表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
5/11

05

魔女が封印されているという海溝は、海底にぽっかりと開いた巨大な顎のように、底知れぬ静寂を湛えてセレーネを待ち受けていました。その入り口からは、生命の存在を拒絶するかのような冷たく重苦しい湿った気配が絶え間なく立ち昇り、周囲の明るい海流さえも、何かに怯えるようにその場所を避けて渦を巻いています。

セレーネは、岩棚にそっと指をかけ、一度だけ振り返りました。はるか頭上の水面には、今にも消え入りそうな月明かりの残滓が、細く頼りない銀の糸のように揺れています。地上という希望、そしてあの王子の温もりを象徴するその光を瞳に焼き付けると、彼女は固く唇を噛み締め、震える拳を握りしめて、逃げ場のない純然たる暗黒へとその身を躍らせました。


深く、さらに深く、自らの重力に身を任せるように潜るにつれ、凄まじい水圧がセレーネの華奢な胸元を容赦なく締め付け始めました。肺に蓄えたわずかな空気は、目に見えない巨大な鉄の手に握りつぶされるように圧縮され、内側から肺胞を焼き切るような鋭い苦痛が走ります。

彼女の美しい顔は苦悶に歪み、開いた口からは銀色の気泡が幾つも漏れ出し、それは救いを求める間もなく暗闇の中へと吸い込まれて消えていきました。かつて昼間の青空を写したように輝いていた青い鱗は、光の届かぬ深淵でその色彩を失い、死者の肌のような冷酷な灰色へと塗り替えられていきます。


視界はもはや、完全な闇という名の暴力に支配されていました。時折、自ら不気味な燐光を放ちながら、身体がグロテスクにねじくれた深海魚が彼女の目の前を音もなく横切ります。それらの巨大な眼球には知性も慈悲も宿っておらず、ただ動くものを捕食対象として見定める無機質な殺意だけが漂っていました。

セレーネのしなやかだった尾びれは、限界を超えた披露と過酷な水圧によって鉛のように重く、冷たく凍りつき、ついには一掻きすることさえままならなくなりました。頭上からは、マリンスノーと呼ばれる海の上層で命を終えた生き物たちの残骸が、絶え間なく雪のように、静かに、そして虚無的にしんしんと降り注いでいます。

その白い塵が彼女の睫毛や髪に降り積もるたび、彼女自身の命もまた、海の堆積物の一部へと変わりつつあることを実感させられました。


「ああ、私はここで、誰にも知られず消えてゆくのね……。真実に触れることも、あの方の隣に立つことも叶わずに……」


喉の奥で震えるような、悲痛な独り言が漏れました。意識が霧の中に溶け出すように混濁し、冷たい海水と自分の境界線が消失していくような奇妙な感覚の中で、セレーネはゆっくりと、力尽きたように瞳を閉じました。

もはや指先ひとつ動かす力も、自らの命を繋ぎ止めようとする執着も残っておらず、彼女は永遠の眠りに等しい安らぎに身を委ね、抗うことのできない深い暗黒の底へと落ちていきました。


『まだよ、諦めてはいけないわ。貴女が求めた真実、そして愛する人の温もりは、すぐそこで貴女を待っているのよ』


遠く、意識の断崖の向こう側から、優しく、しかし確固たる意志を持った声が響いてきました。そのささやきは、冷え切った彼女の魂に、再び小さな、しかし消えることのない情熱の種を植え付けるかのように、彼女の耳の奥に染み込んでいきました。


どれほどの時間が過ぎ去ったのでしょうか。耳元で、かつて幼い頃に揺りかごの中で聞いたような、穏やかで優しい子守唄が微かに響いているのに気づき、セレーネは散り散りになった意識の断片を、深い霧の中から手繰り寄せるようにしてゆっくりと目を覚ましました。

頬を優しくなぞる手の感触は、この冷酷な深海の温度とは裏腹に驚くほど柔らかく、無償の慈愛に満ち溢れています。セレーネは、自分はあの恐ろしい水圧に耐えきれず命を落とし、今、光り輝く天上の国で、若くして亡くなった母に再会したのだと直感的に確信しました。その柔らかな掌の温もりに身を委ね、彼女の胸には言いようのない安堵が広がります。


「お母様……ずっと、あなたに会いたかった……」


安堵とともに、震える唇から熱い吐息のようなささやきを漏らし、彼女は重い瞼をゆっくりと押し上げました。しかし、ぼやけた視界が次第に焦点を結んだ先にいたのは、彼女が記憶の奥底に大切にしまっていた、若く美しい母の面影ではありませんでした。

