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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
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09

陽光が燦々と降り注ぐ城の庭園では、まるでこの世のすべての祝福を具現化したかのように、色とりどりの花々が競い合うように咲き乱れ、甘く芳醇な香りが柔らかな風に乗って鼻腔をくすぐっていました。セレーネは、一歩踏み出すごとに足裏を鋭利なガラスの破片で執拗に刻まれ、焼けた釘が骨を貫くような、逃げ場のない劇痛に必死で耐えていました。

しかし、その苦痛を上回るほどの至福が彼女の胸を満たしていました。憧れ続けた王子の隣を歩き、同じ空気を吸い、同じ景色を眺めることができる。その喜びが、彼女の可憐な顔を希望に満ちた笑みで綻ばせていたのです。たとえ声が出なくとも、二人は折に触れて視線を交わし、偶然を装って触れ合う指先から伝わる微かな体温だけで、互いの魂が深く結びついているかのような心地よい錯覚に浸っていました。

セレーネにとって、この穏やかで光に満ちた時間は、永遠に解けることのない幸福な魔法そのものでした。いつか自分がこの国の王妃として迎えられ、海の知恵と地上の豊かさを繋ぐ輝かしい架け橋となる。そんな純粋で、それゆえに危うい未来の青写真を、彼女は一点の曇りもなく夢見ていたのです。


しかし、太陽が地平線の彼方へと沈み始め、庭園に長く不吉な影が伸び始めた頃でした。大理石のベンチに重い腰を下ろした王子は、黄金色に輝く海を見つめながら、それまでの穏やかな表情を一変させ、地を這うような低い声で重い口を開きました。

彼は、愛らしい微笑みを湛えながらも言葉を発することのできないセレーネであれば、王族としての弱音や、誰にも漏らすことのできない国家の命運を託せると信じ、自らの肩にのしかかる過酷な真実を吐露し始めたのです。


「セレーネ、君には隠さず話そう。この国は今、誰の目にも見えぬ速さで、静かに息絶えようとしているのだ。数年前から呪われたように続く大凶作、そして母なる海が牙を剥き、交易船を次々と飲み込んだことで、市場から物資は消え、民は飢えと病に喘いでいる。

私はこの国の王子として、彼らの命を救う義務がある。そのためには、政略的な同盟を結び、潤沢な支援を持つ隣国の、顔も見たことのない王女を妻として迎え入れる以外に、この絶望を回避する道は残されていないのだよ」


王子の横顔には、一個の人間としての愛を貫くことができない無力感と、王族として数万の民の命を背負う悲痛な決意が、深い影となって刻まれていました。その言葉が耳に届くたびに、セレーネの体温は急速に奪われ、指先から血の気が引いて氷のように冷たくなっていくのを感じました。

国を襲う異常な気象、枯れ果てた大地。その原因が、もしあの日、荒れ狂う嵐の真っ只中で冷酷にトライデントを掲げていた父トリトーンの放った呪いによるものだとしたら。

彼女は、王子の最愛の民を苦しめ、彼の幸福を根底から食い荒らしている恐ろしい破壊者の娘なのではないか。その凄まじい疑念が、逃れようのない鋭い刃となって彼女の心臓を深く突き刺しました。


『哀れな小魚。私が愛に浸っている間にも、私の父が撒いた呪いの種は、この大地を腐らせ続けているのよ。私の恋が本当の意味で実ることはない。なぜなら、私は彼からすべてを奪った者の血を引いているのだから』


脳裏に響く自身の冷ややかな嘲笑が、彼女の罪悪感を激しく煽り立てます。真実を伝えたい、私は貴方の敵ではないと叫びたいと願っても、変質してしまった彼女の喉からは、虚しくかすれた吐息が漏れ出るばかりでした。彼女にできるのは、ただ暗く冷たい悲しみの淵で、立ち尽くすことだけでした。


「すまない、こんな辛い話を君に聞かせてしまって。だが、私は君だけには嘘をつきたくなかったのだ」


王子が伸ばした手は、優しく彼女の頬を撫でましたが、その温もりさえも今のセレーネには、受ける資格のない過分な罰のように感じられました。


ついに、静寂を切り裂くようにして、運命の到来を告げる重厚な鐘の音が王宮の塔から鳴り響きました。水平線の彼方、陽光を反射して眩く輝く海原の向こうから、金糸の刺繍を施した巨大な帆を翻した豪華な船団が、ゆっくりとその姿を現しました。

