げております」


 ヴィルヘルミナ様が、座席に戻った。


 代わりに、マルガレーテ様が、書状を取り出した。


「皆様、ご承知の通り、本日午前、現議長クローディア・ヴァン・ローレンツ嬢より、議長辞任の申し出を頂戴致しました。理由は、王太子殿下との婚約解消による、王宮御身分の喪失でございます」


 会場の五十一名の奥様方が、一斉に頷いた。


「これに伴い、家政会議は、本日午前、議員ならびに連絡相手五十一名から、新議長への意向確認を実施致しました」


 マルガレーテ様が、書状を開いた。


「結果は、以下の通りでございます」


 会場が、静まり返った。


「五十一名のうち、五十名が、現議長クローディア・ヴァン・ローレンツ嬢の留任を支持」


 王太子殿下の指先が、わずかに動いた。


「反対は、一名のみでございました」


「……一名」


「その一名は、――」


 マルガレーテ様が、書状を閉じた。


「――ティルダ様の母君、グレーフェ男爵夫人でございました。御欠席のため、書面による反対票が、本日午前、私の手元に届いております」


 王太子殿下が、隣のティルダ嬢を、振り返った。


 ティルダ嬢は、視線を逸らした。


 会場の五十名の奥様方の中に、誰一人、ティルダ嬢を見ている者は、いなかった。


 私は、立ち上がった。


「奥様方は、私の名前でしか書類を受け取らないとのことです」


 それが、三日間で初めて、私の口から出た公的な発言だった。


「これが、私の三年でございます」


 私は、扇形の座席を見渡した。家政会議の三十九名、東部州の十二名。私の筆を、私の数字を、私の句点の丸みを、三年間、見続けてきた女性たち。


「殿下、引継書類は、奥様方が、すでに引き継いでおられました。私が殿下にお渡しすると申し上げた三年分は、奥様方の手の中で、すでに引き継がれて、書き続けられておりました。私は、その筆頭者であったに過ぎません」


「……それは、私を排除した、ということか」


 王太子殿下の声が、震えた。


「排除では、ございません」


 私は、深く礼をした。


「殿下が、引継書類を要らぬと仰いました。承知致しました。それだけでございます」


 ティルダ嬢が、王太子殿下の腕を引いた。


「殿下、参りましょう」


 ティルダ嬢の声は、もう、笑ってはいなかった。


「こんな……女たちの集まりに、いる必要は」


「ティルダ様」


 ヴィルヘルミナ様の声が、低く響いた。


「ティルダ様の母君、グレーフェ男爵夫人より、本日午前、辞任届が届いております。御体調を理由として、家政会議の議席を返上なさるとのことでございます。グレーフェ家の議席は、本日をもって、空席でございます」


 ティルダ嬢の蜂蜜色の髪が、揺れた。


「再任命の儀は、現議長クローディア・ヴァン・ローレンツ嬢の承認が必要でございます。議長、再任命を、ご承認くださいますか」


 ヴィルヘルミナ様が、私を振り向いた。


 私は、家政手帳を開いた。本日の議事録の余白に、私は新しく一行書き加えた。


「グレーフェ家、家政会議議席、当面欠員」


「以上でございます」


 私は、家政手帳を閉じた。


 会場の五十名の奥様方が、一斉に頷いた。


 王太子殿下とティルダ嬢が、大広間を辞去した後、マルガレーテ様が、書状を取り出した。封蝋には、もう一つの印章が、新しく加わっていた。王弟殿下の印章だった。


「議長」


 マルガレーテ様が、私を呼んだ。


「外交使節団の昼食会の食卓配置の件、ご決裁をお願い申し上げます」


 私は、家政手帳を、もう一度開いた。



 諸侯夫人合議が閉会した後、私は王弟殿下の執務室へ呼ばれた。


 王弟殿下は、執務机の前に立って、私を待っておられた。


「クローディア」


 王弟殿下が、私の名を呼んだ。三年で、私の名を呼ばれたのは、本日――昨日からの三日間で、これで何度目だっただろう。私は数えるのをやめた。


「契約婚約は、本日午後二時、正式に発表される」


「左様でございますか」


「王宮広間にて、諸侯五十二名の前で発表する。発表者は、私ではなく、母后陛下だ」


 私は、目を瞬いた。


「母后陛下、でございますか」


「母后陛下は、三年前から、家政会議録の写しを、お読みになっている。私が清書した版を、毎週」


 王弟殿下が、机の上の書類を一枚、私に差し出した。母后陛下の筆跡で、本日午後二時の発表文の草稿が書かれていた。


『王弟エメリッヒ・フォン・ザールバッハと、伯爵令嬢クローディア・ヴァン・ローレンツの婚約を、王家として承認する。両名は、家政会議の議長と、その引継ぎ役として、王宮の中身を書き続けてきた。表紙は私が、中身は彼女が、引継ぎ役は王弟が、それぞれの場所で書き続けた。本日、それを公にする』


