07
深海の底に流れる静寂さえも、今のセレーネにとっては魂を押し潰すような耐えがたい重圧となって、その細い肩にのしかかっていました。かつては安らぎの場であった王宮のきらびやかな天蓋も、今の彼女には偽善と欺瞞の象徴にしか見えず、そこへ戻る勇気を完全に失った彼女は、ただ秘密の岩礁の入り組んだ狭い隙間に、傷ついた小魚のように身を潜めていました。
冷たい岩の窪み、誰の目にも触れない暗がりに隠されたのは、あの魔女から盗み出した禁断の「人化の薬」が入った小瓶です。その不気味な輝きを宿す瓶を見るたびに、彼女の胸の奥は、鋭利な刃で抉られるような激しい痛みに襲われました。自分を慈しみ、正義を説いてきた父や祖母が、実は一人の無実の女性を陥れ、その人生を奪った残酷な加害者であったという、信じがたい疑念。
そして何より、絶望の底で自分を優しく介抱してくれた恩人であるはずのコーラルを裏切り、火事場泥棒のように薬を奪い去った自分自身の卑劣さが、彼女の真っ白だった心をどす黒い後悔で染め上げていくのでした。
「お父様もおばあさまも、あんなに優しく私を抱きしめてくれたけれど、その手は誰かの涙で汚れている罪人のものだったのね。これから先、どんな顔をして二人の前に立てばいいの。
それに、恩を仇で返すような真似をして、薬を盗んでしまった私も、結局はあの人たちと同類だわ。もう、二度とあの日々のように、何も知らずに心から笑うことなんてできない」
彼女は真珠が散りばめられた豪華な寝床に横たわっても、脳裏に浮かぶのは父トリトーンの厳格で威厳に満ちた眼差しや、祖母パールの穏やかで品位ある微笑みばかりでした。しかし、それらすべてが今は、醜悪な真実を覆い隠すための分厚い偽善の仮面に見えてしまい、激しい嫌悪と吐き気を感じずにはいられませんでした。
家族の間に築かれてしまった、目に見えず、しかし決して壊すことのできない透明で強固な不信の壁。それは、彼女が禁断の真実に触れた代償として支払わなければならない、孤独という名の逃れられない呪いでした。
同じ頃、太陽の光さえも絶望して届かないはるか深淵の底では、封印されたはずの魔女コーラルが、自らの指先からどろりと漏れ出す闇の魔力を、愛おしげに弄んでいました。彼女の目の前に浮かぶ水鏡には、港で慌ただしく出航の準備に追われる地上の人間たちの姿が、鮮明に映し出されています。
ずんぐりとした船体を持つ重厚なコグ船には、食糧難に喘ぐ国を救うための山のような物資が積み込まれ、帆には王家の紋章が誇らしげに、しかしどこか不吉に揺れています。
その甲板の上、周囲の喧騒から切り離されたかのように、一際目を引く美貌の王子が、物憂げな表情で寄せては返す波を見つめていました。コーラルはその光景を眺め、ひび割れた醜い唇を歪な形に吊り上げると、心の底から湧き上がるような邪悪な愉悦に浸りました。
すべては、彼女が長い年月をかけて緻密に組み上げてきた、復讐の筋書き通りに動き出していたのです。
セレーネは、もはや人魚の国に漂う息苦しさに耐えかね、何かに導かれるように海面へと向かう回数が、日に日に増えていきました。海風に吹かれ、波を切って進む王子の船団を、彼女は波間に身を隠しながら、必死の形相で追いかけます。
王子は船上でも決して笑顔を見せることはなく、独り手すりに力なく寄りかかっては、何度も何度も重いため息を夜の海へと吐き出し続けていました。飢饉に苦しむ民を背負う王位継承者としての重責、そして隣国との政略的な航海に対する拭い去れない不安。セレーネは彼の発する孤独な波長に強く共鳴し、その愁いを帯びた、深い闇を湛えた瞳に、魂ごと吸い込まれるような奇妙な感覚を覚えていました。
『可哀想な王子様。貴方のその悲しみも、苦しみも、すべてはあの傲慢な人魚たちが招いた結果なのよ。さあ、今こそ報いを受ける時が来たわ』
しかし、運命の歯車は、当事者たちの意思をあざ笑うかのように、無慈悲に、そして急速に回り始めました。王子の船が沖合の難所、牙のように尖った岩礁が並ぶ海域に差し掛かったその瞬間でした。それまで鏡のように穏やかだった水平線の向こうから、どす黒く、禍々しい積乱雲が、巨大な生き物のように猛烈な勢いで湧き起こりました。
