表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
8/11

08

荒れ狂う波を必死の思いで潜り抜け、セレーネは意識のない王子の体を、ようやく冷たい砂浜へと引き上げました。嵐が去り際に見せた夜明け前の海岸は、打ち寄せられた流木や千切れた海藻が散らばり、まるで世界の終わりのような荒涼とした静寂に包まれています。

彼女は、王子の逞しくも力なく横たわる胸を、自身の細い手で懸命に押し続け、その冷え切った口から溜まっていた海水を吐き出させようと必死に抗いました。王子の青白い頬に、自身の塩分と涙で濡れた手をそっと添え、セレーネはこぼれ落ちる涙が砂に吸い込まれるのも厭わず、震える唇を彼の耳元に寄せ、熱く、切実なささやきを漏らしました。


「愛しい王子様、私の運命の人……。まさか、このような過酷な形で初めて直接貴方に触れ合うことになろうとは夢にも思いませんでした。愛しています。海の底で独り、貴方が見上げる月を私も追いかけ、ずっと貴方に憧れて生きてきました。

深海に沈む色とりどりの宝石も、王女としての地位も何も要りません。ただ、貴方が私の傍に居て、その瞳に私を映してくれさえすればいいのです」


彼女の魂を削り出すような切ない独白に応えるように、王子の長く濃い睫毛が微かに震え、重い瞼がゆっくりと、迷いながらも持ち上がりました。しかし、王子の瞳はまだ深い死の淵から戻ったばかりで混濁しており、目の前にいる少女の姿を明確に捉えることはできていません。

セレーネは、彼を再び安らかな眠りへと誘い、かつ生命の灯火を燃え立たせるため、自らの透き通るような、神々しささえ湛えた歌声を、鎮魂歌のように優しく、波の音に混ぜて響かせ始めました。ですが、その美しい旋律を無慈悲に断ち切るように、断崖の上にそびえ立つ修道院の鐘が、朝の訪れを告げる重々しい音色で鳴り響きました。

それと同時に、砂浜へと駆け下りてくる人影が視界に入ります。それは清貧な灰色の衣をまとい、慈愛と驚きをその顔に浮かべた、一人の若いシスターでした。


セレーネの脳裏には、かつて祖母パールが忌々しそうに語った「人魚を化け物として害する、残忍な人間たち」の恐ろしい警告が、鮮烈な警告音となって蘇りました。もしこのままこの場所に留まり、人間に見つかってしまえば、自分は捕らえられ、冷たい檻に入れられて見世物にされるか、あるいは命を奪われてしまう。

彼女は、王子の指先から伝わる微かな体温を手放すことに、胸を引き裂かれるような思いを抱きながらも、身を翻して尾びれで力強く波を蹴り、深い海の中へと姿を消しました。岩陰に身を隠し、冷たい海水に顔を半分沈めながら、シスターが王子を助け起こし、献身的に介抱する様子を遠目で見届けた彼女の瞳には、もはや迷いなど微塵もありませんでした。

彼女は、偽りの平穏に満ちた故郷へは戻らず、自らの運命を決するべく、あの秘密の岩礁へと急ぎました。


暗い岩の隙間に隠していた、あの呪われた小瓶を手に取ると、瓶の中の液体は暗闇で不気味な、しかし抗いがたい魅力を放って揺れていました。セレーネは、これが恩人コーラルを裏切って手に入れた罪の証であることを理解していましたが、もはや後戻りはできません。彼女は、人魚の誇りであり守護でもある「海の加護」を自ら断ち切るその劇薬を、目を閉じて一気に飲み干しました。


『さあ、飲み干して。貴女の喉を焼くその苦しみこそが、愛を掴むための唯一の代償なのよ。美しい声と引き換えに、貴女はあの方と同じ大地を踏みしめる力を手に入れるの』


耳の奥で、魔女のあざ笑うような、それでいて慈悲深いささやきが響き渡ります。次の瞬間、これまでの人生で経験したことのないような、尾びれが真ん中から鋭いナイフで裂かれ、骨が砕け散るような凄まじい激痛が彼女の全身を貫きました。

セレーネは声にならない悲鳴を上げ、自らの喉を掻きむしりましたが、その唇からは、かつて世界を魅了したあの美しい歌声が漏れ出ることは二度とありませんでした。彼女は激痛に意識を遠のかせながら、尾びれが二つの「足」へと形を変えていく、その残酷で神秘的な変容の渦中に沈んでいきました。


一方、堅牢な石造りの城へと救い出された王子は、混濁した意識の底で、失われた記憶の断片を必死に手繰り寄せていました。高く聳える窓から差し込む朝の陽光が、豪華な天蓋付きのベッドを照らしていましたが、彼の心は依然としてあの嵐の夜の、暗く冷たい海域を彷徨い続けていたのです。

