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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
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06

セレーネは、先ほど手渡された琥珀色の薬の瓶を、壊れやすい卵でも扱うように両手で強く握りしめました。掌に伝わる冷たいガラスの感触が、高鳴る心臓の鼓動を鎮めてくれるようでした。彼女は勇気を振り絞り、視線を上げて目の前の痛々しい女性をじっと見つめます。

深海の岩肌にへばりつくわずかな発光苔が、微かな青白い光を放ち、それがコーラルの横顔を仄暗く浮かび上がらせていました。そこに刻まれた無数の皺は、ただの老いではなく、絶望という名の彫刻刀で深く彫り込まれた傷跡のようにも見えます。彼女を縛り付ける錆びついた鉄鎖が、わずかな呼吸の揺れに合わせて、奈落の底で悲鳴のような金属音を静かに響かせていました。


「コーラルさん、私は……ただ迷い込んだわけではありません。あなたに会いに、ここへ来ました。あなたはかつて、誰よりも素晴らしい知識を持ち、当時の王妃様……私のおばあさまのために、人になるための薬を作ろうとした。

それなのに、なぜあなたがこれほどまでに忌み嫌われ、暗い海の底へ封印されなくてはならなかったのですか? 誰かを救おうとしたことが、そんなに重い罪だというのですか?」


その真っ直ぐで汚れのない問いかけに、コーラルは困惑したように細い眉を下げ、力なく首を振りました。彼女の瞳には、かつての栄光を思い出した誇りなどは微塵もなく、ただ過去の苦い記憶を無理やり抉り出されたような、痛切な震えが走っています。濁った海水に漂う彼女の白髪が、まるで彼女の絶望を代弁するように、力なく揺らめいていました。


「人化の薬のことを、そこまでご存知なのね。セレーネ様、あなたのような清らかな方が知るべきことではありません。あの薬は、我々人魚を人魚たらしめる神聖な『海の加護』を、刃で切り裂くようにして無理やり引き剥がす、呪われた禁忌の薬なのです。

平穏と調和を愛する我々の一族にとって、母なる海の慈愛に満ちた守りを自ら投げ捨てるなど、あってはならない冒涜と見なされるのは、至極当然のことなのですから」


「でも、おかしいわ! 記録では、その薬を禁じる法が制定されたのは、あなたがここへ送られた数か月も後のことだったはずよ。おばあさまもお父様も、当時はあなたの研究を支えていたのではないのですか? 今の王……私の父、トリトーンはこの真実を知っているのですか?」


セレーネの必死な、喉を震わせるような訴えに対し、コーラルは長く、深く、澱んだ吐息をつきました。その視線はもはや、目の前にいるセレーネを捉えてはおらず、暗い海底の砂に埋もれ、誰の目からも隠され続けた古い真実の残骸を追っているようでした。

彼女の周囲に漂うマリンスノーが、まるで時の流れを視覚化したかのように、ゆっくりと彼女の肩に降り積もっていきます。


「そこまで……そこまで深く調べてしまったのね。若さとは、時にこれほどまでに残酷な真実を暴き出してしまうものなのですね。

セレーネ様、本当に何があったのか、その血塗られた歴史を知る覚悟がおありですか? それが、あなたがこれまで愛し、信じてきた世界のすべてを根底から覆すような、耐え難いほど不都合な真実だとしても?」


『知りたい』


その瞬間、セレーネの心の中に、今までで最も冷たく、しかし氷の刃のように研ぎ澄まされた透明な声が響き渡りました。それは彼女自身の好奇心を極限まで増幅させ、引き返すための扉を完全に閉ざしてしまうような響きを持っていました。

セレーネは無言のまま、迷いのない意志を込めて強く頷き、コーラルの震える唇から紡ぎ出される次の言葉を、固唾を呑んで待ち続けました。周囲の静寂はさらに深まり、遠くで海嶺が軋む音だけが、不気味な予兆のように鳴り響いていました。


静かに語り始めたコーラルの口から紡ぎ出されたのは、王国の正史として語り継がれてきた英雄譚とは真逆の、悍ましくも惨烈な裏切りの記録でした。深海の冷たい水の中に、かつての熱を帯びた記憶が苦い沈殿物のように広がっていきます。

若き日のコーラルは、王位継承者の一族であり、従兄であるアトラス……今のセレーネの父王と婚約し、互いの魂を分かち合うほどに深く愛し合っていました。しかし、セレーネの母となる一族の娘が現れたことで、その平穏な運命は残酷な不協和音を奏で始めました。