視界に飛び込んできたのは、元は鮮やかなバラ色であったことを悲しく物語る、ひどくくすんだ、命の抜けたような白髪の女性でした。その顔には、海溝の底を流れる濁った激流が刻みつけたような深い溝のような皺が幾筋も走り、かつて瑞々しく輝いていたはずの鱗は、光を完全に吸い取られた死灰のような不気味な灰色に変色しています。

そして、何よりも彼女の目を引いたのは、その細く枯れ木のような手首に容赦なく食い込んでいる冷徹な鉄のかせと、身動きをするたびに奈落の静寂を切り裂く、不気味で重厚な鎖の音でした。


「あなたが……あの禁忌の学者の、コーラルなの?」


震える声で、ようやく絞り出すように問いかけるセレーネに対し、その老女は激昂することもなく、ただ、どこか悲しげで、それでいてすべてを慈しみ許容するような、まるで聖母のような清らかな微笑みを浮かべました。

セレーネはその慈愛に満ちた表情の裏に隠された、あまりにも残酷な現実に気づき、はっと息を呑みました。目の前の人物が、実年齢以上に、まるで数百年を生き抜いたかのように老いさらばえて見える理由。それは、身を守るべき「海の加護」を、ある理由によって強制的に奪い去られた結果だったのです。

この人魚は、本来であれば生命を拒絶するはずの過酷な深海環境に、生身のまま晒され続け、その生命力を一刻一刻と、無慈悲に削り取られているのでした。


コーラルは、まるで親の目を盗んで危うい遊びに興じる子供を優しく諭すような、かすれてはいるものの、芯の通った穏やかな声を絞り出しました。彼女の指先は震えながらも、セレーネの濡れた黒髪を優しく整えます。


「このような恐ろしく、呪われた場所に遊びに来てはいけませんよ、小さなお姫様。ここは、もはや神の光も、明日の希望も届くことのない、忘れ去られた終焉の場所なのですから。

さあ、地上へ戻る際、あなたの小さな体が深海の圧力で潰れてしまわないよう、特別な減圧の薬を差し上げますから。それを受け取ったら、一刻も早く、家族が待つ温かなお家へお帰りなさい。」


そう言って、コーラルは岩壁の冷たい感触をそのまま利用して、複雑にくり抜いて作られた古い薬棚を、重い鎖を引きずりながらゆっくりと開きました。彼女が震える手で、琥珀色の液体の入ったラベル付きの小瓶を取り出したその時でした。

セレーネの鋭い金の瞳は、棚の奥の暗がりに、まるで隠されるように置かれた別の瓶を確かに捉えました。そこには、長い歳月を感じさせる古めかしい文字で、「人化の薬」とはっきりと記されていたのです。


『あれさえあれば、貴女を縛るこの尾を捨てて、あの輝かしい地上へ行けるわ』 『あの方の隣に立ち、人として愛され、永遠の幸せを掴み取ることができるのよ』


心の中に、今までで最も鮮明で、抗いがたい烈火のような熱を持った誘惑の声が響き渡りました。それは、セレーネが心に秘めていた切実な願いをそのまま代弁しているようでもあり、どこか奈落の底から差し込まれた、自分以外の誰かの暗い意志のようでもありました。

一度芽生えた、恩人を裏切ってでも望みを叶えたいという後ろ暗い願望は、毒草の蔓が獲物に巻き付くように、瞬く間に彼女の理性を侵食し、黒く塗りつぶしていきます。セレーネはコーラルから差し出された減圧の薬を、従順な少女を装って受け取り、立ち去るフリをしながらも、どうにかしてこの場に留まり、あの禁断の薬をその手に入れる機会を伺おうと冷徹に計算し始めました。


「あの、もっと教えてください! この素晴らしいお薬は、一体どうやって作るのですか? おばあ様から、あなたの比類なき才能と、魔法薬学への深い造詣については、以前から少しだけ伺っていたんです。まさか、こんなに美しい手で作られていたなんて!」


セレーネは、自らの心臓の激しい鼓動が、静まり返った深海の中でコーラルに筒抜けになってしまうのではないかと怯えながらも、わざとらしいほどの称賛と好奇心を込めて、矢継ぎ早に言葉を重ねました。

一族の歴史の闇を、その真実を確かめたいという当初の高潔な目的は、もはや禁断の薬への執着と激しい恋心の中に溶け去っていました。彼女の金の瞳は、かつての純真さを失い、目的を達するためには手段を選ばない、異常なまでの異質な光を放ち始めていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