潮水で白く霞んだ視界の奥に、誰かが自分に寄り添い、震える声で愛を歌いかけ、冷え切った自分の頬を、まるで壊れ物を扱うような温かな指先で撫でてくれた感覚。それだけが、彼にとって唯一の、そして絶対に手放してはならない真実として刻まれていました。


「あの極限の絶望の中で、私を死の淵から救い出し、あの美しい歌声を響かせてくれたのは、一体誰だったのだろうか。修道院のシスターが駆け寄ってくる直前、私の傍には確かに、何よりも気高い魂を持った誰かが存在していたはずなのだ」


王子の命を受けた家臣たちが、恩人を探して国中を血眼になって捜索し、王宮の広大な謁見の間には、身分を問わず恩賞と王子の寵愛を求める多くの娘たちがひしめき合いました。

豪商の娘は眩いばかりの絹のドレスをまとい、漁師の娘は荒波を越えてきた自らの強靭な肢体を誇示しましたが、王子の静かな、しかし鋭い問いに対し、誰一人としてあの海を渡る風のように澄み渡り、魂を揺さぶる歌声を再現することはできませんでした。欲望に目がくらみ、浅ましい嘘を塗り固めた偽物たちの空虚な言葉を見破るたびに、王子の心は深く重い失望の沼へと沈んでいくのでした。


そんな停滞した空気の中に、衛兵に左右を固められ、足元をふらつかせながら一人の娘が姿を現しました。彼女は自らの声を失っており、ただ静かに佇んでいましたが、その姿が王子の視界に飛び込んできた瞬間、彼の心臓はこれまでにないほど激しく跳ね上がり、呼吸をすることさえ忘れてしまいました。

腰まで届く夜の海を溶かしたような、ゆるやかなウェーブのかかった美しい黒髪。そして何より、困惑と切なさを湛えたその金の虹彩を持つ瞳は、あの日、死の直前に見た波間での輝きそのものだったからです。王子は重厚な玉座から立ち上がり、長い航海の果てに宝物を見つけたかのような、確信に満ちた震える声で呟きました。


「ああ……やはり君だったのか。言葉などなくともわかる。私の魂が覚えている。ようやく、ようやく君に巡り合えた」


セレーネは夢にまで見た豪華な城の広間へと招き入れられ、国賓にも劣らない手厚い歓待を受けることとなりました。目の前のテーブルには、深海では決して目にすることのできない、陽光をたっぷりと浴びて熟した瑞々しい果物が宝石のように山盛りにされ、食欲を強く刺激する複雑なスパイスの香りが漂う肉料理が、湯気を立てて並べられていました。

彼女は、自らの喉がもはや音を奏でられないことを、必死に身振り手振りと、潤んだ瞳の訴えで伝えようとしました。王子はそのいじらしくも健気な様子を愛おしく思い、自らの手で彼女の銀の皿に料理を丁寧に取り分け、まるで小さな子供の身を案じるかのような、慈愛に満ちた優しい微笑みを彼女に向けました。


「言葉が話せなくとも、君のその瞳がすべてを語ってくれている。何も案ずることはない。君がこうして生きて私の前にいてくれるだけで、私の凍てついた心は救われるのだよ。行く当てがないのなら、今日からはこの城を君の本当の家だと思って、いつまでもここにいてほしい」


王子は彼女のために、雲のように柔らかな天蓋付きのベッドと、肌を滑るしなやかな絹の寝衣、そして彼女の足元を飾る精巧な細工の靴を用意させました。しかし、人魚であった彼女にとって、陸上での生活は想像を絶する苦痛の連続でもありました。

一歩足を踏み出すごとに、繊細な足裏を無数の鋭利なナイフで絶え間なく切り裂かれるような、焼けるような劇痛が全身を駆け抜けます。それでも、王子の温かな手が彼女の肩に触れ、その優しさに満ちた瞳で見つめられるたびに、彼女はその痛みを喉の奥で押し殺し、至福の喜びへと昇華させることができました。

彼を見つめるセレーネの瞳には、かつて深海で募らせていたものよりも、はるかに激しく、そして危ういほどに純粋な恋心の火が灯り、二人の心の距離は、誰の目にも明らかなほど急速に重なり合っていくのでした。


『さあ、幸せを噛みしめるがいいわ。その痛みが、貴女の裏切りの証であることを忘れないようにね。王子が向ける愛の眼差しが、いつまでその偽りの姿に注がれるか、楽しみにしておきましょう』


脳裏の奥底で、魔女の冷ややかなあざ笑いが、祝祭の鐘の音に紛れて響いたような気がしましたが、今のセレーネには、目の前の幸福の輝きしか見えていませんでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