彼女はアトラスを強く、執拗なまでに求め、当時の王妃パールもまた、王国の盤石な安泰のために有力な一族の娘であった彼女を息子に娶らせようと、裏で冷徹な画策を巡らせたのです。若きアトラスは、愛よりも王位への飽くなき野心を選び、かつての恋人であるコーラルを切り捨てるという非情な決断を下しました。

そして王妃パールは、愛する息子の略奪愛と野心を正当化するための生贄として、自分たちの身勝手な欲望を叶えるために献身的に薬を作らせたコーラルに「禁忌を冒した大罪人」という汚名を着せ、この光も届かぬ深淵へと永遠に封印したのです。


セレーネの胸には、息が詰まるような激しい申し訳なさと、これまで神聖なものとして敬ってきた家族への、どす黒い拒絶と隔意が渦巻きました。

目の前で枯れ木のように衰弱しているこの優しい人魚は、ただひたすらに誠実に、愛する者たちのために自らの才能を捧げただけだった。そのあまりにも無慈悲な報いが、この永劫に続く暗闇と孤独だという事実に、セレーネは自分の血筋さえも呪わしく感じられました。


「薬はとうに完成していたのよ。でもね、それは人魚としての魂を切り裂き、海の加護を強制的に断ち切る劇薬。それを使えば、海との唯一の繋がりである美しい声まで、人間でいる間は完全に失われてしまうわ。それは私がここに来る原因となった、あのおぞましい裁判でも声高に語られたように、人魚にとって決して望ましくない、魂を削る代償なの。だからセレーネ様、すべては忘れなさい。この闇の中に、何もかも置いていくのです」


そう重苦しく締めくくると、コーラルはひどく疲弊した様子で、硬い岩棚にゆっくりとその痩せ細った体を横たえました。鎖が岩を擦る不快な音が、彼女の人生の重みを物語るように奈落に響きます。


「久々に声を出しすぎたせいか、ひどく疲れてしまったわ。今となっては、すべては遠い昔の、泡のような話。あなたは純粋な正義感に駆られてここへ来たのかもしれないけれど、もうすべては終わったことなのよ。

いいですか、セレーネ。誰を恨んでもいけません。それこそが、あなたが自分を失わないための唯一の術なのですから。少しここで休んだら、光の届く安全な上へと帰りなさい」


コーラルは、すべての感情を押し殺したような静かな表情で瞳を閉じ、ほどなくして規則正しい、穏やかな寝息を立て始めました。セレーネはその無防備な寝顔を見つめながら、心臓が口から飛び出しそうなほどの激しい葛藤に身を焦がされていました。


『人化の薬を奪い去るなら、今この瞬間しかないわ。これさえあれば、嘘と欺瞞にまみれた家族のもとを永遠に去り、あの人の待つ地上へ行ける』


「でも、そんな恐ろしい裏切りをしたら……彼女を、お父様たちと同じように、さらに奈落へ突き落とすことになってしまうわ」


『いいえ、いまここで躊躇して去ってしまえば、二度とこの場所へは戻れない。これが神が与えた最後のチャンスよ。あの王子様と、二人だけの真実の場所へ辿り着くための、唯一の切符なの!』


「私を助けてくれた、こんなに優しい彼女を、お父様たちと同じように踏みにじれと言うの? 私はそんなに、卑怯な人間になりたいの?」


内なる声は、吹き荒れる冬の嵐のように彼女の理性を激しくなぎ倒し、欲望の炎を煽り立てていきました。気づいた時、セレーネは磁石に吸い寄せられるように棚の奥へと手を伸ばし、あの「人化の薬」の瓶を、震える指先でひったくるように奪い取っていました。

そして、彼女は夢中でその場を泳ぎ出しました。背徳感と罪悪感に押し潰されそうになりながらも、彼女は一度も、ただの一度も振り返ることなく、震える手で深海の圧力を和らげる薬を煽り、光の見えない海溝を必死の形相で駆け上がりました。


「やってしまった。私は、あの方たちと同じ、人面獣心の化け物になってしまった。これから、一体どうすればいいの……」


命からがら秘密の岩礁へと戻り、荒い息をつきながら、手の中にある小さな瓶を凝視するセレーネ。

しかし彼女は、全く気づいていませんでした。背を向けて眠っていたはずのコーラルが、彼女が去った直後、その口角を吊り上げ、暗闇の中でこの世のものとは思えない邪悪な愉悦を浮かべていたことに。

セレーネはただ、自分の犯した取り返しのつかない過ちと、手に入れた「足」という名の、あまりにも脆く儚い希望に震え続けていました。

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