隣国の王女を乗せたその船が、賑わう港の石造りの岸壁にゆっくりと接岸し、重い錨が海中へと下ろされる音が轟きます。着飾った近衛兵たちが整列する中、しなやかにタラップを降りてきた王女の姿を目にした瞬間、セレーネの全身に、心臓を直接氷で掴まれたような総毛立つ驚愕が走り抜けました。

そこに立っていたのは、あの嵐の明けた朝、砂浜で王子を介抱し、自分が身を隠すきっかけとなった修道院のシスターに、あまりにも酷似した容姿を持つ若き女性だったのです。


王子もまた、王女がベールを上げたその瞬間、大きく息を呑み、雷に打たれたように立ち尽くしました。彼の記憶の混濁した底で、微かな希望として守り続けてきた「自分を救ってくれた運命の女性」という輪郭が、目の前の王女が浮かべる慈愛に満ちた微笑みと、完璧なまでに入れ替わり、重なり合っていきます。


「ああ、まさか……。やはりあの時、死の淵にいた私を救い、あの清らかな祈りを捧げてくれたのは、君だったのだね。これは単なる国同士の政略結婚などではない。我々が再び巡り合うことは、神が最初から定めていた唯一の運命だったのだな」


王子の瞳に宿ったのは、義務的な慈しみではなく、熱を帯びた本物の親愛と確信の情でした。それはセレーネにとって、自らの声を犠牲にし、足を裂く劇痛に耐えてまで守り抜こうとした、王子との間に残された唯一の、そして最も純粋な絆さえも、無慈悲に奪い去られた絶望の瞬間でした。

私が貴方を救ったのだと、あの暗い波間を必死に泳いだのは私なのだと、血を吐くような思いで叫びたくても、彼女の喉はただ虚しく震えるだけで、何の音も紡ぐことはできません。隣り合う二人の背中は、今のセレーネには、決して手の届かないはるか遠い世界の幻のように感じられました。


祝宴の喧騒から逃れるように、一人、波しぶきが舞う荒々しい海辺の岩場にうずくまって涙を流していたセレーネのもとに、空を切り裂くようにして一羽の大きな海鳥が舞い降りました。

その鳥は、生気を失った濁った瞳でじっとセレーネの横顔を見つめると、不気味なほどはっきりとした、どこかコーラルの響きを帯びた声で囁き始めました。


「セレーネ、あまりに哀れな子。だが、そんなに悲しむことはない。君を想う心優しい姉様たちが、海溝の底で鎖に繋がれたあの罪人に、自分たちの生命力が詰まった美しい髪をすべて差し出したのだ。

それと引き換えに、君が失ってしまった海の加護を再び繋ぎ止め、人魚の姿を取り戻すための、唯一の宝物を作らせたんだ」


海鳥は鋭く尖ったくちばしをゆっくりと開き、その中から、光を一切反射しない黒曜石を削り出したような、不気味な闇を纏って黒く光るナイフを落としました。


「この刃で、その罪人を切ればいい。殺す必要などない。ただ、傷つけられた罪人には相応の天罰が下り、その正しい行いこそが君を再び高潔な人魚へと戻し、失われた加護を与えてくれるだろう。

ただ、一つだけ気を付けなさい。もし君が嫉妬や憎しみに我を忘れ、罪のない無実の者をこの刃で傷つけてしまえば……その時は君自身が、取り戻せるはずの加護も永遠に失い、光の届かぬ深淵の底へと囚われる、逃れられない罪人となるだろうからね」


セレーネは震える手で、砂の上に落ちた氷のように冷たいナイフを拾い上げました。その鋭利な刃の表面には、まるで絶望の淵に立たされた彼女の心をあざ笑うかのように、暗く不気味な波の模様がいつまでも、ゆらゆらと揺らめき続けていました。


『さあ、勇気を出すのよ。貴女の幸せを奪った者から、正当な権利を取り戻す時が来たわ。そのナイフこそが、偽りの平穏を切り裂く真実の鍵となるの』


心の中に響く誘惑の声に従うように、セレーネは黒いナイフを袖に隠し、婚礼の準備が進む不気味に明るい城へと、重い足取りで戻り始めました。

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