 私は、草稿を読み終えて、しばらく顔を上げられなかった。


「殿下」


「クローディア」


 王弟殿下が、私の前に立った。


「君の数字を、私が引き継ぐ」


「……それは、引き継ぎではないと、申し上げました」


「引き継ぎだ」


 王弟殿下が、わずかに眉を寄せた。


「私は、君の代わりに書くつもりはない。私は、君が書き続ける手元を、見続ける。これは、引き継ぎではなく、観察と呼ぶべきかもしれない」


「観察、でございますか」


「いや」


 王弟殿下が、わずかに目を細めた。


「観察ではない。三年間、私は君の数字を観察した。今日からは、君を見る。数字の向こうで、誰にも見えないまま筆を止めかけた君を、私は見る」


 私の指先が、もう一度、強張った。


「殿下、それは、観察ではなく――」


「愛している」


 王弟殿下の声は、いつものように、低く、淡々としていた。


「数字の向こうで、誰にも見えないまま、句点の丸みを保ち続けた君を、私は愛している。三年前から。今日も、明日も、その先も」


 私は、しばらくの間、答えなかった。


 私が答えなかった間、王弟殿下は、ただ、私を見ていた。氷色の瞳の奥の、わずかな熱を、隠そうともしないで。


「殿下」


 私は、家政手帳を、懐から取り出した。本日の頁を開いた。


「本日午後二時、王宮広間、母后陛下による婚約発表。承諾」


 そして、その下に、もう一行、書き加えた。


「以後の頁は、王弟妃クローディア・フォン・ザールバッハの家政帳簿として、引き続き三年分つけて参ります」


 王弟殿下が、私の手元を覗き込んで、わずかに息を吐いた。


「……三年では、足りない」


「左様でございますか」


「五年だ」


「承知致しました」


 私は、本日の頁の余白に、もう一度書き加えた。


「以後五年分」


 王弟殿下の耳が、わずかに赤かった。三日前と同じ場所が。


「いや、十年だ」


 王弟殿下が、もう一度、訂正した。


 私は、家政手帳の頁を、もう一枚めくった。



 その夜、私は王弟殿下の執務室で、家政会議録の今週分の清書を、王弟殿下と一緒に行った。


 王弟殿下が左手で紙の端を押さえ、右手で筆を取る。私は、隣の机で、本日の家政会議の議事録を清書する。私の筆跡と、王弟殿下の筆跡が、机一つを挟んで、並んでいる。


「クローディア」


 王弟殿下が、清書を中断して、私を呼んだ。


「君の家政手帳の最後の頁、追記欄に、何を書いている?」


 私は、家政手帳を、ためらいながら開いて、王弟殿下にお見せした。


 最後の頁の追記欄には、こう書かれていた。


「明日の予定:王弟妃殿下として、家政会議の議長を続ける」


 その下に、もう一行。


「明日も、明後日も、その先も」


「……君は、私の言葉を写したのか」


「左様でございます」


 私は、家政手帳を閉じた。


「殿下が三日前、執務室で『今日も、明日も、その先も』と仰いましたので、私の家政手帳の最後の頁の、追記欄に、そのまま写しておきました」


「それは、家政会議の事項ではない」


「左様でございますね」


 私は、家政手帳の表紙を、指でなぞった。


「家政会議の管轄外の事項を、追記欄に書くのは、議長の越権行為でございましょう」


「越権行為だ」


 王弟殿下が、わずかに目を細めて、私を見た。


「だが、追記欄は、議長の私生活に属する。越権行為ではあるが、容認される」


「左様でございますか」


「左様だ」


 王弟殿下が、机に身を乗り出して、私の家政手帳の追記欄に、ご自身の筆で一行を書き加えた。


「明日の予定:王弟妃殿下の隣で、家政会議録の清書を続ける」


 そして、その下に、もう一行。


「明日も、明後日も、その先も。十年、と申し上げたが、訂正する。一生だ」


 私は、家政手帳の追記欄を閉じた。


 引継書類は、三年分ございます――と、私が王太子殿下に申し上げた三日前から、私の家政手帳は、別の人の手で、別の場所で、引き継がれて、書き続けられている。


 中身は、書いた者のものだ。


 そして、書き続ける者のものだ。


 それを、私はもう、知っていた。


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