雲は瞬く間に天を覆い尽くし、つい先ほどまで世界を照らしていた月明かりや星の輝きを強引に奪い去りました。昼間のような明るさは微塵も残らず、世界は一瞬にして、荒れ狂う嵐の闇、すべてを飲み込もうとする混沌の底へと突き落とされたのです。
「ああ、何てこと……! 恐ろしい嵐が来るわ! お願い、神様、あの方を……王子様を連れて行かないで!」
セレーネは激しく波打つ海面で翻弄されながら、砕け散る白波に視界を遮られ、愛する人の名を叫び続けました。しかし、彼女の悲痛な願いをあざ笑うかのように、雷鳴が轟き、地獄の蓋が開いたかのような暴風雨が王子の船を容赦なく襲い始めたのです。
深海の最果て、水圧さえも凍り付くような暗黒の淵で、魔女コーラルは狂気じみた情熱をその身に宿し、呪いの歌を紡ぎ出していました。彼女のひび割れた唇から漏れ出る音は、かつての美しい調べではなく、幾重にも重なった憎悪が形を成した、耳を劈くような不協和音でした。
彼女が指先を宙に踊らせるたび、澱んだ海水の中に黒い霧が広がり、それが海面へと昇る毒のように渦を巻いていきます。
『風よ、地上の傲慢を吹き散らせ。雷よ、偽りの繁栄を破砕せよ。我が数十年分の憎しみを糧に、荒れ狂う波よ、あの愚かな人間たちを一人残らず飲み込むがいい』
コーラルの呪詛に呼応するように、荒れ狂う海の上では、巨大な竜の如き稲妻が走り、不運なコグ船のメインマストを無慈悲に直撃しました。乾燥した帆は瞬く間に火を吹き、激しく叩きつける豪雨の中でも消えることなく、呪われた業火となって赤黒く燃え上がります。
巨大なうねりが船体を木の葉のように翻弄し、耐えきれなくなった重厚な船底が、断末魔のような鈍い音を立てて引き裂かれました。逃げ惑う船員たちの悲痛な叫び声も、荒れ狂う海神の咆哮にかき消され、王子は激しい衝撃と共に、命を拒絶する極寒の海へと投げ出されました。
「いけない、王子様! 今助けに行きます、どうか死なないで!」
セレーネは、砕け散る白波に視界を遮られながらも、一心不乱に荒波をかき分け、沈みゆく王子の体へと必死に手を伸ばしました。意識を失い、深い青の奈落へと静かに沈んでいく彼の体は、あまりにも脆く、儚い存在に見えました。
彼女は王子の冷たくなった胴体を力一杯抱きかかえ、肺が押し潰されそうな感覚を堪えながら、必死に彼を水面まで押し上げます。海面では激しく叩きつける雨が礫のように肌を打ち、逆巻く波濤が二人の絆を引き裂こうと襲いかかってきました。その混沌の極致において、セレーネは決して見てはならない、恐るべき光景を目にしました。
そびえ立つ波の壁の向こう側、鮮烈な稲光に青白く照らされた海の中央に、威厳に満ちた、しかし冷酷なまでの無表情を貫く父トリトーンの姿が浮かび上がっていたのです。
彼は王家の象徴である黄金のトライデントを高く掲げ、まるで虫の最期を眺めるかのような冷徹な眼差しで、無残に崩壊していく船の終焉を静かに見届けていました。彼が掲げる三叉槍から漏れ出る微かな光が、この嵐の真の支配者が誰であるかを無言で示しているかのようでした。
「お父様……どうして、どうしてこんな残酷なことができるの? 罪のない人間を、私の愛したあの方を、その手で殺そうとするなんて!」
その光景は、セレーネの心に最後まで残っていた家族へのわずかな未練と信頼を、完膚なきまでに打ち砕きました。父はただ過去に罪を犯した人ではなく、今この瞬間も、彼女が最も愛する存在を力でねじ伏せ、奪い去ろうとする破壊者なのだという確信。
彼女の心の中にあった「娘としての愛情」は、激しい憎悪と絶望によって一瞬にして燃え尽きました。王子を救うこと、そしてこの嘘と暴力に満ちた偽りの海の世界を永久に捨てることに、もはや一点の迷いもありませんでした。
セレーネは王子の濡れた髪を痛いほど強く抱き寄せ、冷たくなった彼の胸の鼓動を自らの肌で感じようとしました。彼女は、もはや戻ることのない故郷に背を向け、自らの尾びれをかつてないほどの激しい力でしならせました。遠く、闇の合間に微かに見える地上の岸辺を目指して、狂った海を、そして自身の過去を振り切るように、彼女は死に物狂いで泳ぎ始めました。




